「直虎」の名がどれだけ使われたのかを調べていて気がついたのですが、 井伊谷の領民への書状として、直虎の名前が残っているのはどうも1568年の徳政令だけのようです。
そうすると直虎と言う名前は徳政令のために作られた名前と言う事になります。
何故それでは次郎、或いは次郎法師の名前で1568年の徳政令を出さなかったのかと言うと、次郎、或いは次郎法師と言う名は「惣領名」に過ぎないからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E9%A0%98
惣領
惣領(そうりょう・総領)とは、跡取り、家督相続予定者のこと。
引用終了
徳政令とは本来、家督を相続された当主の名で発令、実施されるものであり、惣領名での徳政令は有効とは言えず、今川氏真の圧力で徳政令を実施せざるを得なくなった(或いは次郎法師が井伊谷城を小野政次に奪われた後に今川氏真と小野政次が勝手に直虎の名前をつけて徳政令の書状を作った)時に初めて「直虎」と言う名を使ったのではないかと思筆者は考えるようになりました。
そしてそうなると、惣領である次郎がいなくなってしまうので、新野親矩の甥を次郎としたのかも知れません。
「何故、虎松を次郎にしなかったのか」と言うと、1568年当時、虎松の命は今川氏真に狙われていたからです。
そしてこの想定からすると、井伊家の家系図に直虎の名前が無いのは当然で、井伊家の家系図に直虎の名前があれば1568年の徳政令の実施を井伊家で認めた事になるからです。
それと次郎法師がいつまでも惣領名でいたのは、今川氏真とその配下の小野政次からの徳政令の実施圧力を先延ばしする為だったのではないか?と言うのが筆者の見方です。
そして虎と言う字がある虎松が本来は井伊直虎を名乗るはずだったのが、徳政令で直虎と言う名を使われて閉まった為に、「直政」としなければならなくなったのかも知れませんが、それはさだかでは有りません。
ところでこの1568年に実施されるはずだった徳政令はその後にどうなったのでしょうか。
1568年内には小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復したとの事です。。
果たして債権者側が財産を守れたのでしょうか?
それとも債権放棄になってしまったのでしょうか?
或いは両者の中間の所で債務者と歩み寄ったのでしょうか?
このあたりの債権者と債務者との交渉について、関連した古文書が出て来ると謎解きに何か進展があるかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%99%8E
同年今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、二年間発動されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、永禄11年11月9日、徳政令の発動にふみきらざるをえなくなった。次郎直虎と署名した文書があり今川氏の関口氏経と連署して徳政を蜂前神社に伝えている[11][12]。この背景には、直虎は債権主である銭主方と結託して徳政を施行しようとはせず、農民は今川氏を頼りに徳政の実地をせまっていた状況がある[13]。すなわち直虎と銭主方による徳政令拒否派と井伊氏の家老小野但馬守(道好)と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派の対立があり[14]、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となったといえる[15]。
小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、道好の直親への讒言を咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月にようやく撤退し、直虎は三度井伊谷城を奪還した。
引用終了
そうすると直虎と言う名前は徳政令のために作られた名前と言う事になります。
何故それでは次郎、或いは次郎法師の名前で1568年の徳政令を出さなかったのかと言うと、次郎、或いは次郎法師と言う名は「惣領名」に過ぎないからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E9%A0%98
惣領
惣領(そうりょう・総領)とは、跡取り、家督相続予定者のこと。
引用終了
徳政令とは本来、家督を相続された当主の名で発令、実施されるものであり、惣領名での徳政令は有効とは言えず、今川氏真の圧力で徳政令を実施せざるを得なくなった(或いは次郎法師が井伊谷城を小野政次に奪われた後に今川氏真と小野政次が勝手に直虎の名前をつけて徳政令の書状を作った)時に初めて「直虎」と言う名を使ったのではないかと思筆者は考えるようになりました。
そしてそうなると、惣領である次郎がいなくなってしまうので、新野親矩の甥を次郎としたのかも知れません。
「何故、虎松を次郎にしなかったのか」と言うと、1568年当時、虎松の命は今川氏真に狙われていたからです。
そしてこの想定からすると、井伊家の家系図に直虎の名前が無いのは当然で、井伊家の家系図に直虎の名前があれば1568年の徳政令の実施を井伊家で認めた事になるからです。
それと次郎法師がいつまでも惣領名でいたのは、今川氏真とその配下の小野政次からの徳政令の実施圧力を先延ばしする為だったのではないか?と言うのが筆者の見方です。
そして虎と言う字がある虎松が本来は井伊直虎を名乗るはずだったのが、徳政令で直虎と言う名を使われて閉まった為に、「直政」としなければならなくなったのかも知れませんが、それはさだかでは有りません。
ところでこの1568年に実施されるはずだった徳政令はその後にどうなったのでしょうか。
1568年内には小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復したとの事です。。
果たして債権者側が財産を守れたのでしょうか?
それとも債権放棄になってしまったのでしょうか?
或いは両者の中間の所で債務者と歩み寄ったのでしょうか?
このあたりの債権者と債務者との交渉について、関連した古文書が出て来ると謎解きに何か進展があるかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%99%8E
同年今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、二年間発動されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、永禄11年11月9日、徳政令の発動にふみきらざるをえなくなった。次郎直虎と署名した文書があり今川氏の関口氏経と連署して徳政を蜂前神社に伝えている[11][12]。この背景には、直虎は債権主である銭主方と結託して徳政を施行しようとはせず、農民は今川氏を頼りに徳政の実地をせまっていた状況がある[13]。すなわち直虎と銭主方による徳政令拒否派と井伊氏の家老小野但馬守(道好)と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派の対立があり[14]、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となったといえる[15]。
小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、道好の直親への讒言を咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月にようやく撤退し、直虎は三度井伊谷城を奪還した。
引用終了