きょう(23日)の沖縄タイムス社会面
宮城恒彦さん死去 86歳
座間味「集団自決」証言
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座間味「集団自決」の証言者 宮城恒彦さん死去 86歳
沖縄戦中、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」を生き延びた宮城恒彦(みやぎ・つねひこ)さんが21日午前2時10分、肺炎のため亡くなった。86歳。家族によると2週間ほど前から体調を崩し、入院していた。葬儀は22日、豊見城市の自宅で近親者のみで執り行われた。併せて初七日も繰り上げ法要で行った。
戦後は小学校の校長を務めた。ハルさんを壕に残したことを悔やんでいたという母ウタさんが亡くなったのをきっかけに、88年から戦争体験者への聞き取りを始め、自費で証言集28冊を発行した。
告別式は、三七日(みなんか)の9月10日、もしくは五七日(いちなんか)の9月24日に開かれる予定。喪主は妻の美代子(みよこ)さん。
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戦後75年の節目に沖縄戦の語り部が他界するのは残念。
ご冥福をお祈りする。
だが、宮城恒彦氏のように嘘の証言をする方に対しては、歴史の真実として反証しておく必要がある。
過去ブログをサルベージし集団自決、嘘つき教師が嘘の上塗りを出版!2011-05-26を編集して再掲します。
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2011年5月24日
「人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」。座間味村民の戦争体験を23年間発行してきた宮城恒彦さん=10日、豊見城市渡嘉敷の自宅
【豊見城】沖縄戦中の1945年3月26日、座間味村で起きた「集団自決」(強制集団死)の生き残り、宮城恒彦さん(77)=同村出身、豊見城市渡嘉敷在住=が23年間続けてきた沖縄戦体験記発行に一区切りつけた。同村住民の戦争体験を収集し、最終号の第23号を3月に発行。宮城さんは「集団自決」で姉の宮平ハルさん(当時19歳)を失った。「最も悲惨な目に遭うのは住民だ。人を狂気に陥れる戦争を二度と起こしてはいけない」との思いに突き動かされ、33人の証言を刻んできた。
最終号には、軍命による「集団自決」を明確に示す宮平春子さん(84)の証言を収録した。当時座間味村の助役だった兄、故・宮里盛秀さんが「軍の命令で、潔く玉砕しなさいと言われているから」と言った言葉が記されている。
宮城さんの姉ハルさんの最期を見た故・宮里美恵子さん(享年85歳)の証言も記録できたことから「一段落ついた」と体験記に終止符を打った。
宮城さんは戦後、ハルさんを失ったことを悔やみ、自分を責め続けた母親・ウタさん(享年91歳)を前に、体験を語れなかったが、ウタさんの他界後、初めて語った。座間味村史にある想像を絶する体験の多さに衝撃を受けた。中学校で国語教師をしていたため休みを利用し、戦争体験者を訪ね聞き取りを重ねた。
89年に1号を発行した。多くの住民が語りたがらず、古傷に触れるようでつらかった。「方言で質問すると返してくれた。体験者でないと分からない複雑な思い、惨めさがある」。険しい表情で振り返る。
体験記は毎回、1500冊発行し座間味村内の小中学校や過去の赴任校などに置いている。「文字も大きく、行間を広げ読みやすく工夫した。平和教育にぜひ活用してほしい」。体験記が“語り部”として受け継がれるよう強く願っている。
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座間味島の集団自決を命令したのは軍人より軍人らしい言動で、住民から畏怖されていた宮里盛秀助役だと言われている。
だが、これを覆す重要証人が盛秀氏の実の妹の宮平春子氏というのも不可解である。
肉親の証言は信憑性に欠けるという常識が、ここでは通用しないのである。
ここに登場する宮城恒彦氏は、大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判断が出た翌日4月23日の沖縄タイムスで「これ(関与)は『命令』そものだった」というデタラメなコメントを吐いた元教員である。
