狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

思い出の歌 (4) 「青春歌謡」

2006-07-03 08:05:39 | 音楽

筆者と同じ歳の小泉首相はエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」で「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」などヒット曲のさわりを次々に歌い、さらにギターを弾くまねをしたり、プレスリーのサングラスをかけたり大はしゃぎの様子だった。

首相と同年の筆者が初めてエルビス・プレスリーの曲を聴いたのは昭和33年頃小坂一也の歌う「ハートブレイク・ホテル」であった。

アメリカンポップスを英語でいかにも外人風に歌うのが主流だった当時、日本語の歌詞を鼻にかかった独特の歌い方で歌う小坂一也の「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットした。

筆者がご本家プレスリーの声で同じ歌を聴いたのはかなり後になってからだった。

小坂一也はウエスタンバンド「ワゴンマスター」のボーカルでテンガロンはっとのカウボーイスタイルで歌っていた。

小坂一也の歌い方には「独特の魅力」がありプレスリーの歌声を聴いた時はあまりにも本物と違う歌い方に衝撃を受けた。

「ハートブレイク・ホテル」の大ヒットで小坂はウエスタン路線から変身し「青春サイクリング」で青春路線を突っ走ることになる。

無口で有名で、初対面の人には言語障害者と間違われるという逸話がある、が中年になってからは歌手と言うより俳優として活躍した。

◆その頃同じく青春路線を考えていた渡久地政信は人気バンド「ウエスタン・キャラバン」で歌っていたスピッツと言うニックネームの人気者に目をつけた。同バンドでは西郷輝彦の先輩ということになる。

青春歌手・松島アキラの誕生である。
昭和30年代初頭、ジャズ喫茶が全盛であった。 

今で言えばライブ喫茶とでも言うのか、生のバンドをバックに主として洋楽のポップスをうたうボーカル担当はをロカビリー歌手といってレコードはだしていなくても追っかけのいる人気者であった。

同じ頃、吉田正の愛弟子橋幸夫が「潮来傘」で人気者になり当初は時代物・股旅演歌の路線かと想われたが吉永小百合とのディユエット「いつでも夢を」がヒットするや青春歌手路線を驀進する。

「高校三年生」の舟木一夫、「君だけを」の西郷輝彦と組んだ「御三家」で青春歌謡スターブームが訪れる。

吉田門下からは「美しい十代」の三田明、「霧の中の少女」の久保浩が続いて青春歌謡スター路線はフランク永井の都会調ムードに変わる吉田正の得意部門となる。

松島アキラを「湖愁」で一躍青春スターにした渡久地だったが「御三家」に押されて、スピッツは一発屋に終わってしまった。

が、渡久地がその後松島アキラのために作った曲を見ると渡久地の松島アキラ・青春路線の意図が読み取れる。

なお松島アキラは60歳を過ぎてなおファンクラブがあり、全国でライブ活動をしている模様。  

松島アキラの代表曲
●湖 愁(昭和36年10月/1961)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信

●マドロス高校生(昭和37年3月/1962)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信

●あゝ青春に花よ咲け(昭和37年7月/1962)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信

●十代の河(昭和37年9月/1962)
作詞:沖永良一/補作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信

●悲恋湖(昭和38年6月/1963)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信


湖愁 作詞:宮川哲夫 作曲:渡久地政信 唄:松島アキラ                     
 
★松島アキラ(1944- )
東京の京橋出身。作曲家の渡久地政信にスカウトされ、昭和36年に「湖愁」でデビュー。青春歌謡を多く歌い、スピッツの愛称で親しまれた。39年を最後に新曲発売を行わずにライブハウスなどでの活動を主体にしていたが、平成10年に久しぶりのシングルをリリースした。(「誰か昭和を想わざる」より)

(続く)

                     ◇               


小泉首相、米大統領とプレスリー邸を訪問

朝日新聞 2006年07月01日10時14分

 訪米中の小泉首相は30日、ブッシュ大統領夫妻とともに、ロックスターだったエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」を訪ねた。首相は見学の間、記者団を前に「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」などヒット曲のさわりを次々に歌い、さらにギターを弾くまねをしたり、プレスリーのサングラスをかけたり大はしゃぎ。米テレビはニュースとして大きく取り上げた。

写真

米メンフィスのエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」で30日、贈り物のプレスリーのサングラスをかけて、プレスリーの物まねをする小泉首相=AP

写真

「グレースランド」で展示品を見る小泉首相(左)とブッシュ米大統領=30日午前、米・メンフィスで

 両首脳は大統領専用機エアフォースワンで現地入りした。大統領は「彼がエルビスを好きだとは知っていたが、これほどとは知らなかった」。首相は「夢が実現した」と喜んだ。

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思い出の歌 (3) 「さびしい男とチャコ」

2006-07-02 08:12:26 | 音楽

沖縄の学校の新学期に春の印象は無い。

1957年の4月も夏の到来を思わせる暑さだった。

憧れの高校に入学して未だ数日、次の授業の担任教師が入室するのを私は期待の目で待ち受けた。国費帰りの若い男性教師だと聞いていた

その教師は予想外の変わった印象を皆に与えた。
簡単な自己紹介の後、いきなり黒板に公地、公民と書いた。

授業は日本史なので大化の改新から始まるのかと思ったら、それには触れずに「君達、○○学会を知っているか。」と質問をした。
当時の高校1年生は情報に対してウブだった。

