沖縄戦史の再検証のため、過去ブログ
「母の遺したもの」 宮城初江氏の証言2007-06-28
をサルベージしてを一部編集の上再掲する。
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母の沖縄戦、語り継ぐ 引退した語り部の次女 小学校で初の平和授業 継承の難しさも痛感
「平和が続くように、みんなで考えてみようね」−。約40年間の戦争語り部を5月に引退した安里要江(としえ)さん(98)の次女、比嘉佐智子さん(70)=沖縄県北中城村=が3年生の児童約30人に語り掛ける。中城村の津覇小学校で6日に開かれた平和学習の授業。講師役を務めるのは初めてだ。「母の代わりはできない。でも、できることはやりたい」。語り継ぐ大切さと難しさを感じている。(中部報道部・勝浦大輔)
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記事の概略は、戦後75年経過し、戦争の実体験者である「語り部」の数が少なくなり、戦後生まれの娘が「母の遺志」を受け継いでいく、というもの。
沖縄戦の実体験者が死亡或いは老衰により「語り部」を続けられなくなり、それを戦後生まれの娘が受け継いでいく。
沖縄戦の語り部が歴史的事実の継承として存在するのは「オーラルヒストリー」として基本的に賛同する。
だが、これがイデオロギーに染まった識者やマスコミに利用され、結局事実を歪曲・捏造する例が多いのは残念だ。
歴史歪曲の典型的実例を挙げよう。
20年前、座間味島の集団自決の唯一生き残りである母(宮城初江さん)の「遺言」を捻じ曲げた出版物を発刊。
日本軍は「集団自決の命令をした」などとと証言、座間味島の戦隊長梅澤少佐を社会的に葬った卑劣な「語り部」がいた。
「母の遺したノート」を捻じ曲げた、戦後生まれの娘・宮城晴美氏のことだ。
宮城晴美氏は母を裏切り、歴史を裏切った。
そして沖縄県民を裏切り、結果的に梅澤さんを含む全国民を裏切ったことになる。
■奇怪!本人は被告側の証人で、著書は原告側の物的証拠
『母の遺したもの』の著者・宮城晴美氏は「大江・岩波集団自決訴訟」の被告側(大江・岩波)の「証人」である
その一方、宮城晴美氏は原告側(梅沢、赤松)の「物的証拠」である『母の遺したもの』の著者でもある。
一言で言えば同じ裁判の「集団自決の軍命」を巡り宮城晴美氏本人は被告側の証人であるが、その著書は原告側の物的証拠と言うことになる。
さらに詳しく言うと宮城晴美は同じ裁判で「軍命を主張する被告側」の証人であるが、その一方その著書『母の遺したもの』は、軍命否定する原告側」の物的証拠である。
それだけに地元紙が報じる宮城晴美氏の“証言”は分りづらい。
「『自著』が誤解されている」という弁解を理解できる読者が何人いるだろうか。
「自著」に綴られているのは「母の遺した真実の声」ではなかったのか。
宮城晴美氏の証言と著書との齟齬について 『母の遺したもの』から中学生向けに要約した服部 剛氏の「沖縄戦集団自決の軍命令の真相」が分かりやすいのでよ以下に抜粋する。http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_hattori2.html
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4.「集団自決」は軍命令だったのか~梅沢隊長の場合
「なぜ、赤松隊長は死ぬまでだまっていたのか?」。何か、人には言えぬ事情がありそうですね。それは、もう一つの「集団自決」事件とされた座間味島の梅沢隊長のケースを検証すると明らかになります。
次の資料は、『母の遺したもの』という本の抜粋で、宮城初枝さんという人の証言 です。この本は、宮城さんの娘さんが書いたものです。宮城初枝さんは集団自決事件に至るいきさつ一部始終を見ていました。この後、たまたま村のみんなと別行動だったので一人だけ生き残ることができたのです。
【宮城初枝さんの証言①】
<村の助役の宮里盛秀さんに「これから梅沢隊長の所に小銃弾をもらいに行くから一緒に行ってほしい」と頼まれました。
宮里助役は梅沢隊長に「もはや最後の時が来ました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬をください」。わたしは息が詰まらんばかりに驚きました。
重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせたまま、じっーと目を閉じたきりでした。梅沢隊長はやおら 立ち上がり、沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」と私たちの 申し出を断ったのです。私たちも仕方なくそこを引き上げて来ました。
ところが途中、宮里助役は役場職員の宮平恵達さんに「各壕を廻ってみんなに忠魂碑の前に集合するように…」と伝令を命じたのです。宮平さんは各壕をまわって大声で呼びかけました。「これから玉砕をするので忠魂碑前に集まって下さい」> (宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)
こうして、集団自決となったわけです。ここ座間味島でも、軍の自決命令はありませんでした。それどころか、梅沢隊長は助役の申し出を断っていますね。実際に、自決命令を出したのは誰でしたか?
