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狼魔人日記
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【6月12日配信】みんなで学ぼう!日本の軍閥 第2部第6話(最終話)山本五十六~名将か愚将か~ 杉田水脈 倉山満【チャンネルくらら】
【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(24)軍政家・山本五十六の実像(上)曖昧だった軍縮への姿勢
「条約派」粛清で海軍中枢に進出
“悲劇の名将”像定着
山本五十六に対する戦後の評価は、概(おおむ)ね肯定的である。即(すなわ)ち、親英米の山本は海軍の良識派に属し軍縮の実現に努力、また対米戦を避けるため日独伊三国同盟締結に強く反対した。だが思いは叶(かな)わず、それどころか対米戦の最高責任者を命じられる。己の信念と職責の相克に苦しみながらも、卓越した戦略家の山本は日本が対米戦で勝利し得る唯一の方策として真珠湾作戦を発案、万難を排し奇襲攻撃を成功させ世界戦史に名を遺(のこ)す大戦果を挙げた。
だが不運にもミッドウェイ海戦で敗北し、初戦の優位は失われる。戦局を立て直すため自ら最前線に赴き一線部隊の指揮を執るが、敵機の攻撃を受け壮烈な戦死を遂げる。最後まで平和を願いながらも、一旦(いったん)開戦となれば最も勇ましく戦い、散った“悲劇の名将”。また情に厚く部下思いで、「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」の格言も残しているように人使いの名手であった。
こうした山本五十六像が定着しているが、太平洋戦争の再考に当たり、開戦前から戦争前半を指揮した山本五十六について軍政、軍略の両面から光を当て直してみたい。
壮年期まで目立たず
山本五十六は明治17年4月4日、JR長岡駅に程近い玉蔵院町(現・長岡市坂之上町)で、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男に生まれた。長岡中学を経て明治34年に海軍兵学校に合格、成績は2番だった。しかし入校後、成績はトップクラスを維持できず、卒業時の席次は192人中11番。既に日露戦争が始まっており、内地での練習航海を経て巡洋艦日清に配属され、日本海海戦に参加。前甲板主砲砲身の破裂で負傷し、左手の中指と人差し指を失う。
大正2年海軍大学校に入学、在校中に旧長岡藩家老の山本家を継ぐ。大正8年から10年までハーバード大学に留学、全米各地を見て回るが英語の成績は最低評価だった。帰国後霞ケ浦航空隊教頭として若い搭乗員の育成に当たるが、大正15年駐在武官として再び米国勤務を経験する。以後昭和3年から10年にかけて空母赤城艦長、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長と航空職域を歴任。その間、昭和4年にロンドン海軍軍縮会議全権委員の随員として渡英、昭和9年には第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の代表を命じられるが交渉は決裂。帰国後、永野修身(おさみ)海相に請われ昭和11年、海軍次官となる。
こう書くと輝かしい経歴を重ねたかに見えるが、必ずしもそうではない。後年の存在感の大きさを考えれば意外だが、青年期から壮年にかけての山本は一頭抜けたエリートとの評価を得ていない。寡黙で真面目だが同期の中でも目立つ存在ではなく、特段のエピソードも残していない。山本はトップクラスが必ず配属される軍令部に勤務した経験もない。海軍の本流ではなかったということだ。
山本の存在が広く知られるようになったのは軍縮会議に参加した頃だが、ロンドン軍縮会議の随員に選ばれたのは、同期で無二の親友、堀悌吉(ていきち)軍務局長の強い推薦があったからだ。堀は海兵・海軍大学ともに首席で卒業した俊英で、彼の頭脳は“海軍の宝”とまで言われた。
大正から昭和初期にかけて、海軍の軍備制限を目的に一連の軍縮交渉が続けられた。当時日本海軍内部では、英米との協調を重視し軍縮条約締結を容認する条約派と、米国に勝つには対米7割の海軍力が必要でそれを下回る条約を容認しない艦隊派と呼ばれた英米強硬派が対立していた。堀は、条約派の筆頭格であった。