未だ米軍の占領下でドルが流通し、本土との交流も当時は外国なみに遠い存在だった。

勿論テレビも普及していない時代だ。 ほとんどの生徒は○○学会の意味が理解できなかった。

それから、その教師は授業はそっちのけでとうとうと○○学会の悪口を述べ立てた。

型破りながらその新任教師はウブな生徒たちの心を掴んだ。

中には「アイツ漱石の『坊ちゃん』を気取っているのではないのか」と皮肉る者もいたが その教師の斜に構えた言動は今までの教師に無い新鮮な印象を皆に与えた。

その頃フランク永井の「東京午前3時」や「有楽町で遭いましょう」がヒットして巷にはその甘い低音が流れていた。

同じフランク永井の曲でそれほどヒットはしなかったが「13800円」と言う変わったタイトルの曲があった。

ある日の授業で件(くだん)の教師いきなり授業で奇妙な行動にでた。
何の前触れも無く黒板に「13800円」の歌詞を書き並べた。

それから資本主義社会における「資本家の卑劣な陰謀」について講義を始めた。

「13800円」の歌詞の内容は詳細は忘れたが当時のサラリーマンの生活を暢気に歌ったモノで「けして多くは無いが、自分の月給は13800円。 楽じゃないがたまには一杯飲めるし、何とかやっていけるさ。」と言った、取り様によっては、けして悲観的でない、陽気な歌だった。

これが卑劣な資本家のインボウの歌だと言うのだ。

13800円と言えば当時の高校生にとって40ドル弱で大金だった。

が、その本土帰りの教師に言わせるとそれは低賃金であり、「13800円」はその低賃金を労働者に納得させる為のインボウだと言うツナガリだった。

情報にウブで純白な生徒の脳細胞はこの一風変わった国立大卒のエリート教師の熱気の篭った授業を真綿の様に吸い込んで行った。

あれから春秋幾たびか過ぎ去り、半世紀と言う時の流れを今更のように感慨を持って想う。
あの教師、いや先生はその後大学教授となり10数年前に退職したと風の噂に聞いた。 お元気でいるのやら。
その先生の授業を半世紀前聞き入った同級生も、既に数年前大学教授を定年になった。
今年の夏は暑くなりそうだ。

ところで当時の人気歌手フランク永井の歌で「13800円」を話題にするのはよっぽどの変わり者で、普通は「有楽町で逢いましょう」に色んな思いを重ねて回想するであろう。


フランク永井には今までの流行歌手に無いバタクサさがあった。

バタくさいとはバターのにおいがする意から「西洋風」と意味だが、当時の社会状況では西洋風=アメリカ風であった。

それまでの人気歌手三橋美智也や春日八郎の日本調なドロくささに比べて名前にフランクというカタカナが入っているだけで歌手そのものが垢抜けて見えた。

フランク永井の経歴もバタくささに色を添えた。

進駐軍のキャンプ地でのトレーラー運転手。

アメリカ軍のクラブ歌手に。1954年(昭和29年)にビクターと契約、ジャズなどを得意とした。

その後都会的なムードが作曲家・吉田正の目にとまり、歌謡曲に転向。

1957年(昭和32年)の「有楽町で逢いましょう」でスターの座を不動のものにする。

「有楽町で逢いましょう」は当時の有楽町そごうデパートのキャンペーンソングだという。

フランク永井の歌で時折出てくる英語の発音も当時はかっこよく聞こえた。(例えば「西銀座
駅前」のABCXYZ等)

もう一つ唐突に思い出したが、その頃ウクレレ漫談の牧伸二がラジオの人気者だったが、その持ちネタの一つ。

フランク永井は低音の魅力 

三船浩も低音の魅力

牧伸二は低脳の魅力  

あーあーいやんなっちゃた 驚いた

 

◆俺 は 淋 し い ん だ

作詩 佐伯孝夫  作曲 渡久地政信  唄 フランク永井

昭和33年

◆夜霧に消えたチャコ 昭和34年

宮川哲夫 作詞    歌 フランク永井
渡久地政信 作曲

★フランク永井(1932- )
宮城出身。進駐軍のトラック運転手などを経てキャンプまわりの歌手となる。昭和30年にレコードデビュー。当初はジャズを歌っていたが、作曲家の吉田正の薦めで歌謡曲に転向、32年に現在の第二京浜を歌った「夜霧の第二国道」がヒット、有楽町そごう開店記念曲「有楽町で逢いましょう」が爆発的なヒットとなった。33年には「羽田発7時50分」、34年には「夜霧に消えたチャコ」がヒット。ほかにも自らスカウトした松尾和子とのデュエット「東京ナイトクラブ」やリメイク曲の「君恋し」などがヒット。「西銀座駅前」の西銀座駅は現在の丸の内線の銀座駅で、当時は銀座駅とつながっていなかったため、西銀座駅の名称であった。紅白の連続出場などを続け一線にあったが、60年に愛人との金銭トラブルから自殺を図り再起不能に。(引用「誰か昭和を想わざる」)

(続く)

 

 