宮城氏の発言はもちろん間違いであり、最高裁が「関与=命令」と確定したけではない。
宮城氏は軍人より軍人らしい「参謀長」と呼ばれた教頭が登場する『潮だまりの魚』の著者でもあるが、氏の発言ががいかにデタラメであるかは以下に引用の沖縄タイムス記事を読めば明白である。
沖縄タイムス 2008年1月31日(木)
悲劇の島から史実訴え/座間味村が証言集
座間味村教育委員会が沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」を体験した住民らの証言などをまとめた「戦世を語りつぐ 座間味村平和学習ガイドブック」を発刊した。制作を委託された編集委員会が三十日、同村教委に引き渡した。沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制を示す記述を文部科学省が削除させた教科書検定問題が起きる中、「座間味での沖縄戦の真実を伝え続けよう」と編集作業は進められた。
編集委員会は二〇〇六年十二月に発足し、同村で「集団自決」を体験した宮城恒彦さん(74)が委員長を務めた。沖縄戦を体験していない世代の編集委員が、体験者数十人から聞き取りをした。
改ざんNO
同ガイドブックでは、座間味島の「集団自決」を「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです」と書く。宮城さんは「抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」と説明する。
「『敵の手にとられないように玉砕するよう、軍より命令があった』と当時、村助役だった兄が父に話すのを聞いた」との宮平春子さんの証言を収録し、編集後記には「文部科学省による『高校の歴史教科書改ざん』に対する答えは、多くの証言者の声やこの冊子に記載された内容が証明しています」と記した。
改訂も検討
編集委員の一人、宮里芳和さん(59)は「『軍から玉砕命令があった』との証言は複数あり、日本兵側からも軍命を示す証拠や証言が新たに得られ始めた」といい、同ガイドブックの改訂時に盛り込みたい考えだ。
二千部を発刊した。修学旅行生の平和学習などに活用し、希望者には販売する予定。問い合わせは同村教委、電話098(987)2153へ。
宮城恒彦氏 ◇
>「三月二十六日、米兵は大挙して住民のいる壕の近くまでやってきました。それを知った住民はパニック状態におちいり、(中略)死の道へと急いだのです・・・抑えた表現にしたが、住民を『パニック』に追い込んだのは、日本軍の強制だったことは明白だ」
米軍が大挙して壕の近くまでやって来て中の住民がパニックに陥ったのなら、集団自決の原因は米軍であることは小学生でもわかることだ。
このお方本当に国語の先生だったのだろうか。
それを「住民を『パニック』に追い込んだのは日本軍の強制だ」とは、まるでヤクザの言掛かりではないのか。
最高裁判断でさえも、「関与=軍命」と自分の都合の良いようにに決め付ける人物なのである。
このような理の通らぬ話がいかにも「正論」であるかのように、もっともらしく掲載される・・・これが沖縄タイムスの正体である。
■似たもの同士の宮城恒彦と宮城晴美■
>改訂も検討
宮城恒彦氏は、当初は自著で「軍命や強制はない」という内容で出版しておきながら、後で「言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった」といった苦し紛れの弁明で証言を変更した。
あげくの果てに「改定も検討」とは『母の遺したもの』が「軍命なし派」の証拠として係争中の裁判の原告側証拠となると、改訂版を出版をした宮城晴美氏のケースと全く同じパターンである。
おっと、もう1人『沖縄戦と民衆』を反対派の証拠に使われた林博史関東学院大学教授の例も、自著の内容と発言が違うという点では似たようなものだ。
◆宮城恒彦氏:
「米兵が大挙壕の近くに来て住民はパニックになり死の道を急いだが、住民のパニックも軍の強制である」
◆宮城晴美氏:
「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」(平成19年7月27日大阪地裁証人尋問)
◇
【おまけ】