ワシントンの軍縮会議で、米英日の主力艦(戦艦)と空母の保有比率が5・5・3と定められた。首席全権加藤友三郎は対米6割の制限を受け容(い)れたが、艦隊派は強く反発。次いで補助艦制限を目指すロンドン軍縮会議が開かれた。会議は難航するが、英大使松平恒雄と米全権上院議員リードの話し合いで妥協が成立、首席全権若槻礼次郎は海軍随員らに諮ることなくこれを容れ、再び7割を下回る内容で決着した。
対米7割に固執する山本は、財部(たからべ)彪(たかし)海相に再度の交渉を具申し、若槻に退けられている。この時、大蔵省随員の賀屋(かや)興宣(おきのり)(開戦時の蔵相)が財政上の制約に触れると、いきなり山本は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴り付けている。この逸話からうかがえるように、山本は明確な対米7割論者で、財部に再考を迫った強い姿勢が艦隊派から評価された。
本国指示に従う官吏
ところが「妥協案を受諾せよ」の訓令を受けるや、なおも反対を叫ぶ他の随員らの説得役に回っている。山本は堀のように政治的識見を発揮する条約派ではなかったが、政府の方針に逆らう強硬な艦隊派でもなく、本国の指示に従い対米7割を心中に押し留(とど)める忠実な官吏だった。また艦隊派頭目の軍令部総長伏見宮に対する彼の態度も終生曖昧なものだった。
昭和9年の大角(おおすみ)岑生(みねお)海相の人事で、山梨勝之進や左近司(さこんじ)政三(せいぞう)ら条約派が予備役に追い込まれた。だが先の強硬な態度が艦隊派に歓迎されたためか、山本は粛清に遭わず第2次ロンドン軍縮会議予備交渉では代表に選ばれている。もっとも政府は交渉の決裂を見越し、海軍も無条約時代に目を向けていた。
山本のロンドン滞在中、堀悌吉が艦隊派の策謀で海軍を追われる。失意に浸る山本は自らも海軍を辞すると言いだすが、英米協調を説く条約派の指導者が相次ぎ海軍を去ったことが彼の出世に幸いした。彼らの抜けを埋める形で山本五十六は海軍次官に栄進、中央の舞台に躍り出る機会を得たのである。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三
【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (25)軍政家・山本五十六の実像(中)航空機を対米必勝の切り札に
防御軽視、戦闘機より攻撃機重視
軍縮会議契機に本腰
山本五十六が軍政面で力を注いだ分野に航空機がある。元来砲術屋であった山本が航空機に関心を持ったのはハーバード大学に留学中、当時の米国駐在武官で海軍の航空機開発を主導した上田良武大佐の薫陶を受けた時といわれる。
帰国後、海軍大学校の教官になった山本は戦艦と航空機の攻防を論じ、将来の航空戦力の重要性を説いている。だが彼が航空機の開発・整備に本腰を入れるようになった最大の契機は、前回取り上げた軍縮会議だった。ワシントン軍縮会議で日本は対米7割を確保できず、自ら参加したロンドン軍縮会議でも対米7割を下回る不本意な結果に終わった。
そこで、軍縮の対象とならない航空機を対米戦必勝の切り札と考えたのである。軍令部勤務を経験せず海軍では傍流の山本が自らの将来を賭す上でも、航空という未知の分野は魅力的であった。さらに言えば、山本が海軍の公式教義であった“大艦巨砲主義”に抗(あらが)うかのように航空主兵主義を掲げたのは、海軍の戦略を司(つかさど)る軍令畑に加われなかったことへの自身のコンプレックスも影響していたように思われる。
山本は自ら航空職域を志願、大正14年に霞ヶ浦航空隊の教頭となり、一匹狼(おおかみ)で職人芸的な技量を誇る搭乗員らを鍛え直し、航空部隊の組織づくりに注力した。駐在武官として再び渡米するが、当時ミッチェル大佐の空軍独立論や戦艦無用論が米国で話題に上っていた。その議論にも刺激を受けたと考えられる。
帰国後、山本は一線部隊と開発部門の双方で一層航空機に深く関わるようになる。特に航空本部技術部長の時には、互いに競わせる形で民間企業の育成を図り、国産航空機の開発体制整備に尽力。また艦艇の対米劣勢を補う戦力として、陸上基地から発進し米戦艦を雷爆撃できる航続距離の長い爆撃機(中攻)の開発を主導した。