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思い出の歌 (2) 「東京アンナと踊子」

2006-07-01 09:15:58 | 音楽

◆渡久地政信は歌手を売り出すのにも定評があった。

津村謙を「上海帰りのリル」で世に送り出し、春日八郎を「お富さん」でトップ歌手にに押し上げた渡久地政信は押しも押されぬ大作曲家になっていた。

写真から受ける渡久地の印象はは痩せぎすで眼光鋭く音楽家と言うより学者タイプでとっつき難い感がする。

にもかかわらず渡久地の元には全国から歌を聴いて欲しいと弟子志願の歌手の卵が色んな伝を頼って面会に来る。

そんな中に未だセーラー服姿の大津美子がいた。

「先生!歌を聞いてから、駄目なら駄目と言ってください。もし駄目なら私は歌をあきらめます!」大津美子の必死の訴え。

その数分後、渡久地は自分の耳を疑った。
渡久地の耳に響いたのはセーラー服のあどけない少女とは思えない情感豊かなアルトの声。

昭和29年、歌謡曲黄金時代。スター誕生の瞬間だ。 
 

◆東京アンナ 昭和30年 大津美子

藤間哲郎 作詞
渡久地政信 作曲★大津美子(1938- )
豊橋出身。作曲家渡久地政信の弟子。昭和30年、レコードデビュー。銀座のクラブで流行っていたマンボに曲想を得た「東京アンナ」が大ヒット。31年にはハープとチェロを用いて、従来の流行歌の枠を壊す事を狙った「ここに幸あり」がヒット。この歌は結婚式の定番曲となった。33年には「銀座の蝶」がヒットした。その後、日系人への慰問活動などでハワイ名誉市民に選ばれる。55年、クモ膜下出血に倒れ生死の境をさまようが、奇跡のカムバックを遂げた。(引用「誰か昭和を想わざる」)


◆高校時代、フランク永井の登場で「低音の魅力」と言う言葉が流行した。

フランク永井の歌が得意で学園祭では何時も人気者になる男もいた。

洋モノではポールアンカが人気で「ダイアナ」を英語の歌詞で覚えたりするものもいた。

学園祭になると舞台で身をよじってスタンドマイクにしがみ付き「ユーアーマイデスティニー」を歌っていたS君は今どうしているだろう。

フランク永井の他にも低音を売り物にした歌手には三船浩がいた。 
その頃はあまり馴染まなかったがカラオケ時代になって「男のブルース」や「夜霧の滑走路」は筆者の持ち歌の一つになった。

一方低音ではないが良く伸びる美声が自慢の友人がいた。

その頃流行った三浦洸一の「踊子」が得意で友人の集まりがあるとマイク無しを物ともせずに良く聴かされた。 

三浦洸一も美声が自慢でラジオでドイツ・リードを原語で歌うのを聴いた記憶がある。
歌は確か「シューベルトのセレナーデ」だった。


◆踊   子  昭和32年

作詩 喜志邦三  作曲 渡久地政信 唄 三浦洸一

★三浦洸一(1928- )
神奈川県三浦半島の寺に生れる。東洋音楽学校を卒業、昭和27年にビクターに入り、吉田正に師事。28年に「さすらいの恋唄」で歌手デビュー。ポスト竹山逸郎、波岡惣一郎を期待されていたという。同年の「落葉しぐれ」が大ヒット。30年には「弁天小僧」が、31年には川端康成の同名小説をモチーフにした「東京の人」が、32年には「踊子」がヒットした。また、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は当初、スポンサーのそごうが三浦を指名したが、作曲家の吉田正の意向で変更された経緯がある。58年には小森和子らと「笑っていいとも」への出演でも話題となった。本名は桑田利康。(引用は「誰か昭和を想わざる」)

(続く)

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思い出の歌 「リルとお富さん」

2006-06-30 12:16:13 | 音楽

最近の沖縄出身の芸能タレント活躍は目覚しいものがある。

歌手、女優、お笑い芸人とジャンルを言うだけで個人名が数人はすぐ出てくる。

ところで沖縄出身の芸能人の先がけは一体誰だろう。

仲宗根美樹? 嘉手納清美? 大空真弓? それとも沢村みつ子?

やはり南沙織かフィンガーファイブか。 何故か女性パワーが炸裂している。

だが、忘れてはいけない男性が一人いた。

渡久地政信(1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、昭和・平成期の作曲家。

渡久地という名は沖縄ではごく普通の姓で海洋薄公園の近くに「渡久地」という港もある。

因みに渡久地と言う姓には「政」が付く名前が多く(例:政一、政彦、政功)、筆者も数人はすぐ名を思いつく。

渡久地政信は沖縄・恩納村に生まれ、少年期を奄美大島で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビューした。

だが、歌手を断念し1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。

以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。

中山晋平メロディーが日本民謡、古賀政男メロディーが朝鮮民謡、服部良一メロディーがジャズを基調としているのに対し、渡久地メロディーは生まれ育った沖縄・奄美民謡をベースにしているといわれる。

1998年9月13日、肺炎のため死去。享年81


上海帰りのリル 昭和26年
作詞:東条寿三郎
作曲:渡久地政信
唄:津村 謙

 1951(昭和26)年、津村謙が歌って大ヒットし、その声を「ビロードの声」と評されるほどのブームとなった。

昭和27年には新東宝で同名映画が作られている。主演は水島道太郎、香川京子、森繁久弥が主人公の相棒役で出演している。

当時筆者は11歳。 この歌は大ヒットでタンゴ調の前奏は今でも憶えている。

映画は確か国際通りの三越の場所にあった大宝館で上映された。

戦後まだ6、7年しか経っておらず戦前のエキゾチックな国際都市・上海から引き上げてきた人が多かった時代を反映した歌。
 
上海リルという名前は、戦前の昭和9年に公開されたワーナー映画『フットライト・パレード』の主題歌『上海リル』から採られたようだ。

『上海リル』はW・ワーレン作曲・服部龍太郎訳詞で、昭和9年に歌川幸子、10年にディック・ミネが歌ったという記録がある。

日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてた。その混乱のなかで、さまざまな生き別れや死に別れがあった。

