[戦後76年]秘した沖縄戦 今こそ 渡口彦信さん(94)読谷村
【読谷】県内外で沖縄戦体験を語ってきた読谷村の渡口彦信さん(94)は21日、本紙の取材で、自責の念に駆られてこれまで語ってこなかった戦争体験を明かした。旧日本軍の同じ部隊の負傷兵に手りゅう弾を渡したこと、水を求めて懇願する女性の前を素通りしたこと。「人が人でなくなる戦争は二度としてはいけない」と言葉をつなぐ。
1945年3月、当時18歳の渡口さんは高射砲隊に配属され、戦地で砲弾運びや水くみをしていた。米軍の機銃掃射や艦砲射撃などの攻撃に、上官や兵士が次々と死傷した。
同じ隊員で奄美大島出身の桜田1等兵もけがを負った。「ほぼ毎夜、別の壕にいる彼におにぎり一つ渡しに行って元気づけた」。ある日、上官から命じられ、おにぎりの代わりに手りゅう弾を渡した。「自決用の手りゅう弾。渡す時はお互い、何も言わなかった」
圧倒的な米軍の戦力を目の当たりにし、皆死ぬと思っていた。皇民化教育で「国のために死ぬもの」と信じ込んでいた。
「私だけ生き残ってしまった」。胸につかえる思いを抱えながら、65年に奄美大島で桜田さんの兄弟を捜して訪ね、桜田さんの戦死を知った。自決したかどうかは定かではないが、遺族には「何と言っていいか分からなかった」。
腰に水筒を掛けながら本島南部へ後退する道中、「水を下さい」と手を差し伸べてきた女性も忘れられない。視線は合ったが、そのまま通り過ぎた。なぜ、あのとき水を分けなかったのか。南部の道を通ると、女性のか細い声が聞こえてくるような気がする。
戦後76年を迎え、戦争体験を語れる人が減る中、風化を懸念する渡口さん。生き残った者の宿命として「地獄よりひどい戦争を、後世に伝えていく」と誓った。(中部報道部・宮里美紀)
(写図説明)これまで語ってこなかった沖縄戦体験を語る渡口彦信さん=21日、読谷村内の自宅
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「集団自決(強制集団死)」訴訟の判決を前に、「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」が二十五日、那覇市の教育福祉会館で集会を開いた。
集会では、訴訟の経過や双方の主張、争点を分かりやすく伝えようと、模擬裁判が開かれた。同会会員が裁判官や原告、被告双方の弁護士に扮し、当時の戦隊長による直接の軍命の有無とその根拠、「集団自決」に使われた手榴弾の配布の事実や戦隊長の関与などをめぐり、法廷さながらの緊迫したやりとりを演じた。
裁判官役が「なぜ『集団自決』が起きたと考えるのか」と問い掛けると、原告側役は「『戦隊長命令、軍命があったから死んだ』というのはあまりにも軽率だ。米軍に対する恐怖心や家族愛、狭い島での同調圧力が働いた」と主張した。
被告側役は「当時は、戦陣訓や三二軍による『軍官民共生共死』の方針が徹底されていた。大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」と反論した。
最後に、裁判官役が「沖縄戦では軍と住民の関係が如実に現れた。この教訓をどう学び、どう生かすかが問われている」と呼び掛けた。
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判決日(28日)直前になってこんなクダラナイ猿芝居をもっともらしく報じるところに沖縄タイムスの焦りが垣間見れる。
タイムスのベテラン記者が筆者の知人にふと漏らしたという一言が脳裏をよぎる。
「この裁判に負けたらタイムスは大変なことになる」。
>大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない
そう、「考えられない」のも道理で、「手りゅう弾交付説」自体が真っ赤な嘘だったのだ。
裁判の訴因は「名誉毀損」だが、最も注目を浴びるのは「集団自決」における「軍命の有無」だ。
これまで被告側がどこをひねくり回しても「軍の命令があった」という証拠は出てこなかった。
その結果出てきたのが、
「軍命の有無は問題ではない」、「タテの構造云々・・・」等の詭弁の数々。
これでは話にならない。
そこで被告側が唯一しがみつくのが上記記事でも出てくる「手りゅう弾軍命説」。⇒「大変に貴重な武器だった手榴弾が戦隊長の許可なしに住民に渡されることは考えられない」
「手りゅう弾配布」を証言したのが当時の役場の兵事主任をしていた富山真順氏(故人)。
この証言は裏づけの無いまま一人歩きして各メディアを流布し被告側唯一の物的証拠といわれた。
だが裏付け検証の結果富山証言は虚偽であることが立証されている。