村の助役を務める宮里盛秀氏だったのですね。
軍の命令による住民の集団自決
↓ なかった(自決を促したのは、村のリーダー) |
村のリーダーが村民に集団自決を命じた明確な理由は、今となっては想像する他はありませんが、その原因となりうる出来事がその半年ほど前にありました。実は、梅沢隊長と懇意にされている岩田義泰さん(自由主義史観研究会理事)から、私は梅沢隊長の手記を提供していただいています。それによると、昭和19年11月3日の明治節に沖縄県知事以下民間諸団体が那覇の波の上神社に集合して、蹶起大会が催されたそうです。軍とは無関係の行事で、この大会には沖縄全島の自治体の長をはじめ、離島の責任者すべてが参加しています。もちろん座間味島からも田中村長とともに宮里助役が参加していました。大会の席上、日露戦争従軍の勇士が登壇し、「県民は軍に協力して戦おう。老若男女は沖縄古来の風習に従って行動し、戦えない者は自決しよう!」と提言したというのです。会場は悲壮な空気に包まれ、一同、決意を新たにしたということでした。この大会以来、渡嘉敷・座間味の村のリーダーたちは、すでに自決を決意していたと思われますが、どうでしょうか。
5.誰が、なぜウソの証言をしたのか
実は、先の『母の遺したもの』の中に、戦後12年目のたいへん重要な出来事が書かれています。次をお読みください。
【宮城初枝さんの証言②】
<貧しいながらも住民の生活が落ち着きだした1957(昭和32)年4月、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母(宮城初枝)は島の長老から呼び出され、「梅沢隊長から自決命令があったことを証言するように」と言われたそうである。母が梅沢隊長のもとへ出かけた五人のうち唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。
援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)は、軍人や軍属(軍に雇用されている者)を対象とした法律で、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されていなかった。ところが、1959年から、軍の要請に基づいて戦闘に協力して死亡または負傷した者は「準軍属」として扱い、遺族年金などの各種の補償金がもらえることになった。単に砲弾に当たって死んだり、米軍に殺されたりした人には補償はされないが、「日本軍との雇用関係」にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が軍部と関わるものでなければならなかった。そして、役場の職員や島の長老らとともに厚生省の役人の前に座った母は、「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」という問いに、「はい」と答えたという。>(宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)
たいへん重要なことが書かれていましたね。要点だけを言えば、「生き残りの宮城さんは、座間味島の遺族たちが国から補償金をもらえるようにするために、自決は軍命令で行われたと証言した」ということです。ウソの証言をしたのは何と驚くなか れ、先の【証言①】で「梅沢隊長から自決命令は出ていない」ことを証明している宮 城初枝さん本人だったのです。ついでに言っておきますが、宮城さんにウソ証言をするよう要請した「島の長老」とは、村議会事務局長の宮村幸延という人です。この人は戦後、「宮村」と改姓していますが、何と実際に自決命令を出した宮里助役の実弟です。
なぜ、宮城初枝さんはウソの証言をしたのだと思いますか? この問いに生徒たち は「多くの遺族の人たちが、補償金をもらえるようにするため」「遺族の生活を心配 したんだと思う」と、戦後未だに経済的に苦しい遺族の境遇に思いをいたしている宮城さんの胸の内を推察しています。また、「島の偉い長老たちに囲まれて、仕方なかったのではないか」と宮城さんの苦悩に言及した生徒もいました。私が聞いた話では、宮城さんは長老から、ウソの証言をしなければこのさき島に住めなくなるかもしれないぞ、と脅迫めいた言葉も投げかけられたといいます。
さて、先の赤松元隊長が沖縄で新聞記者に問いつめられた時、「この問題はいろいろなことを含んでいるので、そっとしておいて欲しい」と答えていましたね。考えても見て下さい。もしこの時、赤松隊長が真相をマスコミに話してしまったら、遺族の人たちはどうなってしまうでしょうか?