「上海帰りのリル」は、そんな社会情勢を背景として作られたもの。

歌詞にある四馬路は上海にあった歓楽街。

「四馬路」とは四頭だての馬車が通れるほどの広い通りの繁華街という意味だという。

ちなみに「ハマのキャバレーに居た」の「ハマ」は横浜のこと。

津村謙(1923-1961)
富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。昭和18年にデビューするが、すぐに出征。戦後、古賀政男門下となり、芸名を「愛染かつら」の主人公である津村浩三と、津村役を演じたスター俳優の上原謙からそれぞれとる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。28年の「待ちましょう」、30年の「あなたと共に」と、寡黙な人柄でその後も着実にヒットを重ねていったが、36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。 (歌手の解説は「誰か昭和を想わざる」より引用http://www.geocities.jp/showahistory/index.html)

                    *

◆戦前の国際都市・上海のエキソシズムと、リルというカタカナ名前の女性の歌から一変、日本の伝統歌舞伎から題材をとった「お富さん」が爆発的に流行ったのは昭和29年、筆者が13歳の頃。

タンゴ風のリズムの「上海帰りのリル」の後は、日本調でのお囃子入りの「お富さん」で作曲者の渡久地政信は当時としてはかなり変わり身の早い作曲家だったようだ。

後に都会ムード調のヒット曲を連発した吉田正が三浦洸一の歌で「お富さん」の二番煎じとも言うべき「弁天小僧」を作曲したのはご愛嬌だ。

が、柳の下にドジョウはいなかった。

結局その三浦洸一も後に渡久地政信の「踊子」でその地位を不動のものにする。

お 富 さ ん

作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信 唱 春日八郎
昭和29年
春日八郎(1924-1991)
会津出身。13歳でエンジニアを志して上京、苦学の末に早稲田大学高等学院の理科に入るが、しばらくの後に東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビューするが、その後は鳴かず飛ばずで、引退を覚悟していた27年、ようやく「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒット。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈であったが、岡のレコード会社移籍で春日にまわってきたものであった。30年代には「別れの一本杉」「山の吊橋」などが次々にヒット。三橋美智也などとともに一世を風靡する。徹夜で飲み明かして、翌日のレコーディングを一発でOKという離れ業も行った。48年には芸術祭賞大衆芸能部門大賞を受賞。平成1年には紫綬褒章、3年には勲四等旭日小綬章を受章。競走馬を所有し、野球チームも主宰するなど趣味多彩の人だった。昭和63年から村田英雄、三橋美智也と「三人の会」で年1回のコンサートを行っていたが、平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、7月の「三人の会」には欠席した。9/6に中野サンプラザでのキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。足の切断手術を本人は覚悟していたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢5丁目だった。(引用は同上)
 
(続く)

 

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想いで歌探しの旅 最終章

2006-06-18 08:52:15 | 音楽

求める歌の歌詞を見つけた時、長い想いで歌探しの旅は終わった。

が、この時点で河井坊茶の歌声に遭遇する事はなかった。

記録のため煩雑を承知で全歌詞を記載する。
 
 「吟遊詩人の詩ーかぐや姫」     作詞作曲 三木鶏郎

  1.はじめの男は印度にわたる
    仏陀の石鉢天然記念物
    ピカピカ光らず真っ黒なので
    よくよく見たらばメイドインジャパン
    (以下くりかえし)
    泣く泣くかぐや姫
    月の出を見て泣きじゃくる 
                 
  2.お次の男は蓬莱山へ
    行きと帰りで千夜一夜
    玉の小枝と思ったら
    話も土産もみんなイミテーション
    (くりかえし)

  3.第三の男が中国船(ぶね)に
    頼んだ衣は火ねずみ防火服
    そこで火をつけ焼いてみたら
    見る見るメラメラ灰と消えた
    (くりかえし)
      
  4.四度目の男は 竜の玉を
    探してこようと のこのこ出かけ
    のりだす荒海 台風 具風
    命からがら 逃げかえる
    (くりかえし)
 
  
  5.最後の男は燕を探す
    今ならさだめし望遠レンズ
    子安の貝をつかんだら
    もっこの綱ぎれドシンと落ちた
    (くりかえし)

「想い出の歌」で河井坊茶が歌う叙事詩はここで終わっている。

しかし『竹取物語』のかぐや姫の物語はこの後も続く。

簡単にその顛末を以下に紹介しておこう。
 

遂にかぐや姫の噂は帝(天皇)の耳にも届き、帝も求婚にやって来るのだが、それさえも断ってしまった。

何とかぐや姫は天皇に失恋の痛手を与えた美女であった。

それから三年が過ぎた頃、かぐや姫は月を観ながら悲しい表情を浮かべるようになる。

心配になった翁(お爺さん)が問いただすと、かぐや姫は「私は月の都の人間、次の十五日に、月から迎えがきます」と答える。

驚いた翁は、帝に相談し、帝は月の使者たちから、かぐや姫を守ろうと兵を揃える。

八月十五日の夜十二時、空が真昼のように明るくなり、雲に乗った月人たちが地上に降り立て来る。

帝たちの応戦は空しく、月人たちの「飛車」によって、かぐや姫は連れ去られ、「天の羽衣」を纏うと、月へと帰っていった。

普通の「かぐや姫」の絵本ではこれで物語は終わるが『竹取物語』では更に話は続く。

かぐや姫が月に帰る際に、翁や帝に不老不死の薬の入る「薬の壺」残していく。

帝はせっかく貰った、この不死の薬を、「かぐや姫に会えないのなら、不死の薬も意味がない」として、天に最も近い山で焼いてしまうよう部下に命じた。

この、薬を焼いた山は後に「ふじの山」、富士山と名付けられる。

かぐや姫の名前は富士山の別名「香具山」からとられたものかもしれない。

(完)