富山証言の破綻の詳細は以下に引用。
3 富山(新城)真順
村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない。
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない。
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面)http://osj.jugem.jp/?eid=28
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このほかにも富山証言の「手りゅう弾交付説」が嘘であることは思わぬところから馬脚を現している。
「軍命あり派」側の「論客」である渡嘉敷島住民の源哲彦氏(61歳)の新聞投稿から発覚したのだ。
源氏とは、終始「軍命あり」の証人として沖縄紙のオピニオン面に活発に投稿している人物。
年齢から源氏は戦争体験はないようだが、重要証言者富山眞順氏から生前次の言葉を直接聞いていたというのだ。
「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」
以下に源氏の沖縄タイムス「論壇」投稿分を抜粋引用する。
「論壇」
「真実」は消せない 軍命による集団自決
源哲彦 (渡嘉敷村、61歳)
(前略)
住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。
この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。
戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来させた。 兵器軍曹は集まった20数人の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、「訓示」をした。 「米軍と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1発で自決せよ!」。 このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」がなかったとはいえまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で、「証言」を聞くことはできないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と言ったのを直接聞いた事がある。(沖縄タイムス 2007年9月2日)
わざわざ説明すまでもないが「真実を墓場まで持って行く」とは「死ぬまで真実を語らない」ということ。
富山氏は生前、同郷の後輩源哲彦氏に生の声で「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持って行く」と語っていたのだ。
という事は戦後、重要証言として「軍命あり派」の唯一の証拠といわれた「手りゅう弾交付説」は富山氏が、何らかの理由でつかなければならなかった「嘘の証言」であった。
戦後、「集団自決」の真相がばれると「年金給付」が止められるという噂が村の長老の間に流れていた。 富山真順氏も宮城初枝氏もこういった噂を背に受けて嘘の証言をしなければならない悲しい立場にあった。
その「嘘と」と「真実」の狭間の心の葛藤が富山氏の「真実を墓場まで持って行く」という言葉に凝縮されている。
富山証言が嘘であることは下記エントリーでも詳述している。
沖縄戦中の1945年3月末、米軍が上陸した渡嘉敷・座間味両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、日本軍の隊長命令があったとする岩波新書『沖縄ノート』などの記述は誤りで名誉を傷つけられたとして、当時の戦隊長と遺族が出版元の岩波書店と作家の大江健三郎氏を相手に出版差し止めなどを求めている訴訟で、大阪地裁(深見敏正裁判長)は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷(所在尋問)を開く。 住民329人が「集団自決」で亡くなった渡嘉敷島で「集団自決」の当事者だった金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)=当時16歳=が証人として出廷。同島での「集団自決」について軍の強制や関与があったことや当時の状況などを証言する。法廷は非公開。訴訟は今後、11月に大江氏らの尋問、12月に最終弁論を行って結審し、来年3月までに判決が言い渡される見通し。金城氏の出廷で訴訟は大詰めを迎える。
