狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄戦再検証、二中の恩人高山大尉

2020-08-20 14:51:13 | ★改定版集団自決

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログをサルベージして那覇高生の恩人、高山大尉2014-06-19

を引用・編集して再掲しました。

 

校歌に戦禍 込めた願い 那覇高生が学ぶ2014年6月18日 09:18

那覇高校校歌

那覇高校校歌

世紀の嵐吹きすさみ 故山の草木貌(かたち)変え-。

県立那覇高校の校歌の1番は「世紀の嵐」という沖縄の戦禍で始まり、故郷の山河、草木も変わり果ててしまった、と歌う

2、3番は復興などがテーマで、校名の「那覇高校」は4番で初めて登場する。「なぜこのような歌詞になったのか」。慰霊の日を前に、校歌を通して沖縄戦を考える授業が17日、同校であった。(西江千尋)

 全校生徒を対象にした特設授業で、歌詞とその意味を載せた資料などを基に校歌の成り立ちを各クラスで話し合った。

 初めて校歌の意味を知った生徒がほとんど。「戦争で全部奪われた苦しみを伝えたかったからじゃない?」「変わり果てた沖縄のありのままを表現して、忘れないようにしたと思う」とさまざまな意見が交わされた。

    ☆

校歌の1番は「世紀の嵐」という沖縄の戦禍で始まり、故郷の山河、草木も変わり果ててしまった、と歌う。

「故郷の山河、草木も変わるほど吹き荒れた”世紀の嵐”とは沖タイが出版した『鉄の暴風』を連想させる。

上記の那覇高は戦前の県立二中である。

現在の那覇高生は、各クラスで校歌の歌詞の意味について話し合った結果「初めて校歌の意味を知った」という。

歌詞の意味を今頃勉強するのも結構だが、二中の先輩の戦死者の数が、一中(現在の首里高校)の戦死者に比べて極端に少ない理由は、当時二中に配属将校として赴任していた高山大尉のおかげだ。

この事実を知る沖縄県民はほとんどいない。

いや那覇高校生やОBでさえ知るものはいない。

改めて高山大尉について学ぶべきだろうが、かく言う筆者も恥ずかしながらその事実を知らなかった。 

当時から二中学徒の命の恩人である高山大尉について報じるメディアはなかったからである。

ネットが普及するようになって初めて、その事実を知った次第。

沖縄メディアにとって、県民の命を救った日本兵のことを報じるのは、「社の方針」に合わなかったのだろう。

以下は 過去ブログの再掲であるが一部読みやすいように編集してある。

二中の恩人高山大尉 2010-09-02

戦後65年にもなると物故した戦争体験者も多く、また当時幼なかった体験者がおぼろげな記憶をもとに口を開く場合も多い。

当然沖縄戦の真相を解明するのがますます困難になってきている。

次に引用するのは琉球新報に掲載された記事で、琉球王国の血筋を引く日本軍将校が沖縄戦で亡くなって、その骨を拾ったという元農林学校・大城さんの証言である。

65年後 遺族と対面 元農林学徒・大城さん

琉球新報2010年6月21日       
 沖縄戦当時、県立農林学校生徒で農林鉄血勤皇隊として動員された大城仁光さん(80)=糸満市=は、米軍との戦闘で亡くなった農林隊の配属将校だった尚謙少尉の遺族と戦後65年目に初対面を果たした。大城さんは当時、亡くなった尚少尉の遺骨を取りに戦場に戻るよう命令を受けており、琉球王家の血を引く尚少尉の最期を知る数少ない生存者の1人。大城さんは8日に那覇市首里にある尚家の神ヤーを訪ね、尚少尉のおいに当たる桃原農園社長の尚厚さん(72)と対面し、尚少尉の位牌(いはい)に手を合わせて冥福を祈った。
 尚少尉に率いられた農林隊は、東村内福地で米軍の猛攻を受けた。15歳の少年だった大城さんは岩陰に隠れて銃撃を逃れたが、尚少尉ほか10人が亡くなった。

 大城さんは内福地を離れた後、東村有銘で二中隊の配属将校、高山代千八中尉から尚少尉の遺骨を取ってくるよう命令を受けた。2日間かけて内福地に戻り、半ば白骨化した尚少尉の体から鎖骨を取り川で洗い清め、白い布にくるんだ。有銘に戻り高山中尉に遺骨を託した。その後、高山中尉は本土に帰ったという。「遺骨はちゃんと家族に届けられたのか」。役目を果たせたのか心にずっと引っかかっていた。
(略)(慶田城七瀬)