【蛇足】①

「青春の想いでの歌」は畏れ多くも天皇の失恋物語であった。

≪春過ぎて 夏来るらし しろたへの 衣干したり 天香具山 ≫ (万葉集巻1 28) -天皇御製歌


【蛇足】②:本稿を書き始めた時「吟遊詩人の詩ーかぐや姫」の音源をさる知人のご好意で手に入れることが出来た。

プロの歌手ではない「しわがれ声」のあの河井坊茶のオリジナルの音源である。

河井坊茶の声が耳に入った瞬間、時は一気に半世紀の壁を乗り超えた。

それは、まさに感激の一瞬であった。

タイムスリップしたその空間には、ラジオに聞き入る青春真っ盛りの少年がいた。

ここで半世紀の間の「思い込み」をもう一つ白状しよう。

河井坊茶の声は「しわがれ声」だと思い込んでいたが、50年ぶりに聴くその声は渋い味のある声で節回しも見事であった。

当時の人気歌手は三浦光一や岡本敦夫のように美声を誇る歌手が多かったせいで、河井坊茶の声が殊更しわがれ声に思えたのだろう。

しかし、あの時代に敢えて河井坊茶を歌い手に抜擢した三木鶏郎の慧眼には驚く。

今、少子高齢化を愁いる声がある一方、テレビのゴールデン・タイムの歌番組は若者の歌で占拠されている。

「ABCホームソング」や「ラジオ歌謡」のような上質の歌番組をもっと放送して欲しいものである。

高齢化は老齢化につながり、当然心身の老化は避けがたい。

高齢者が老いて益々元気でいるためには体の健康のみならず心の健康も必要である。

青春時代に心に馴染んだ上質の歌を聴く事は心の健康法であ、もっと大人の歌を放送しろと、と小声で訴えるのは我田引水になるのか。

 

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想いで歌探しの旅 第四楽章

2006-06-17 07:06:23 | 音楽

二番目の男へのオネダリにもキツイものがあった。

「東の海に蓬莱と言う山があります。 其処に生える植物で根は白金、茎は黄金そして白玉の実が実るそうです。 その植物が欲しいのです」と。

白金に黄金に白玉の三点セットを探して来いとは何と言う無理難題。

「白金も黄金も玉も何せむに勝れる宝子にしかめやも」と、
山上憶良センセイも詠っているではないか。

だったら、玉にも勝る子供がおればよいではないか。

「さー、ここで何モノにも勝る子宝造りに励みましょう」と、
常日頃のプレイボーイ丸出しのイカガワシイ行為に及ぶわけには行かなかった。

 ♪♪2.お次の男は蓬莱山へ
    行きと帰りで千夜一夜
    玉の小枝と思ったら
    話も土産もみんなイミテーション
    (くりかえし)         ♪
 
  三番目の男には「唐にあると云う火鼠の袈裟衣を取ってきて」と求めた。

火ダルマという言葉は知っているが、そもそも火ネズミという生き物がいる事が分からなかった。

ドブネズミならその辺のどぶの中をチョロチョロしている姿を良く見るが。

それに油を掛けて火をつけたものでは代用できないものか、と不埒な事を考えたりもしたがそれでは火ネズミでは無く焼ネズミになってしまう。

焼トリなら好物なのだが焼ネズミはどうも、と食欲を失ってしまった。

仕方ないので取りあえず船をチャーターして火ネズミの防火服を探しの旅に出る事にした。

♪♪3.第三の男が中国船(ぶね)に
    頼んだ衣は火ねずみ防火服
    そこで火をつけ焼いてみたら
    見る見るメラメラ灰と消えた
    (くりかえし) ♪

四番目の男はこう告げられた。

「龍の首に五色に光る玉があると云われています。それが欲しいのです」。

龍そのものさえも見た事もないのに、その首にかかる五色の玉を求めるとはこの女、可愛い顔をして何と言うタマだ。

だが、待てよ五色の玉は無いが日頃自慢の「二つの玉」はここにある。

が、玉を二つに負けてくれとはとてもミジメで言い出せなかった。

 ♪♪4.四度目の男は 竜の玉を
    探してこようと のこのこ出かけ
    のりだす荒海 台風 具風
    命からがら 逃げかえる
    (くりかえし) ♪

最後の男にも難題が言い渡された。

「燕が抱いている子安貝があるそうです。それを取って来て下さい」。

燕の巣の料理は食べた事はあっても、燕が抱いている貝なんて見た事も聞いた事も無い。

どうやら日頃賞味しているバカ貝とは種類が違うようだ。
      
 ♪♪5.最後の男は燕を探す
    今ならさだめし望遠レンズ
    子安の貝をつかんだら
    もっこの綱ぎれドシンと落ちた
    (くりかえし) ♪ 
    
長い「想いで唄探し」の旅もそそろ終わりに近づいてきた。

説明するまでも無く唄の内容はかぐや姫の物語であった。

かぐや姫が実現不可能な願いを5人のプレイボーイに求めて、キリキリ舞させた挙句振ってしまう御馴染の物語だ。

うろ覚えながらおおよその歌詞の意味は記憶に残っていた。

それで、その後の物語の展開は・・・・・・・・。

(続く)
 