国からお金がもらえなくなって、遺児やお年寄りの方々は生活が立ちいかなくなってしまいますね。赤松隊長の言っていた「いろいろなこと」とは、そういうことだったのです。だから赤松隊長も梅沢隊長も、ことの真相部分にはふれられず沈黙せざるを得なかったのでしょうね。
やむにやまれぬ理由があったにせよ、宮城さんの証言は衝撃的でした。軍による住民殺害ともいえるこの「集団自決命令」事件は、この後「事実」となって一人歩きして拡大していきました。今や教科書にまで書かれるようになったのです。
略年表で流れをもう一度確認してください。
1945年 1952年 1957年 1959年 1962年 <懸賞作文~「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべしという命令があっ」> 1968年 1969年 1970年 1971年 |
・国からの補償金を得るため(援護法)
↓ ・ウソの証言(「集団自決は軍命令だった」) ↓ ・ウソ証言の拡大・定着 (歴史教科書にまで「事実」として記載) |
このようにして、ウソが「事実」として拡大し、定着していったのです。ヒトラーか誰でしたか、「ウソも言い続ければ『本当』になる」というようなことを言っていましたが、恐ろしいことです。しかし、決して放置していてはいけません。
6.おわりに
さて、この話には続きがあります。次の話を読んでください。
【35年後の真実】
集団自決命令の当事者にされてしまった梅沢隊長の人生も大変でした。マスコミを はじめ、様々な人から非難され、職場にいられなくなって仕事を転々としました。ま た、息子さんまでが反抗するようになって、家庭が崩壊するなど、ずっとつらい思いをしてきました。そして長い時が流れ、昭和55(1980)年のある日、あの証言者・宮城初枝さんが30数年ぶりに会いたいと言ってきたのです。
<母(宮城初枝)が「集団自決の命令は、梅沢隊長ではなかった。でもどうしても隊 長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、1977年のことだった。そして、「梅沢さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。
それから三年後の1980年、私は知人を介してようやく梅沢氏の所在を知ることができ、手紙を送った。そして、その年の12月中旬、私は職場近くのホテルのロビーで母と二人、梅沢氏と面会した。梅沢氏は私がマスコミを連れてきてはいないかと、しきりにあたりを見回している。母が梅沢氏に、「どうしても話したいことがあります」というと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、35年前の3月25日の夜の出来事を順を追って詳しく話し、「住民を玉砕させるよう、お願いに行きましたが、梅沢隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅沢さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽した。>(宮城晴美 『母の遺したもの』から中学生向けに要約)
そして昭和62(1987)年3月、梅沢隊長は座間味島の慰霊祭に出席しました。この時、国にウソの申請をした宮村幸延氏(謝罪文作成)も梅沢隊長に直接謝りました。
何十年もたって謝罪された梅沢隊長はこう言いました。 「今まで自分は心中穏やかではなかったけれども、それで村が潤い、助かったのだから、いいじゃないか」と。
■宮城晴美氏、軍命に関し著書と真逆の「軍命があった」記述した「新版・母の遺したもの」を出版。
宮城晴美氏の発言を時系列で整理する。
➀2000年『母の遺したもの』を出版。⇒軍命を否定。
②2005年「大江・岩波集団自決訴訟」でひこく側証人⇒軍命肯定。