読者の安仁屋正昭さんが宮城氏の人物像についてコメントされています
5月13日
私の手元に平成9年5月発行の「しおだまりの魚たち」という小冊子があります。
この著者は本日記の「軍の関与=軍の強制=軍の命令」という明らかな間違いを読者に信じ込ませようとしている宮城恒彦氏です。
彼の経歴には、校長・島尻教育事務所所長が記されており、それなりの見識と社会に対する責任がある人物であることがわかります。
この冊子には、座間味の集団自決に遭遇した自身と家族、並びに村人や当時最も尊敬されていた校長先生夫妻の自決の様子が書かれています。
勿論、忠魂碑前の事も。
しかし、軍の命令によって自決をしたなどという最も核心的な事は何処にも書かれていません。
むしろ、迫りくる米軍の恐怖により、自分たちで相談して決した事になっています。
2008年6月20日に宜野湾市の志真志小学校にいた革マル派の宮城じゅんという教師が幼い子供達に集団自決の劇を演じさせ、問題となった時のことでした。
この宮城恒彦氏は会場となった体育館まで遠いところから出て来て、一番後ろで壁にもたれながら見ていました。
元教育事務所長といえば、所管する百数十校を指導とする総責任者だったはずです。
集団自決という最も悲惨な事件を子供達に演じさせるという暴挙に、何もせず傍観し、挙句の果ては 関与を命令と誤認させる原稿まで書くというのであれば、「嘘つき・世を惑わす者」として、何れ裁かれなければならない思います。
左翼思想を信じ込み、一方的な情報を与えられて活動している者達より、この宮城恒彦氏の方が罪が深いと言わなければならないと思います。
【おまけ】
《ひと》沖縄戦「慰霊の日」に体験記を出す
2004年06月23日
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宮城恒彦さん
沖縄戦で米軍が最初に上陸した座間味(ざまみ)島で45年3月26日に起きた「集団自決」の生き残りだ。当時は11歳。母親と姉弟で逃げ込んだ壕(ごう)の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、19歳の姉と担任の教師が亡くなった。
「戦後、母が戦争を語ることはなかった。毎年3月になると、思い出したように嘆息した」。書き始めたのは、母親が他界した翌88年から。「自決」で住民173人が犠牲になった。自分だけでなく、島の人にも聞いてまとめた。
「慰霊の日」に合わせて出してきた体験記は今年、16冊目になった。毎回、1千部以上を発行し、学校などに配っている。さらに、23日には、東京の出版社から過去の15冊をまとめた「潮だまりの魚たち~沖縄・座間味島の戦世(いくさゆー)」(クリエイティブ21)を出版する。
元小学校長。一番苦しんだのは「日の丸・君が代」問題。惨劇を招いた戦前の教育が頭をもたげたが、個人の意見も言えず、公私のはざまで悩んだ。「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」。教師になったのも、あの時の体験で教育の大切さを知ったからだという。
講演をよく頼まれるが、全部断る。10年前に一度だけ引き受けたが、「自決」の場面で胸が詰まり、しばらくの間、言葉が出なかった。
「若い人にどう伝えるかは難しい。元気なうちはとにかく聞き書きを続けたい」
(文・大矢雅弘、写真・水野義則) 朝日新聞
http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000119999991201
◇
■証言者は「平和教育者」■
琉球新報の「沖縄戦特集<史実封殺> 届かぬ沖縄の心④」で証言をした宮城恒彦さん。
彼はこれまで何度か朝日の記事でも紹介されている。
朝日が紹介する『潮だまりの魚たち』(2004年6月発行)は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集である。
著者自身が「集団自決」の生き残りであり、集団自決に触れられている箇所も多数ある。
だが、同書では集団自決に関する梅沢命令あるいは軍命令には、伝聞も含め、全く触れられていない。
座間味島出身で集団自決の生き残りの証言集なら、当然これまでのマスコミが報じる集団自決を命じる“悪鬼”梅沢守備隊長を期待するのだが、そのような記述は一行も無い。