 

 

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想いで歌探しの旅  第三楽章

2006-06-16 07:47:59 | 音楽

半世紀の時の壁を乗り越えてやっとたどり着いた「吟遊詩人の詩ーかぐや姫」。

一風変わった曲想で若き狼魔人を魅了したこの歌は、当時としては、いや今改めて聴いても普通の流行り歌とは、一寸異質な音楽である。(歌詞もメロディーも歌い手も)

この歌について書くには、どうしても作詞作曲をした三木鶏郎について多少触れておかなければならない。

三木鶏郎ときいても、もはや、テレビ・ラジオの世界でさえ知らない人たちが多いだろう。

しかし、60歳以上の人にとって、この名前は、いや名前を知らなくても彼が作った膨大なヒットソングの一つでも聴けばなんらかの感慨を持つはずである。

戦争の恐怖から開放された昭和20年代、ラジオから流れる音楽が庶民の唯一の娯楽であった。

終戦の年まだ4歳の筆者は勿論当時流行した歌の詳しい事情を実体験として記憶しているわけではない。

が、巷に流れる歌のメロディーと歌詞の断片は不思議と鮮明に記憶している。

岡晴夫の「泣くな小鳩よ」(昭和21年)、田端義夫の「かえり船」(昭和21年)、美空ひばりの「悲しき口笛」(昭和22年)等は当時のラジオ或いは大人たちが口ずさむのから聞き覚えた。

当然、三木鶏郎の名を知るのは更に10年経過した昭和30年代になってからである。

音楽的にはまったく素人の風刺音楽グループ、三木鶏郎トリオは、敗戦の翌年、昭和21年1月29日に、「唄の新聞」として、NHKラジオに登場する。

三木鶏郎トリオはプロの芸人ではなく、東大法学部卒の素人の音楽好き三木鶏郎を中心にした学生気分の抜けない素人集団で、プロのが中心の当時としては、画期的であった。

「唄の新聞」は半年後に打ち切られ、やがてNHK番組「日曜娯楽版」の中のコーナー「冗談音楽」として再生する。

三木鶏郎グループは、河井坊茶、三木のり平、小野田勇、千葉信男、丹下キヨ子というメンバーで、この時点で「吟遊詩人ーかぐや姫」の河井坊茶が登場する。

「冗談音楽」はモダンで明るい楽曲の合間を社会風刺の効いたコントでテンポよくつなぐ構成で大人気を獲得。

聴取率は80%とも90%とも言われ、番組からは「僕は特急の機関士で」「田舎のバス」「毒消しゃいらんかね」などのヒット曲が続出した。

またジャズ・バンドの三木鶏郎楽団(ジョージ川口、小野満、鈴木章治、他)も結成、活動の場を舞台、映画にも広げた。

後のテレビ時代になって、クレイジーキャッツ が音楽とコントを結びつけた演出で成功したが、三木鶏郎グループはその先駆けと言うより膨大な数のCMソングを含むヒットソングを座長の三木鶏郎が自ら一人で作詞・作曲したことにこのグループの特異性がある。

あまりにも一人だけ目立ち過ぎる三木鶏郎だが、仲間の河井坊茶については検索してもあまりヒットする項目がない。

昭和25年3月9日付けの産経新聞に「日曜娯楽版に危機 のり平脱退騒ぎ」と言う見出しで河井坊茶に触れた記事があった。

人気の「日曜娯楽版」も三木鶏郎一座の分裂騒動で危機が訪れていたようだったが、それよりも河井坊茶の前身が「暁星中学教師であり中央食品の重役である秋元喜雄氏(河井坊茶)というズブの素人」という記事が興味深い。

随分脱線をしたが半世紀前の狼魔人少年は「河井坊茶とは当時人気の柳家金語楼と同じ系統の落語家出身のラジオタレント」だとばかリ思っていた。

これも半世紀もの間の「勘違い」か、「思い込み」の一つ。

そう、話は「吟遊詩人の詩ーかぐや姫」についてであった。

                  ◇

その娘の美しさの噂は瞬く間にその街の隅から隅へと駆け巡った。

娘の住む屋敷には昔から年老いた夫婦が二人だけで住んでいたが二人に子供がいた話は誰も聞いた事が無かった。

すこし前から老夫婦の家に美しい、それこそ光り輝くような娘が住んでいるとの噂が立ち始めた。

男なら幾つになっても美しき女性を眺めるのは心時めくもの。

この街の5人のプレイボーイ達はこの美女の噂に心穏やかではなかった。

5人とも社会的に高い地位の家柄の生まれで、金には不自由はしなかったし、何よりも若くて独身の気楽な身分だった。

当然の如く女性は相手のほうから近づいて来た。

しかし噂の娘は彼らの周りの女達とは大違い。

自ら男を求めて街を彷徨うようなことはなかった。

例えばもう一人の町の話題の「酔いどれかぐや姫」のように。

青い青い 月の夜
とろり酔いどれ かぐや姫
うつろな笑いを浮かべ
あやしいことばを投げて
おー 町の男を 誘っている
(「酔いどれかぐや姫」阿久 悠 作詞)