原告の元戦隊長側は「集団自決は住民の自然な発意によるもの」などと主張してきた。金城氏は島で起きた「集団自決」に対する日本軍の強制や関与について、体験に基づき具体的に証言。原告側が隊長命令の有無だけを争点として主張しているのに対しては皇民化教育や日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の方針など「集団自決」の背景にも触れながら、法廷で「集団自決」の実相を明らかにするとみられる。
金城氏が「集団自決」の当事者として法廷の証言台に立つのは、1988年の第3次家永教科書訴訟沖縄出張法廷以来、19年ぶり、2度目。97年の最高裁判決は「集団自決」の原因として軍の存在や誘導を認定した。
9日午後6時からは那覇市古島の教育福祉会館で前日集会、10日は午後一時から那覇地裁前で事前集会、午後4時半からは同市松尾の八汐荘で金城氏や弁護団による報告集会が行われる。
(琉球新報 9/9 9:51)
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大阪地裁は10日午後、福岡高裁那覇支部で出張法廷を開き「渡嘉敷島集団自決」の生き残り金城重明氏の法廷尋問を行う。
この裁判のハイライトとも言える金城氏の法廷証言でこの裁判も愈々大詰めを迎える。
これを受けて9日の琉球新報はまるで開戦前夜のような大騒ぎで紙面を「集団自決」関連記事で埋め尽くしていた。
- 実相再確認動き活発化 「沖縄戦、地域問題ではない」 (9/9 9:43)
- 基地「ノー」で連帯を 軍隊を許さない女たちの会 (9/9 9:40)
出張尋問は非公開なので当然証言内容を知ることは出来ないが、金城氏はいろんなメディアで証言しており、その証言の概略は本土新聞の記事から見ることが出来る。
2007年4月1日付の「筆洗」より。
東京新聞:六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さん…:社説・コラム(TOKYO Web)
以下引用。
六十二年前、目の前で起きたことが金城(きんじょう)重明さんのまぶたには焼き付いている。村長の「天皇陛下万歳」の三唱を合図に、多くの家族が次々と手榴(しゅりゅう)弾を爆発させた。約一週間前、日本軍が一人に二個ずつ配った。一つは敵に備えるため、もう一つは自決用だったという▼沖縄県に属する慶良間(けらま)諸島最大の島、渡嘉敷(とかしき)島での出来事だ。当時十六歳の金城さんには手榴弾が回ってこなかった。だから二つ年上の兄と一緒に泣き叫びながら、石を持った両手を母親の上に打ち下ろした。次に九歳の妹と六歳の弟の命も絶った。どうやったのか記憶はない▼米軍が三月下旬に慶良間諸島、四月一日に沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦は「軍民一体」の戦争だった。渡嘉敷島では軍の指示を受けた村長のもと、住民は日本軍の陣地近くに移動させられ「ともに生き、ともに死ぬ」と教えられた。手榴弾の配布は「自決せよという言葉以上の圧力だった」という▼文部科学省による高校教科書の検定では、集団自決を日本軍が強制したという趣旨の記述が修正された。例えば「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」と▼同省は「近年の状況を踏まえると、強制したかどうかは明らかではない」と説明している。自由意思とでも言いたいのだろうか。金城さんは「歴史の改ざん。軍の駐留先で集団自決が起きている。本質はそこにある」と訴えている▼金城さんにとって、語りたい過去ではないはずだ。過ちを繰り返さないため、歴史の証言者になっている。耳を傾けたい。
(東京新聞 2007年4月1日付コラム 「筆洗」)
◇
偶然にも一週間前の9月2日の沖縄タイムス「論壇」に渡嘉敷在住の源哲彦氏が手りゅう弾に関する重要な発言をしていた。
その該当部分を抜粋次に引用する。
≪・・・戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
①1945年3月20日、赤松隊長から伝令が来て平時主任に対し渡嘉敷の住民を役場に集めるように命令した。 兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持ってこさせた。 兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
