筆者と同じ歳の小泉首相はエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」で「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」などヒット曲のさわりを次々に歌い、さらにギターを弾くまねをしたり、プレスリーのサングラスをかけたり大はしゃぎの様子だった。
首相と同年の筆者が初めてエルビス・プレスリーの曲を聴いたのは昭和33年頃小坂一也の歌う「ハートブレイク・ホテル」であった。
アメリカンポップスを英語でいかにも外人風に歌うのが主流だった当時、日本語の歌詞を鼻にかかった独特の歌い方で歌う小坂一也の「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットした。
筆者がご本家プレスリーの声で同じ歌を聴いたのはかなり後になってからだった。
小坂一也はウエスタンバンド「ワゴンマスター」のボーカルでテンガロンはっとのカウボーイスタイルで歌っていた。
小坂一也の歌い方には「独特の魅力」がありプレスリーの歌声を聴いた時はあまりにも本物と違う歌い方に衝撃を受けた。
「ハートブレイク・ホテル」の大ヒットで小坂はウエスタン路線から変身し「青春サイクリング」で青春路線を突っ走ることになる。
無口で有名で、初対面の人には言語障害者と間違われるという逸話がある、が中年になってからは歌手と言うより俳優として活躍した。
◆その頃同じく青春路線を考えていた渡久地政信は人気バンド「ウエスタン・キャラバン」で歌っていたスピッツと言うニックネームの人気者に目をつけた。同バンドでは西郷輝彦の先輩ということになる。
青春歌手・松島アキラの誕生である。
昭和30年代初頭、ジャズ喫茶が全盛であった。
今で言えばライブ喫茶とでも言うのか、生のバンドをバックに主として洋楽のポップスをうたうボーカル担当はをロカビリー歌手といってレコードはだしていなくても追っかけのいる人気者であった。
同じ頃、吉田正の愛弟子橋幸夫が「潮来傘」で人気者になり当初は時代物・股旅演歌の路線かと想われたが吉永小百合とのディユエット「いつでも夢を」がヒットするや青春歌手路線を驀進する。
「高校三年生」の舟木一夫、「君だけを」の西郷輝彦と組んだ「御三家」で青春歌謡スターブームが訪れる。
吉田門下からは「美しい十代」の三田明、「霧の中の少女」の久保浩が続いて青春歌謡スター路線はフランク永井の都会調ムードに変わる吉田正の得意部門となる。
松島アキラを「湖愁」で一躍青春スターにした渡久地だったが「御三家」に押されて、スピッツは一発屋に終わってしまった。
が、渡久地がその後松島アキラのために作った曲を見ると渡久地の松島アキラ・青春路線の意図が読み取れる。
なお松島アキラは60歳を過ぎてなおファンクラブがあり、全国でライブ活動をしている模様。
松島アキラの代表曲
●湖 愁(昭和36年10月/1961)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信
●マドロス高校生(昭和37年3月/1962)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信
●あゝ青春に花よ咲け(昭和37年7月/1962)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信
●十代の河(昭和37年9月/1962)
作詞:沖永良一/補作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信
●悲恋湖(昭和38年6月/1963)
作詞:宮川哲夫/作曲:渡久地政信
湖愁 作詞:宮川哲夫 作曲:渡久地政信 唄:松島アキラ
★松島アキラ(1944- )
東京の京橋出身。作曲家の渡久地政信にスカウトされ、昭和36年に「湖愁」でデビュー。青春歌謡を多く歌い、スピッツの愛称で親しまれた。39年を最後に新曲発売を行わずにライブハウスなどでの活動を主体にしていたが、平成10年に久しぶりのシングルをリリースした。(「誰か昭和を想わざる」より)
(続く)
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小泉首相、米大統領とプレスリー邸を訪問
訪米中の小泉首相は30日、ブッシュ大統領夫妻とともに、ロックスターだったエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」を訪ねた。首相は見学の間、記者団を前に「ラブ・ミー・テンダー」「好きにならずにいられない」などヒット曲のさわりを次々に歌い、さらにギターを弾くまねをしたり、プレスリーのサングラスをかけたり大はしゃぎ。米テレビはニュースとして大きく取り上げた。
![]() 米メンフィスのエルビス・プレスリーの大邸宅「グレースランド」で30日、贈り物のプレスリーのサングラスをかけて、プレスリーの物まねをする小泉首相=AP |
![]() 「グレースランド」で展示品を見る小泉首相(左)とブッシュ米大統領=30日午前、米・メンフィスで |
両首脳は大統領専用機エアフォースワンで現地入りした。大統領は「彼がエルビスを好きだとは知っていたが、これほどとは知らなかった」。首相は「夢が実現した」と喜んだ。