深窓の令嬢、或いは箱入り娘と言った表現がぴったりで、家に篭り外を出歩く事は殆ど無かった。

男が家に引きこもるとウジがわいたりカビが生えたりであまり景色の良いものではない。

が、妙齢の見目麗しき女性が深窓に篭るとなると俄然景色も違って見えてくる。

その家の窓明かりは暖かく輝いて見えるし、屋敷に漂う空気の流れにも香しさを感じるようになるから不思議なものだ。

モテる条件を全て具備していると自負する男にとって、自分に何の関心も示さず家に引きこもる女、それも飛びっきりの美女とあってはこれが気にならぬ筈は無い。

初めの男は恋文を出した。
 
切々たる恋情を訴えるには恋文を綴るのが一番適していると信じていた。
 
事実これまでにもこの恋歌綴りにより彼になびかぬ女は一人もいなかった。

返事はこなかった。

次の男は別の作戦に出た。

「将を射んとすれば馬を射よ」これが彼の信念だった。

足しげくその屋敷の老夫婦を訪ねて彼女に対する自分の胸の内を告げた。

しかし、あの娘は自分達の子ではなく天から預かった子なので、自分達ではどうにもならない。

これが老夫婦の返事であった。

三番目と四番目の男は実力行使に出た。

夜といわず、昼といわずその屋敷の周囲をうろつき回った。

塀に穴を開けて覗きを試みたり、挙句の果ては窓をよじ登ろうとして滑り落ち足を挫いたりもした。

不審者として通報される始末であった。

いまならストーカーであり、犯罪者である。

最後の男は町の有力者の息子であった。

最初はゲーム感覚で口説いていたが次第に本気で恋するようになってきて、今では夜も寝られないほどの重い恋病に陥ってしまった。

そこで作戦変更、振られたもの同士皆で共同戦線を張る事にした。

5人の内の誰か一人が彼女の心を射止めても、他のものは潔く身を引くと硬い約束が交わされた。

彼女は個別に男達に会う事は拒んだが、老夫婦の必死の説得で遂に一同揃って会う事は何とか承知した。

男達の前に現れた娘の姿は光輝いていた。

とてもこの世のものとは思えない美しさであった。

昔から女性の美しさを表すのにいろんな例えがある。

「夜目、遠目、傘の内」とは、あからさまに女性を直視しない方が女性は美しく見えると言う例えである。

テレビでも美を売り物にするタレントはライトの位置、強弱を気にすると云う。

そのような努力で残酷なカメラの「目」の直視をぼかしているのだろう。

五人の男達は噂だけではなく実際に何度かその娘を垣間見る機会があった。

しかし、それは何れも「夜目、遠目、窓の内」と言う程度でこのように間近に娘を見るのはその日が始めての経験であった。

5人夫々の熱意の篭った求婚の申し出が終わった頃合を見計らって娘が初めて口を開いた。

「何れのお方のお話も身に余る有り難いお話で光栄でございますが、身は一つしか御座いません」。


「私の欲しい物を賜った方の熱意を汲んで、そのお方の申し出をお受け致しましょう」。

男達はいずれも金と権力には人後に落ちない自信があった。   

手に入らない物のあろうはずが無い。

娘の話に異論は無かった。

娘は初めの男に求めた。

「天竺に佛の御み石の鉢といふもの有るそうです。 それが欲しいのです」。

≪な・な・何だって・・・。 天竺と言えばインドではないか。≫

≪俺は玄奘三蔵ではない! インドカレーで何とか我慢出来ないか≫、

と何時ものように軽口を叩くには目の前の娘の美しさは交合、・・・いや、神々し過ぎた。

 「吟遊詩人の詩ーかぐや姫」 歌:河井坊茶  作詞・作曲:三木鶏郎

♪♪1.はじめの男は印度にわたる
    仏陀の石鉢天然記念物
    ピカピカ光らず真っ黒なので
    よくよく見たらばメイドインジャパン
    (以下くりかえし)
    泣く泣くかぐや姫
    月の出を見て泣きじゃくる ♪ 

(続く)

 

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思い出歌探しの旅 第二楽章

2006-06-15 07:41:31 | 音楽

昨日のエントリーで「想いで歌探しの旅」を書いたら、早速読者から「勘違いがある」とのご指摘を頂いた。

河井坊茶の件の歌はNHK「ラジオ歌謡」の歌ではなく、同じ時期大阪朝日放送の「ABCホームソング」から生まれた歌だったようだ。

その中から「ふるさとのはなしをしょう」「公園の手品師」「川は流れる」等のヒット曲が生まれたようだ。

なにしろ半世紀も前のラジオ番組のこと。
 
NHKの「ラジオ歌謡」と大阪朝日放送の「ABCホームソング」の放送から流れた歌を勘違いするのは仕方ない・・・と自己弁護しつつ先を進む。

                  ◇


河井坊茶という奇妙な名の歌い手というだけで、正確な曲のタイトルが分からない。 

うろ覚えながらかぐや姫の歌だったことは間違いなかった。

ヤフー検索で「かぐや姫」を検索したらかぐや姫関連の曲は南こうせつの一人舞台だった。

云うまでもなく「南こうせつとかぐや姫」は人気グループである。

青春の歌と銘打って・・・「神田川」、「赤提灯」等々が多数出て来るが、求める「我が青春の歌」は何処にも見当たらない。

以前に自分の仕事の業界雑誌に「カラオケ」について駄文を書いた時、「想いでの青春の唄」とは多少の個人差はあるが、18歳を基準に上下に10歳を加えた時代に流行った歌だと独断を書いた。

大雑把に言えば、8歳前後から28から30歳頃に流行った歌覚えた歌ということになる。

南こうせつは1949年生まれなので守備範囲に含まれる。

「神田川」には一寸時代がズレるがそれなりの青春があった。

「神田川」の前奏と間奏のヴァイオリン・ソロの部分が気に入って、ライブ酒場等で下手なヴァイオリンを弾いた事を想いだした。

「かぐや姫」というグループ名なのにこのグループが「かぐや姫」の歌を歌っている事はあまり知られていない。

フォークの一時代を築いた人気グループで、「神田川」、や「夢一夜」はカラオケの定番になっていて、持ち歌にしているご同輩もいるであろう。

南こうせつがまだ無名の頃,これも無名の阿久悠の作詞でフザケタかぐや姫の唄を歌っていた。

作曲者の南高節とは勿論南こうせつのことである。

「かぐや姫」から連想する上品なイメージとかけ離れて、何とオ下劣なお姫様な事!