■「潮だまりの魚」に見る“悪鬼梅沢”と梅沢隊長の落差■
それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、梅沢隊長が村民の女性らに山への避難を命じた記述(163頁)や、
あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した記述(167頁)などの、
軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されている。
これらの記述は、従来マスコミに流布している残虐非道な「悪鬼梅沢」とは全くかけ離れた普通の青年の行動が伺える。
これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。
このように、近年著される書籍においては、緻密な調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされないのが一般なのである。
より厳格に言うならば、学術的には軍命令で集団自決したという根拠は極めて薄いということになる。
■真実と「平和教育」の狭間■
その一方、元校長の宮城さんは「平和教育」との板ばさみなのか、
「軍命令」に関しては苦しい証言をしている。
<言葉としての命令だけでなく、強要や誘導、目に見えない命令があった>
「軍が直接命令をした」と言わずに「目に見えない命令があった」、
当時11歳の少年が「直接命令する軍人の姿」は理解できても、
「目に見えない命令」という抽象的な意味を理解できたとは思えない。
結局、宮城さんは多くの証言で「軍が命令して集団自決した」とは一言も証言していない。
>「自決の時、校長が合図をし、女性教師が手榴弾を投げた」。
琉球新報特集でも次のように証言している。
<1945年3月26日の朝、宮城さんの家族が隠れていた壕に、気も狂わんばかりに逃げ込んできた女性が米軍上陸の様子を生々しく伝えた。 この言葉を引き金に「集団自決」が起こった>
いずれの証言も生々しい証言ではあるが、梅沢守備隊長の命令で自決したと決め付けるには根拠が乏しい。
せいぜい「目に見えない命令」とするのが精一杯だったのでしょう。
真実の証言とマスコミの煽動で揺れ動く心のあやが読み取れる証言だ。
■「歴史は政治で改ざんするものではない!」■
沖縄タイムスが異常な執念で同じ内容の社説を書き続けている。
何度議会を煽って、何度議決を繰り返しても「歴史の改ざんは出来ない」。
以下の社説のタイトルをそっくりお返ししたい。
社説【「検定撤回」再可決】歴史の改ざんを許すな (7月11日)
同じく琉球新報も7/11の夕刊は一面トップ、社会面トップの大見出しで「史実のわい曲」と来た。
「主体隠し」史実わい曲 教育関係者ら憤り (7/11 9:42)
「歴史の改ざん」も「史実のわい曲」も沖縄の新聞ではすっかり手垢に塗れて陳腐な単語になり果ててしまったようだ。
これだけ連日紙面を使って大騒ぎするのなら、主張の対立する専門家、学者を総動員して紙面で大論争をする企画を組むのが新聞の本分だとおもうのだが、
沖縄の新聞は既に報道機関としての使命を忘れ去り、サヨク勢力のプロパガンダをその仕事としている。
その結果、「不都合な事実」は徹底的封殺し、偏った「市民運動」の走狗と成り果てている。
■沖縄の新聞に捧げる「二枚舌」(ダブル・トーク)の称号■
自らの主張に反する数々の証拠や証言は紙面から封殺する一方、都合の良い「証言者」だけの主張を連日取り上げ続ける。
学術的議論・検証を避けて、自分たちの主張だけは「紛れもない事実」と根拠無しに連日騒ぎ続ける。
「政治が検定に介入してはならない」と主張する一方、県議会の議決(政治の主張)が受け入れられるまでは検定に介入し続ける。
これだけで「二枚舌」の栄誉を受ける資格は充分だろう。
「歴史の改ざん」と「史実のわい曲」は鏡に映る己が姿ではないか。
【おまけ】
- 座間味集団自証言決時系列 (安仁屋 正昭)
- 2020-08-23 20:28:23
座間味村 集団自決 時系列
25日
夕方 非常米が出された、炊いて食べた(宮里美恵子)
野村村長から米の配給があると連絡が入る (宮城初枝)
21:00ころ 宮平 秀幸(十五歳)本部壕に偶然立ち寄る 村の役員達が梅澤隊長と押し問答 30分ほど