このことを「軍の命令」、「軍の強制あるいは関与」が無かったとは言えまい。 当時の村長や兵事主任はすでに故人となり、生の声で「証言」を聞くことは出来ないが、富山氏は生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」といったのを直接聞いた事がある。≫(沖縄タイムス)
長々と源氏の「論壇」を引用したのには金城重明氏の証言に重大な関連があるからだ。
>戦後、富山真順氏(故人)は、軍から「自決命令」が出されていることを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。
奥茂治氏が実際に『渡嘉敷村史・通史編』の該当部分を確認したら、富山証言のいたるところに「軍命により」との書き込みが挿入され、その部分はインクの色、筆跡からいって後日書き込まれたことが明らかだったという。
>兵事主任は軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に招集した。
・・・兵器軍曹は集まった20数名の者に手りゅう弾を2個ずつ配り、“訓示”をした。「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。 敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのあるときは、残りの1初で自決せよ!」。
しかし、当時16歳の金城重明氏は「手りゅう弾は貰っていない」と証言している。 そのため二つ歳上の(18歳)の兄と二人で母や弟、妹を石で撲殺するという悲惨な体験をすることになる。
手榴弾を貰ってなかったから結果的に生き残ことになったのだ。
当時16歳の少年より、当時の実情を知っていたのは村長や兵事主任の富山氏だろう。
だが、金城氏が実際に手りゅう弾を貰っていない以上、「村史」に書かれた富山氏の証言は嘘ということになる。
源氏が富山氏の生前「真実は今や私だけが知っている。 その真実は墓場まで私が持っていく」という言葉を直接聞いたとすると、
富山氏が今まで話してきた証言は嘘だということになる。
富山氏は(何らかの目的の為に)嘘を「村史」に残して真実は墓場の中まで持っていったことになる。
計らずも源氏は富山氏の生前漏らし言葉を直接聞くことにより富山氏の嘘を自ら証言する形になった。
してみると源哲夫氏の「論壇」の、「真実」は消せない 軍命による集団自決
というタイトルが妙に意味深に思える
当たり前です、戦争を体験した非戦闘員も戦闘員も口を揃えて【戦争はしちゃいかん】と語ります。
体験者は【戦争反対】と口にしません。口にするのは同年齢層でも非体験者だけで在ること。
【戦争反対】 その主張が戦争をする前提をもって反対を唱えていることに自覚がない摩訶不思議。
体験者は是も非もなく揃って【戦争はしちゃいかん】と言う、その理由にメディアが気付かない。
戦争に賛成も反対もなく、戦争そのものがいけないとし、体験者が【戦争はしちゃいかん】と言う。
報道の読谷村元陸軍高射砲隊兵の渡口彦信氏94歳【これまで語ってこなかった戦争体験】を軍の立場で語ったことは珍しく、勇気が在る方と想います。
実は【戦争はしちゃいかん】と語る体験者(軍人の場合)は、自己関与に一切口を噤むのが共通していた。だから、それ以上の言及がなかったこと。
恐らく、事実を語ると自身の心が折れてしまう気がするのだろう。自責だけでなくそれ以上が在る。
だから、体験者の証言は受動的で客観的な言葉で語ることが多かった理由で在る。
(㊟読売新聞渡辺社長 配属先が横浜高台の高射砲陣地、砲弾が演習用の木製のままで在ったことに驚き、上官を「こんなんでやれんでしょっ」と糺せば、「心配ない、そのときは実弾が渡る」との返事にまた驚いたとのこと。戦後、東大に復学した渡辺氏が200人の赤い手下を従える日本共産党の在東大の細胞役に抜擢されていた、共産党員だった。卒後、党内で出世したがアッサリ辞めて読売新聞に入社した。その理由を「日本共産党にがっかりした」として、「俺は共産主義でもなんでもない、愛国主義だ」と断じた。だから政権与党に重用されて歴代首相から厚い信頼を得た)
今回、渡口彦信氏94歳が沖縄タイムスの取材で【自責の念に駆られ】と告白したことも、色々知る関与者として口に出来なかったので在る。