                        ◇

■沖縄紙が報じる日本軍の印象

沖縄紙で沖縄戦関連の記事を読むほとんどの読者は、大体次のような先入観を持つ。

戦前・戦時中の日本軍は残虐非道であり、一方敵であるアメリカ軍は人道的であった」と。

事実、そのような意味のことを平気で書く識者もいるし、それを掲載する新聞も多い。無意識のうちに「日本は沖縄住民を虐殺に来たのだが、米軍が解放軍」という錯覚に陥る読者もいる。

沖縄紙が報じる沖縄戦は終始「日本人(日本軍)vs沖縄住民」という対立構造で描かれている。

日本軍の中にも、例えば『鉄の暴風』に登場する知念副官のように、多くの沖縄人がいたことは事実だが、たいてい悪役として描かれている。

沖縄戦史を研究している星雅彦氏によると、沖縄戦体験者の聞き取り調査の過程で日本軍の行った「善行」はすべて公的刊行物から削除され、

中には父親を米兵に虐殺された証言者が、射殺したのは「アメリカ兵ですよ」と何度も繰り返し念を押したにもかかわらず、実際は公的刊行物に「日本兵に射殺された」と記載されたという。

上記琉球新報記事には、琉球王家の血を引く尚少尉と高山大尉に関わる記事だが、本稿の主題は戦死した尚少尉ではなく、その骨を拾った高山大尉についてである。

ここで、ひとつの疑問が生じてくる。

尚少尉が県立農林学校の配属将校として北部地域に居たことは理解できるとしても、那覇に在る県立二中(現在の那覇高校)の配属将校・高山大尉が北部に居たのには何かわけがあるのか。

南部戦跡にある「沖縄師範・健児の塔」や首里高校内にある「一中・健児の塔」でもわかるように、沖縄の学徒は第32軍とともに南部に移動したはずだ。

従って沖縄師範や県立一中、さらに「ひめゆりの塔」の県立一高女や「白梅の塔」県立二高女の学徒も皆南部に移動したため多くの死傷者を多く出したことが知られている。

沖縄師範健児の塔

一中健児の塔

それに比べ県立二中だけが那覇にある学校でありながら、北部に移動したため比較的死傷者が少なかったといわれている。

そのためか、「二中健児の塔」(那覇高校)が現在どこに建立されているかを知る県人は少ないし、二中や那覇高校関係者でさえもほとんどが知られていない。

現在、那覇高校、二中卒業者の間で「創立100周年行事」が10月におこなれるための準備が着々と進んでいるようだ。

だが、何ゆえ二中だけが第32軍の命令に逆らって北部に移動し、そのため死傷者が少なかったのか、その理由を知る人は少ない。

■二中配属将校の遺族からのメール

実は当日記は、三年前に、その謎を解く記事をエントリーしているが、改めて高山大尉について取り上げる気になったのは、先月の8月15日の終戦の日に、高山大尉の親族の方からメールを戴いたからである。

偶然に当日記の古いエントリー見て、(お祖父さんにあたる)高山大尉の奥様(お祖母さん)見てもらったところ涙を流して喜ばれたという。

高山大尉の奥様によると、夫高山大尉が沖縄戦で沖縄に配属された事実は知っていたが、夫は生前沖縄戦について語ることはなく、沈黙したまま一度も沖縄を訪問することなく物故されたという。

ただ、奥様は戦後沖縄紙が報道する「残虐な日本兵」の印象と夫高山大尉の印象を重ねることが出来ず、生前沖縄戦のことを聞くことができなかったという。

ところが、遺族の方から当日記の「高山大尉は二中の命の恩人」を言う記事をしり、夫の没後晴れ晴れとした気持ちで初めて夫の赴任地の沖縄を旅行したという。

高山大尉の記事を紹介する前に、関東在住の那覇高、二中出身者の同窓会である「関東城岳同窓会」の中にその謎を探ってみた。

以下引用です。

太平洋戦争と県立第二中学校
 沖縄におけるあの過酷な地上戦は当然のことながら二中の生徒達の頭上にも等しく襲い掛かった。しかし、女子師範・一高女の”ひめゆりの搭”、二高女の”白梅の搭”、一中の”健児の搭”に相当するものは幸運にも二中にはない。
 伝えられる所によると、二中は南部の高嶺村に配置される予定だったが、ガダルカナル生き残りの配属将校高山大尉が「南へ行くとあぶない、北へ行こう」と指示、山城篤男校長(5代校長)もそれに呼応し、「いったん家に帰って肉親と別れを惜しんで来い」と帰省させたが、そのころには、首里、那覇のそれぞれの家族はみんな国頭に疎開していたため、疎開先の国頭に会いに行ってしまった。そのうち米軍の上陸で島が南北に両断されて、戦闘に参加出来ず、そのまま終戦を迎えた・・・と。