宮平氏の家族 忠魂碑に自決の為来ていたと助役が秀幸氏に本部
壕で告げる
21:30 助役が恵達に命じる、初枝に書類焼却命じる
宮平(大城)澄江・小嶺つる子・その弟・は杖の妹):初枝
(?時) 助役が、宮平恵達には 忠魂碑前に住民を集めるよう指示(初枝)
22:00ころ 宮里 美恵子・ツル(二十九歳)宮平 恵達氏が 伝令する(玉砕命令発令と)産業組合壕から他の家族が出ようとしなかった。帰ったら鍵 沖縄の証言(上)名嘉 正八郎著
23時ころ 恵達 玉砕命令下ると。忠魂碑前に集合伝える(宮里美恵子 村史)
晩 誰が来たのか分からない「忠魂碑前に集合」との事(宮里米子)
夜 「忠魂碑前に集合」との呼びかけ(長田 一彦)
晩 伝令(恵達?)が来て、「忠魂碑前に集まれ」「着物も晴れ着に着替えなさい」(宮里とめ)
ある おじいさんが「みんな、帰ってそれぞれやりなさい。ご飯を腹いっぱい食べて、きれいな着物を着てやりなさい」と :宮里米子
外に出る⇒役場の書籍や重要書類を焼き捨てている(初枝等のことか?)長田
玉砕は明朝(3月26日)未明、場所はマーカーの広場という事であった。:長田
ジャーの山を登る途中役場職員の一人 銃と胴体いっぱいの砲弾をまいていた。:宮里米子
父親が「さあ、今だよ」 *銃をもつ者の父親という意か?*
子供が泣きわめく
あばあさんが「ナー シムサ、シムサ」と彼にやめるように言う
↓
銃をおろす
伝令の青年が「敵、ただいま上陸!」と報告に来る
* 役場職員に敬礼をした(25日深夜~26日未明)
↓
私たち家族はその場を離れた:宮里米子
↓
山道の途中 恵達が大きなおにぎりをガツガツとほうばっていた。「とにかく元気つけて、
敵の首を一人でも多くうちとってから僕らは死ぬんですよ」:(宮里とめ)
息も絶え絶えに着いたところが産業組合の壕(そこには誰も居なかった):(宮里米子)
*60人ほどの人々が入って居たはずだが、いったい何処に行っていたのか?*
そこで(産業組合壕)でうとうと眠る(宮里米子)
↓
役場の家族が入るのでミーカンザトの家族は出るように言われる
*先ほどの役場の職員が入り口に立っている(銃と弾丸をもった盛秀助役か?)
当時の役場の職員はとても怖い存在、絶対服従
- 続き (安仁屋 正昭)
- 2020-08-23 20:29:26
- 26日 未明? みごとな月夜 皆の顔がはっきりみえた
宮平 美智子(収入役長女)が
『米子さん、さようなら元気でね』:(宮里米子)
26日
マーカーの広場(忠魂碑前) 指令を出した役員達は来なかった。:(長田)
↓ *この指令は何時誰から聞いたのか?
産業組合の壕に行くも入れてもらえず :(長田)
艦砲射撃が激しくなったので産業組合壕に引き返すが閉ざされていた:(宮里美恵)
敵が上陸した
梅澤隊長から 住民が裏の山に行っているので、食糧をもてるだけ持って移るように
命令される:宮里育江(恵達の姉)
明け方(AM3:00ころ?)機関銃の音がして・・・ 時間の経過?
壕の外へ⇒ 米兵に囲まれる
姉が 産業組合壕は皆死んでいると叫びながら逃げさる(宮里美恵子)*
(名嘉 正八郎・谷川 健一編 沖縄の証言 上)1971年7月25日
10時ころ機銃掃射の音を聞く1989年7月10日 座間味村史(宮里美恵子)*
↓外に出る
米兵に囲まれた 姉が逃げるように産業組合の壕へ向かう
*戻ってきて 産業組合壕の人達はみんな死んでいると叫ぶ
私達も行ってみる→ 戦闘帽子をかぶり、足にゲートルを巻き銃をもったまま死んでいる人を見た (宮里美恵子)
松田の壕が米兵等に囲まれる *米軍の到着時間は?:長田一彦
↓
母が産業組合の壕に逃げる
壕の入り口に一人の男が鮮血を浴びて小銃を抱えるようにして倒れていた:長田一彦
- 小学生に自決の劇やれせて (安仁屋 正昭)
- 2020-08-23 20:35:42
- 宜野湾市の志真志小学校で集団自決を題材とした劇を児童たちにやれせて問題となったことがありました
その時に宮城恒彦氏がワザワザ見に来ておりました。
子どもたちに援護金のために捏造した日本軍による『軍命』を刷り込むことに良心の呵責が無かった見受けました
教育者??
この人たちが子供たちの可能性の芽を摘んだ張本人です
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