③2008年『新版・母の遺したもの』を出版。⇒軍命肯定。
■吉浜忍教授の揺れる「定説」
座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決のたった1人の生き残り宮城初江さん(晴美氏の母親)によってもたらされた。座間味村の女子青年団のリーダーだった初江さんは、米軍が座間味島に上陸する前日の1945年3月25日、野村正次郎村長ら村の幹部数人と共に、梅澤裕守備隊長(少佐)のいる本部壕を訪ねている。そこで、宮里助役らは、梅澤隊長に自決用の弾薬や手榴弾(しゅりゅうだん)、毒薬などの提供を求めたが、梅澤隊長は弾薬類の提供を拒否している。初枝さんは戦後、援護法の関係で「軍命」があったことにした方が集団自決の遺族に有利だと村の長老に言われ、軍命が有ったと証言していた。
初枝さんは病死する直前、軍命は「援護金」のためのウソの証言であったことを一冊のノートにつづり、娘の晴美氏に託した。戦後生まれの晴美氏が母の遺言を基に「母の遺(のこ)したもの」(2000年12月)を出版することにより、従来の「定説」は逆転する。同書には母の遺言通り「隊長命令はなかった」と明記されており、同書の発行により「集団自決に軍命は無かった」ことが新たな「定説」となった。
沖縄戦が専門の吉浜忍沖国大教授は2000年12月24日付の琉球新報に「母の遺したもの」の書評を書いている。
その中で、専門家の立場から「定説」を補強した。その後「母の遺したもの」が沖縄タイムス01年の出版文化賞を受賞することにより、学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる「定説」となった。座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知された瞬間だ。
ところが05年、梅澤氏らにより大江・岩波「集団自決」訴訟が提訴される。提訴と同時に晴美氏は態度を一変、母の遺言を踏みにじり被告側の証言台に立ち、「軍命はあった」と証言する。
さらに晴美氏は08年「新版・母の遺したもの」を出版し、「定説」を翻して「軍命はあった」と明記した。つまり「集団自決」の「定説」は05年の「集団自決冤罪訴訟」、および『新版・母の遺したもの』の出版により再び揺らぎ、「隊長命令はあった」と2000年以前の「定説」に逆戻りする。
◆変わる「定説」に翻弄
新聞に登場する「定説」の変化に従って研究者達の「定説」も次々と論旨を変えてくる。例えば沖縄タイムスや新報の「書評」で「母の遺したもの」は「『定説』とは違う真相を語る―隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりが典型だ。
沖縄では、新聞がつくる「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりからうかがえる。沖縄戦の専門家の吉浜氏は、変わる女心に翻弄(ほんろう)される浮気男のように、次々と自分の「定説」を変えていった。今回の県史の発刊に当たり、晴美氏や林氏、吉浜氏のように「定説」をクルクル変える無節操な人物が執筆してもよいのだろうか。
嘘(うそ)の証言でもいったん、県史のような公的出版物となると、そこに記された「定説」に県や沖縄2紙がお墨付きを与えたことになる。
かつて沖縄2紙は「沖縄の民意はわれわれがつくる」と豪語した。
サヨク集団の執筆者で固めた県史「沖縄戦」の発刊に重大な影響力を持つ沖縄2紙。
「沖縄の民意」はともかく、「沖縄戦」の史実まで沖縄2紙がつくってよいものだろうか。
【参考文献】
・曽野綾子 『ある神話の背景』 PHP文庫
・宮城晴美 『母の遺したもの』 高文研
・宮城晴美『新版・母の遺したもの』
・中村粲 『教科書は間違っている』 日本政策研究センター
・「昭和史研究所会報」 第43、44、56、64号