(㊟沖縄守備隊高射砲隊の旧日本陸軍九九式88mm高射砲 今の海上自衛隊艦艇の主砲で在るイタリア製射撃管制レーダー照射型76mm速射砲と射程が同じく16kmです。えっ、戦車より小さい口径76mmが軍艦の主砲?・・・今の艦砲は対艦用ではなくて、自艦艇に飛来する亜音速の対艦巡航ミサイルを撃墜するための射撃管制レーダー照射型防御砲です。旧日本軍と違って今の速射砲弾の先端には金色の「近接信管」が付いているので確実に撃墜します。旧日本軍には近接信管が無かったので当たりません。現在、例え敵が対空砲火をかいくぐっても、今度は毎分4500発の20~30mm多連装機関砲が待ち構えています、弾幕です。然し、旧日本軍の最後の撃墜手段が40mm高射機関砲でしたが、砲弾を重力で上から機関砲の機関部に落とし入れる100年前の仕組みなので、発射音が「タン、タン、タン」の超遅でしたから、時速500km前後の敵機にまったく当たりません)
なお、当時、異常体験をかろうじて記憶に留める幼かった方も今や80歳台です。沖縄県民の平均寿命が男80歳・女87歳ゆえに、10年以内に体験者がいなくなること。
玉城知事が本日の追悼式典で戦争体験を語り継ぐと
挨拶したが、戦争体験を語れば平和が得られることは100%在り得ません。
今の考え方は戦争をするのではなく、「戦争を抑止させる」ことが先進国の軍隊の在り方です。
まさに渡口彦信氏(94)の「戦争は二度としてはいけない」を現わす体制を構築することが軍隊の責務で在ります。
よく、「平和的な外交手段で国際問題の解決を図るべきだ」と一見綺麗ごとだがその実世間離れの意見を聴くことが在る。
或いは、「戦争は最後の外交手段で在る」とする頓珍漢な愚論を説くしたり顔の方もいる。
そして、「安保関連法で日本が戦争する国になった」と妄想を喧伝した日本共産党の事例が在る。
これらの暴論に共通するのが戦争をその実是認している思想に在ること、危険な考え方で在る。
そして、戦争を口にする癖に戦争そのものを知らない馬鹿げたことが共通していること。
戦えば戦争なのか? 我が国の戦国時代でもその様なおちゃめな戦争など試が在りません。
戦争 その前に必ず敵軍と自軍の分析を行い戦術を組立てます。それなしに戦う事例を知らない。
すなわち、戦争に勝つための【戦略】が組めないと戦争が不可能で在ることを、驚くことに、おちゃめな戦争論者が知らない分けである。
戦争は勝てると確信の戦略が無ければ必ず負ける。
それなのに、自国の抑止力態勢どころか敵の現状も知ろうともせずに、なにを軽々に戦争する日本と馬鹿げたことを言っているのかも自覚が無い。
どんなに平和的な外交で問題を解決と唱えても、主張の裏返し力の証しを見せ付けて相手に理解させないと必ず侮られてしまうのが外交で在ること。
証しも無い国の主張に耳を貸す国はいません。
玉城知事の本日の挨拶、「日米両政府へ在沖縄米軍基地面積と辺野古埋立ての意見、中國を暗示した沖縄との伝統的な交流史、そして膨張主義中國の尖閣諸島侵犯に全く言及無し」の趣意、2018年10月知事選演説と同じで在った。
それを、当選公約で玉城知事が【沖縄にアジアのダイナミズムを導入する】と表した。
それが2019年4月中旬に北京宮殿詣でから帰国した玉城知事の第一声【沖縄を一帯一路の通過点にしたい】で在った。沖縄が独立国家と誰かに言い含められていたわけだ。
玉城知事がどんなに中國交流史を持ち上げても、琉球大学医学部が本島住民遺伝子解析で【大陸の影響がない、むしろ内地と互いに影響し合っている】と表した。
玉城知事が今日も言った太古からの大陸交流が事実なら、なぜ中國人との混血残滓がないのか理由を教えてくれ。
最低でも、現物証拠でも、今から3000年前の縄文時代後期から沖縄古代人が伝統漁船サバニで九州を起点に内地交流を活発にして来た。
ところが、サバニが中國大陸に渡っていた中國の古文書記述を見たことが無い。
今から2000年前の弥生時代に、中國人官僚が福岡の出張所でしたためた外交文書と輸出入明細を書いた時の硯が福岡市内の遺跡で発掘されている。
これから察すると、国次元の支配層が漢字の読み書きが出来ていたことになる。まさに、今で言う国際情報化社会の走りで在ったこと。
邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使者を送り、皇帝が100枚の銅鏡を土産に持たせたこと(通称、卑弥呼の鏡)。弥生時代のことで在る。
玉城知事が中國交流史の沖縄と言うなら、妄想ではなくて証拠を現わすこと。
序に、挨拶で玉城知事が独自な文化の沖縄と独立を匂わす言葉を使ったが、沖縄方言そのものが1000年前の平安時代の古語で在るから日本語体系に在る、すなわち、発音も中國語と全く違う。
対して、沖縄には遺物と言えば北谷町で数年前に発掘された5500年前の福岡県朝倉市産の縄文土器だけで在ること。
だから、琉球大学医学部の公表通りだった。