日本海軍の漸減邀撃(ようげき)戦略では、日本近海での戦艦同士の艦隊決戦で雌雄を決する前に、米太平洋艦隊の戦力を少しでも減殺させるため、より前方の海域で潜水艦等補助艦による夜戦とともに、航空機による反復攻撃が想定されていたからだ。
山本や松山茂航空本部長による中攻のアイデアが、九六式陸上攻撃機やその後継の一式陸上攻撃機の誕生に繋(つな)がった。山本が航空本部を離れ海軍次官に就任した翌年(昭和12年)、海軍は三菱重工業に新型戦闘機十二試艦上戦闘機の開発を指示した。後の零式艦上戦闘機である。山本が直接零戦の開発を指揮したわけではないが、彼の努力があって海軍における国産航空機の開発体制が軌道に乗ったことは間違いない。
搭乗員不足が深刻化
太平洋戦争初頭の凱歌(がいか)は、山本が説き、かつ実践に努めた航空主兵主義の輝かしい成果であった。真珠湾攻撃とマレー沖海戦における日本の鮮やかな勝利は、それまでの戦争の常識を覆した。列国は戦艦が航空機には勝てないことを思い知らされ、戦艦主体の戦略から航空機と空母を主体とする戦略へと切り替えていくのである。
かように山本五十六は、戦間期において航空機の重要性を説いた第一人者であると同時に、海軍航空を世界最強の戦力に仕上げた最大の功労者と言える。だが半面、彼の方針は問題や弊害も残した。
戦前の日本海軍では攻撃重視の発想から、戦闘機よりも攻撃機を重視する立場が力を得るようになった。当時、九六式陸上攻撃機に九五式戦闘機が追い付けない状況があり、攻撃機は速度も航続距離でも戦闘機を凌(しの)いだ。しかも攻撃機は防護機銃を備えており敵戦闘機の攻撃も排除できると考えられたからだ。戦闘機無用論まで主張された。
中攻開発を主導したことからも窺(うかが)えるように、山本は戦闘機よりも攻撃機を重要視する派の代表格だった。山本技術部長の下で昭和11年度から戦闘機搭乗員の養成比率は大幅に引き下げられ、戦闘機隊も半分以下に縮小された。
士官搭乗員の養成数を見ると、昭和4年から同10年までの7年間の卒業者218人中、戦闘機要員は43人で全体の約20%を占めていたが、昭和11年以降は13%に激減してしまった。だが日華事変で、中国の戦闘機に最新の九六陸攻が100機以上撃墜され、援護戦闘機を伴わない攻撃機の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈した。さらに太平洋戦争に突入すると、戦闘機の部隊や搭乗員の絶対的な不足が深刻な問題となる。
航空白兵主義を招く
そもそも攻撃絶対主義を唱える日本海軍は、攻撃機開発に当たり爆弾や魚雷の搭載量を最大化することを至上命題とし、機体や搭乗員の防御を無視した。圧倒的な攻撃力があれば防御は不要という発想だ。山本もその路線を強く支持し、さらに加速させた。そのため、援護戦闘機のない攻撃機は敵戦闘機の攻撃や水上艦の対空砲火を受けると忽(たちま)ち火を噴いた。世界屈指の戦闘機零戦は重い20ミリ機銃を2門搭載したが、機体軽量化のため防御が無視されたのは攻撃機と同様だった。
対米戦において海軍航空隊は勇ましく敵艦隊に突入したが、陸兵の切り込みと同様、次々に撃ち落とされ、徒(いたずら)に優秀な搭乗員と航空機を喪失させていった。攻撃ばかりに目を奪われ、援護戦闘機や機体防御の必要性を無視した発想が、航空機や搭乗員の急速な消耗による航空戦力の著しい低下を招いたのである。水上艦艇の劣勢を補うべく航空機を対米戦の中心に据えた山本は、海軍戦史に新たなページを開いたが、同時に彼の進めた防御徹底軽視の路線が航空戦力の早期瓦解や航空白兵主義を招いたのである。その行き着く先が特攻であった。
(毎月1回掲載)
戦略史家東山恭三
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・山本は、米と戦争しても1年半しか持たないという事を知っていた。米の巨大な国力を知っていた。
・山本は米の力を知っているにも関わらず、結局 戦争に加担した。
・真珠湾攻撃によって米側は戦う口実になった。
(米は日本が真珠湾攻撃を仕掛けて来る事を事前に知っていた。)
山本五十六の立場は解るが、日米開戦には反対 を貫き通して欲しかった。
(山本が反対したところで軍部はやめないとは思うが…。)
最初から負けると分かっている戦争をこちらから初めてはいけない。
結局 日米戦争に負けて、
日本は腑抜けな国になってしまった。