オピニオン面に一般投稿6本(児童生徒の「ぼくも私も」など除く)。
「沖縄でも拡声器規制条例を」の南風原町・武元清一さん(48)は、2月25日、3月14日、7月7、19日に続き今年5回目の掲載。
「姿を消すハンカチに寂しさ」の那覇市・上運天英光さん(80)は、2月5日、3月2、23日、4月25日、6月26日に続き今年6回目の掲載。
「『730』で教習所も大騒ぎ」の那覇市・石原昌浩さん(62)は、昨年10月4日以来の掲載。
「新基地予算をコロナ対策に」の那覇市・横田等さん(72)は、1月12日、2月1日、3月16日、4月9日、5月9日、6月2日、7月3日に続き今年8回目の掲載。
「コロナ禍の三線教室 終戦後の先達の創意 力に」の東京都・伊良皆高吉さん(83)は、今年初掲載。
「古関裕而の作品」の南風原町・比屋根正治さん(69)は、1月20日に続き今年2回目の掲載。
カギカッコは投稿欄における見出し。
よって、丹念に読まないと、何がどうなったどうしたのかというストーリーがまるで分からない
長くなりますが以下にまとめてみました
座間味村 集団自決 時系列
25日
夕方 非常米が出された、炊いて食べた(宮里美恵子)
野村村長から米の配給があると連絡が入る (宮城初枝)
21:00ころ 宮平 秀幸(十五歳)本部壕に偶然立ち寄る 村の役員達が梅澤隊長と押し問答 30分ほど
宮平氏の家族 忠魂碑に自決の為来ていたと助役が秀幸氏に本部
壕で告げる
21:30 助役が恵達に命じる、初枝に書類焼却命じる
宮平(大城)澄江・小嶺つる子・その弟・は杖の妹):初枝
(?時) 助役が、宮平恵達には 忠魂碑前に住民を集めるよう指示(初枝)
22:00ころ 宮里 美恵子・ツル(二十九歳)宮平 恵達氏が 伝令する(玉砕命令発令と)産業組合壕から他の家族が出ようとしなかった。帰ったら鍵 沖縄の証言(上)名嘉 正八郎著
23時ころ 恵達 玉砕命令下ると。忠魂碑前に集合伝える(宮里美恵子 村史)
晩 誰が来たのか分からない「忠魂碑前に集合」との事(宮里米子)
夜 「忠魂碑前に集合」との呼びかけ(長田 一彦)
晩 伝令(恵達?)が来て、「忠魂碑前に集まれ」「着物も晴れ着に着替えなさい」(宮里とめ)
ある おじいさんが「みんな、帰ってそれぞれやりなさい。ご飯を腹いっぱい食べて、きれいな着物を着てやりなさい」と :宮里米子
外に出る⇒役場の書籍や重要書類を焼き捨てている(初枝等のことか?)長田
玉砕は明朝(3月26日)未明、場所はマーカーの広場という事であった。:長田
ジャーの山を登る途中役場職員の一人 銃と胴体いっぱいの砲弾をまいていた。:宮里米子
父親が「さあ、今だよ」 *銃をもつ者の父親という意か?*
子供が泣きわめく
あばあさんが「ナー シムサ、シムサ」と彼にやめるように言う
↓
銃をおろす
伝令の青年が「敵、ただいま上陸!」と報告に来る
* 役場職員に敬礼をした(25日深夜~26日未明)
↓
私たち家族はその場を離れた:宮里米子
↓
山道の途中 恵達が大きなおにぎりをガツガツとほうばっていた。「とにかく元気つけて、
敵の首を一人でも多くうちとってから僕らは死ぬんですよ」:(宮里とめ)
息も絶え絶えに着いたところが産業組合の壕(そこには誰も居なかった):(宮里米子)
*(60人ほどの人々が入って居たはずだが、いったい何処に行っていたのか?)*
そこで(産業組合壕)でうとうと眠る(宮里米子)
↓
役場の家族が入るのでミーカンザトの家族は出るように言われる
*先ほどの役場の職員が入り口に立っている(銃と弾丸をもった盛秀助役か?)
当時の役場の職員はとても怖い存在、絶対服従
26日 未明? みごとな月夜 皆の顔がはっきりみえた
宮平 美智子(収入役長女)が『米子さん、さようなら元気でね』:(宮里米子)
26日
マーカーの広場(忠魂碑前) 指令を出した役員達は来なかった。:(長田)
↓
(*この指令は何時誰から聞いたのか?)