酔いどれかぐや姫    阿久 悠 作詞 南 高節 作曲

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
あやしいことばを投げて
おー 町の男を 誘っている


探し求めていた我が「かぐや姫」は深窓の令嬢とも言うべき清らかなイメージだ。

検索の旅の途中で遭遇した阿久悠の「酔いどれかぐや姫」によってその清純なイメージは木っ端微塵に打ち砕かれてしまった。

阿久悠もも同じ時代の空気を吸って生きてきた悪友だったのかも知れない。

しかし、旅の途中で脱線してはいけない。

気を取り直して再び検索の迷路に入り込んで行った。

苦節三年。

遂に求める思い出の唄の歌詞にたどり着いた。

検索の旅を彷徨った挙句「たずね歌・さがし歌」(現在閉鎖中の模様)というサイトにたどり着き、そこで求める歌詞に実に半世紀ぶりの対面をした。

求める想いでの歌は「吟遊詩人の歌」で副題が「かぐや姫」であった。

そして歌詞は、五番まで続く壮大な叙事詩であった。

                  ◇

冒頭にも書いた通り何しろ半世紀前のラジオ番組のこと。

勘違いに、思い違い、それにもっと厄介なの「思い込み」。

長年、それこそ半世紀もの間、河井坊茶の歌った「かぐや姫」は岡本敦夫の「白い花の咲く頃」と同じく「ラジオ歌謡」生まれの歌だと思い込んでいた。

そして河井坊茶との対面?によってもう一つの大きな「思い込み」に気がついた、・・・がそれについては後に触れたい。

今「思い込み」が解けて冷静に考えて見ると「ラジオ歌謡」と「ABCホームソング」では扱う歌のニュアンスが一寸違うような気もするのだが。

今後も「思い違い」、「思い込み」等に気がついた方がおればご教示をお願いしたい。
(続く)

 

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想いで歌探しの旅

2006-06-14 07:37:22 | 音楽

昭和30年代初期の頃は、まだラジオが娯楽の主役の座を保っていた。

厚顔、・・いや紅顔の美少年の高校一年であったその頃、同級生の仲間の間で大人気の「ラジオ歌謡」という番組があった。

朝登校すると「ラジオ歌謡」の歌が何時もその日の話題になった。

TVが家庭に普及するのは天皇陛下ご成婚の昭和34(1959)年ごろからである。

「ラジオ歌謡」は、NHKのラジオ第1放送で、終戦の翌年、昭和21(1946)年5月から昭和37(1962)年3月までの16年間で、845曲も放送された。

新作の上品な唄を当時の人気歌手が歌って評判を呼んでいた。

それまでの流行歌が恋や別れやといった男女のしがらみを歌っていたのに対して、自然の美や人間の心情を表した歌詞の歌が多く、抒情性豊かで家族みんなで楽しめるのでホームソングといわれていた。

この番組から流行した歌に「踊子」、「公園の手品師」、「白い花の咲く頃」等がすぐ想いだされる。

当時人気歌手であった三橋美智也や三波春夫の歌とは一味違った上品なメロディーや歌詞の歌が新鮮であった。

番組は朝の登校の時間前後の放送だったようで、それを最後まで聞き終えて家を出るとギリギリで遅刻をしたような記憶がある。

その番組を通じて流行った三浦光一の「踊り子」は、その叙情的な歌詞とメロディーが当時の高校生の間でフランク永井の都会ムードの歌(例えば「有楽町で逢いましょう」)と人気を二分していた。

ラジオ歌謡には他にも「気象台のアンテナ」と言う曲があって好きな曲の一つだったが、あまり流行りはしなかった。

高校を卒業して20年ほど経った頃、久し振りにラジオから流れる「気象台のアンテナ」を耳にして過ぎし高校時代のあの日あの頃が懐かしく蘇ってきて、今更ながら「流行り歌」の持つ力に驚かされた。

その「ラジオ歌謡」で放送された曲で高校卒業以来ずーと気になっている曲が一つあった。

その曲は「気象台のアンテナ」よりも更に流行らなかったせいか、卒業以来現在に至るまで一度もテレビ・ラジオから流れるのを聞いたことがなかった。

音楽・曲の好みは人夫々(それぞれ)で、その時代に流行らなくても何故か気になる曲は誰でも一つや二つは心に秘めていると思う。

その気になる曲はどの歌集、ナツメロ集にも載っていなかった。

その歌を歌った歌手は「踊り子」の三浦光一ような人気歌手ではなかったし、それどころか歌を本業としない河井坊茶と言う喜劇俳優のような人だった。

今で云う「お笑い」のような事をラジオでやっていて、お世辞にも歌が上手いとは言えなかった。

河井坊茶のしゃがれた声で歌う奇妙な節回しのメロディーは今でも覚えているが、歌詞が想いだせない。

ネット検索を始めるようになって歌詞探しの検索の旅に出た。(続く)

 

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