太平洋戦争の終結と共に我等が沖縄県立第二中学校は歴史の彼方に去っていった。

【おまけ】

同じように沖縄紙が無視する沖縄出身の軍人の例に、座間味沖に集結し島を取り囲んだ米艦船に特攻攻撃をかけ散華した伊舎堂大尉がいる。

昭和20年の3月26日。慶良間諸島の座間味島では忌まわしい集団自決が行われた。

これに関する膨大な記事が沖縄タイムスに掲載されたことは周知のことだが、その同じ日の26日の早朝、

慶良間洋上を埋めつく米艦船に特攻し散華した沖縄出身の伊舎堂大尉のことを報道した記事を、少なくとも筆者は見た記憶はない。

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6 コメント

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鉄の暴風 ・・・ ?  艦砲射撃は暴風じゃなくて精密着弾でしたよん、嘘を吐いたら遺憾です。 (坂田)
2020-08-20 21:59:30
沖縄民謡『艦砲ぬ喰ぇー残さー♪』、地上戦を生き延びた人たちの戦争への恨みと悲惨さを謳った名曲です。

もしも、その艦砲射撃を鉄の暴風と例えて自慢する方がいたら大間違い、真っ赤な嘘だ。

どの国も海上艦艇が艦砲でそんな無駄撃ちを誰がしましょうか。

軍艦が無暗やたらに撃つのは戦術に非ず。

米軍が沖縄侵攻前に偵察機空撮写真で綿密な沖縄本島写真を基に地図を作製した。

そして、地図に『縦横180m四角の網目』を被せた。その網目一つ一つに座標を付けた。

例えば一つの網目に、『縦がABCDで横が1234』を付けた座標地図を作製していた。

艦砲射撃の運用は、その縦横座標のアルファベットと数字を、先に上陸した偵察員と通信員が海上艦艇に連絡したら、その連絡指示した一つの網目に正確に一斉着弾させることが出来る。これが戦術で在ること。

(㊟この様に、戦場では頼りになるのが無線機や映像送信機器などの通信機器で在ること。在沖縄米軍海兵隊には通信隊がいる、通信任務と同時にキャンプ・ハンセン第3偵察大隊(=海兵隊の特殊部隊だけが他の3軍の特殊部隊と作戦統合されない)の進軍の横と後ろを護衛する任務を併せ持つ)

地上戦末期、南部に撤退中の日本軍の逃避行路に、正確に艦砲射撃が追い掛けて来た理由は、座標地図を読んだ偵察通信員の連絡態勢が在ったからだ。

徹底抗戦と言いながら、現実を分析しなかった日本軍。米軍は沖縄侵攻前に、沖縄守備隊の陣容を掌握していた。

その理由は、西太平洋島嶼戦の日本軍虜囚が沖縄守備隊の陣容を尋問ですべて晒していたからだ。

艦砲射撃をなめたらいけない。これが、艦対艦なら最大43km先から狙撃してしまう。

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Unknown (amai yookan)
2020-08-21 10:58:46

戦後の沖縄戦は歪められ記録されて行ったが・今もそれは続いている

当初は、米軍により・今は中共やその手先、サヨクの思う儘、その悪の頂点は・半分以上嘘の塊り=「鉄の暴風」だ

これは何としても「真正保守の事業」として「正しい沖縄戦の記録」を執筆願いたいものだ、今最後の崖っぷちに居ると思われるからだ。

星雅彦・上原 正稔・恵隆之介・他の、錚錚たる執筆陣を擁しているのだから。
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富村 順一証言 (安仁屋 正昭)
2020-08-21 22:27:35
座間味との出会い
 私が座間味島に行ったのは座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩していましたが、駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。
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証言 続き (安仁屋 正昭)
2020-08-21 22:28:41
私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。
 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。
そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
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証言 続き (安仁屋 正昭)
2020-08-21 22:29:58
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、「この四冊の本は嘘なんだ。梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、自決は我々村の有志が決めたものなんだ。このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決していった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。何とか真実を公表できないものか。座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。それが大きな問題だ。君に頼みたいことがある。賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。君は学校へも行ってない。が、失うものもない。何でも云うことを云ってきた。書いてきた。是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。そうでなければ死んだ人は浮かばれない。梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。
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富村が探し出した (安仁屋 正昭)
2020-08-21 22:32:31
あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。
〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)
そしてついに、梅澤 裕氏を探し出した
『梅沢隊長は健在だ』
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