産業組合の壕に行くも入れてもらえず :(長田)
艦砲射撃が激しくなったので産業組合壕に引き返すが閉ざされていた:(宮里美恵)
敵が上陸した
梅澤隊長から 住民が裏の山に行っているので、食糧をもてるだけ持って移るように
命令される:宮里育江(恵達の姉)
明け方(AM3:00ころ?)機関銃の音がして・・・ 時間の経過?
壕の外へ⇒ 米兵に囲まれる
姉が 産業組合壕は皆死んでいると叫びながら逃げさる(宮里美恵子)*
(名嘉 正八郎・谷川 健一編 沖縄の証言 上)1971年7月25日
10時ころ機銃掃射の音を聞く1989年7月10日 座間味村史(宮里美恵子)*
↓外に出る
米兵に囲まれた 姉が逃げるように産業組合の壕へ向かう
*戻ってきて 産業組合壕の人達はみんな死んでいると叫ぶ
私達も行ってみる→ 戦闘帽子をかぶり、足にゲートルを巻き銃をもったまま死んでいる人を見た (宮里美恵子)
松田の壕が米兵等に囲まれる *米軍の到着時間は?:長田一彦
↓
母が産業組合の壕に逃げる
壕の入り口に一人の男が鮮血を浴びて小銃を抱えるようにして倒れていた:長田一彦
上記の流れをみると
25日の夕方以降に宮里盛秀助役らが梅澤隊長の作戦壕に行き、集団で自決する弾の提供を願い出るも断られた
そこで、村人を忠魂碑前に集めて自決させることを断念。役場に備えてあった小銃と弾で果たすには役場の職員の家族だけに限定し、場所を産業組合壕にたし為、忠魂碑前に行った村人は、そのことを知っている(宮里盛秀の父=元村長)おじいさんから
「みんな、帰ってそれぞれやりなさい。ご飯を腹いっぱい食べて、きれいな着物を着てやりなさい」と言われたのだろう
宮城晴美たちは、時系列で証言を読んでゆけば、梅澤隊長の自決命令が無かったことが読み取れてしまうので、あえて時間を混乱させるためにこのような村史にしたものと思います。
(『CH桜沖縄問題の全ての根源は「依田問題」である、依田氏の行状を時系列的』へ、コメントができなかったのでこちらにさせていただいます。すみません。不適切であれば削除してください)
依田さんは、処分確定で不起訴になろうが別に善人であるわけでなく、それより、反我那覇としてふるまう以上、不正義の輩として我々から(少なくとも私から)批判されるというだけです。
●以下は、鍛冶俊樹氏の番組動画「水島社長の蹉跌」でのコメント欄からですが、沖縄防衛局の当初からの熱心な視聴者である「いいだやんあっこ」氏のアンチ我那覇に反論するコメントがよく整理されてると思いますので引用させていただきます。
****ここから*****
~(前略)FM 21側が「これを改善しないと放送を打切る」と我那覇さんに要求した事柄は、ch桜の番組で水島社長が説明したFM 21側の言い分とは違うんです。そして、FM 21が我那覇さんたちに突き付けた要求が放送事業者として放送法の理念に合致するか、所管の法務省に判断を仰ぐよう我那覇さん側がFM 21に要求したんです。その要求をFM 21側が拒否した。FM 21側が放送法に照らされるのを拒否したから、打切りの根拠を自社の倫理委員会での決定にせざるを得なくなった、のが実情です。更に、今も放送を継続しているオキラジ・ぎのわんシティfmにも、FM 21が圧力をかけた。
我那覇さんは訴えられた側ではなく、訴えた側なので、「言論弾圧を受けた」と感じるに至った物的証拠なり何なりを持って裁判に臨んだはずです。更に沖縄タイムズとFM 21を結び付けるに至った証拠も揃えて。
以上のことは我那覇さんたちの番組で、裁判の経過報告でリスナーなら聴いています。
FM 21が我那覇さんたちに突き付けた要求は、「毎回の番組冒頭の文言を放送で言うな」ということです。放送開始以来問題なく言って来たのに、ある日を境に「言うな」となった。番組冒頭の文言は、我那覇さんたちの政治心情を表すものです。保守活動をしていれば、絶対譲れない文言ですし、貴方達、左派が一番嫌う表現です。
「誰の目から見てもあまりにおかしい理由」に貴方が感じるのであれば、貴方が左派だからでしょう。
****ここまで*****
8月1日21時から【鍛冶俊樹の軍事トークライブ】「水島社長の蹉跌」よりhttps://www.youtube.com/watch?v=CV53QLkXZxU&lc=Ugxdlp3RRFKihW_y1vx4AaABAg.9BqbEg9f4Ni9BtuoJDe1au
●また、以下の動画、いわゆる「動画6」ですが、前半は依田の呆れた嘘デマを他番組でまき散らしていることへの反論から始まるくだらない内容なのですが、あなた様はそういうのがお好きそうなので見るがよろしいかと思いますが、大事なのは、12分頃からの裁判についての説明です。
FM21訴訟は、単なる契約問題だと訳知り顔でやくざみたいなおっさんが誹謗中傷していますが、これを憲法問題にまで発展させた我那覇さん側の手腕が確認できますからよく見ておいてください。
↓
依田容疑者テキサス親父番組での虚偽・印象操作発言を検証/6.12裁判証人尋問のご報告 琉球新報沖縄タイムスを正す県民・国民の会特別動画その6
https://www.youtube.com/watch?v=03vLMrb6RjU
「銃突き付け日本兵は、住民を救うため」
「ひらめき」14号21頁(国旗国歌推進沖縄県民会議会誌)平成12年2月11日
米軍の飛行機は「非戦闘員は、知念半島に避難せよ」という趣旨の「ビラ」を摩文仁方面で撒いた。それで、日本兵は、壕の中にいる住民に、「知念半島は安全だから壕を出て知念半島に行け」と言った。しかし、住民は聞き入れなかったから「銃突き付けたら聞き入れるだろう」と思って銃突き付け「出て行け」と言ったのである。・・・日本兵が自分の身の安全を図るために、沖縄住民を犠牲にしたと曲解して、「日本兵は悪者である」と悪宣伝しているのが、沖縄の現状である。
*ビラを拾った人は、壕の外に出て行動した人々であり、より勇敢な人たちだった*
証言 沖縄県警察史 第二巻 711頁〜712頁 平成5年3月
知念半島が安全地帯になるということで、その方向に住民を誘導した。住民は「友軍が負ける事は無い。友軍と一緒にいた方が安全だ」という事で友軍と一緒に南下する者が多かった。
その頃から米軍は、非戦闘員・住民にビラを撒いた。米軍のビラには、安全地帯とそこに行く方法が指示されていた。道は、どこを通りなさい。昼間行動しない。手を挙げて、男は裸になりなさい等と色々親切に書かれていた。
このビラを本島に信じて、その通りに行動した人たちは効果的に良かったと思う。
警察は、住民を知念方面に誘導しょうとするが、うまくゆかなかった。
沖縄戦・敵中突破 -沖縄警察別動隊の記録-
新沖縄文学20号1971年7月 沖縄タイムス社
157頁 辻町方面に派遣された小隊等は、大きな自然壕に避難していた千名以上の市民に誘導しようとしたが、応じなかったので、抜刀して壕外に追い出し、隊員が一糸乱れぬ統制下の下に、冷静な行動で、郊外に避難させた。
ポンぺオ米国務長官の演説など、中国に対する安全保障環境が著しく変化した昨今、
デニー知事は尖閣を侵略する中国に一帯一路に賛成して見たり、
米軍基地反対を叫ぶしか能のないデニー知事に今帰仁村民が呆れたのでしょう。
また新型コロナに対する、デニー知事の無為無策は、デニー知事では、そろそろ「オール沖縄」に決別する時期と考えたのでしょう。