桶狭間の戦いの後に今川氏真による信長の織田氏へ反撃がなされていない謎について調べてみました。
桶狭間の戦い直後は今川義元を始め主な指揮官クラスの武将の多くが戦死してしまっていた混乱期ですので無理、そして戦いは6月ですから、その直後は農繁期であり、農民の参加が困難な事で無理だったかも知れません。
このあたりが尾張の織田氏と守護大名の流れの今川氏との違いですかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8737395.html
戦国時代は戦の給与・武器と食料は誰が負担する?
解決済
気になる
0件
質問者:nobuake
質問日時:2014/08/31 17:04
回答数:5件
戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。
(1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが
村から集まった兵は給与はゼロ、なしだんでしょうか?
もしも、給与ゼロだったら、当然略奪とか起こりますよね?
給与ゼロだったら、戦いに参加したくないです。
給与があったり、褒美があったり、略奪できて得るものがあれば別ですが。
(2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか?
農民は自分で食料や鉄砲など用意できないです。
もし、各自負担だったら、食料を荷駄などでまとめて輸送はできません。
食料や武器は、大名が用意するもんでしょうか?それとも各武将が用意する
もんですかね?あくまでも各自負担ですか?
(3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。
普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ
ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか?
詳しい人がいたら教えて下さい。
No.1
回答者: titelist1 回答日時:2014/08/31 20:23
戦費が自己負担であったのは鎌倉時代から室町時代の応仁の乱までです。幕府に所領の安堵を受けているためにその奉公として戦場に参加させられたのです。この者達を御家人と呼びますが、幕府からお金を支給せずとも所領からの年貢米で賄ったのです。平家を京都落ちさせた木曽義仲は褒美を与えず、京都で略奪させたので悪評が広がり、朝廷は源頼朝に追討を要請した。
応仁の乱後の戦国時代になると、質問者が指摘しているような方式では統制が取れないので、戦国大名が戦費を支給するようになるのです。古いタイプの戦国大名は守護大名から上がってきているので戦の形が古いのです。したがって、農繁期には戦に農業をしている武士達を投入できないのです。武田と上杉の川中島合戦が何度も行なわれているが、これにあたります。
一方、下克上でのし上がった戦国大名は違っているのです。その典型的なのが織田家なのです。熱田の港を支配し、海運業の利益を上納させていたのです。東海道は伊勢湾を舟で渡る道でした。濃尾平野の大河は幾つもあり交通の難所だったのです。織田信長の楽市楽座もお金を得るための方法なのです。資金を持った大名はお金で兵士を雇うのです。そして戦を仕掛けるのはいつも農繁期なのです。お金があるので鉄砲も買えるのです。
もう、お判りですね。古い戦国大名は領民に戦費を負担させ、新しい戦国大名は大名が戦費を出した。その費用は勝ち取った領地の領民に後から巻き上げるのです。
引用終了
この資料を見ると尾張がかなり経済面で石高以外の豊かさが有った事がわかり、それで鉄砲などを十分に揃えていたのでしょう。
6月の桶狭間の戦い後ですが、農繁期を過ぎた10月~12月には一度反撃のチャンスが有ったと思われるのです。
その一つは美濃の斉藤義龍との同盟強化により尾張に攻め込む事なのですが、そのような動きをした記録は全く見当たりません。
当時は今川氏と武田氏、そして北条氏が1554年からの甲相駿三国同盟を結んでいたので、「もしかすると武田氏が美濃の斉藤氏と国境紛争で反目しているのではないか?」と調べてみると、そうした史実が見当たりません。
なのに今川氏真も美濃の斉藤氏も何故か連携をとる動きはしていません。
1561年6月に美濃の斉藤義龍は若くして病死しますが、前年の秋頃からどうも体調が思わしくなかった可能性は有るのかどうか、と言う点を知りたいのですがそれはわかりません。
しかし若いながらも子の斎藤龍興は既にいたわけで、義龍が病床でも子と家臣の竹中重治などに優秀な家臣に指示すれば美濃駿河同盟は有り得たと思われます。
そうこうしている内に家康の松平氏は1562年の清洲同盟で信長の織田氏と組む方向となり、流れは大きく変わってしまいました。
今川氏真が美濃の斉藤氏と同盟の動きをしていた場合には、家康の松平氏が織田方についていたかどうか疑問なわけで、歴史を変えた「今川氏と斉藤氏の謎」と言えます。
そして今川氏も斉藤氏も実質滅亡してしまいました。
桶狭間の戦い直後は今川義元を始め主な指揮官クラスの武将の多くが戦死してしまっていた混乱期ですので無理、そして戦いは6月ですから、その直後は農繁期であり、農民の参加が困難な事で無理だったかも知れません。
このあたりが尾張の織田氏と守護大名の流れの今川氏との違いですかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8737395.html
戦国時代は戦の給与・武器と食料は誰が負担する?
解決済
気になる
0件
質問者:nobuake
質問日時:2014/08/31 17:04
回答数:5件
戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。
(1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが
村から集まった兵は給与はゼロ、なしだんでしょうか?
もしも、給与ゼロだったら、当然略奪とか起こりますよね?
給与ゼロだったら、戦いに参加したくないです。
給与があったり、褒美があったり、略奪できて得るものがあれば別ですが。
(2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか?
農民は自分で食料や鉄砲など用意できないです。
もし、各自負担だったら、食料を荷駄などでまとめて輸送はできません。
食料や武器は、大名が用意するもんでしょうか?それとも各武将が用意する
もんですかね?あくまでも各自負担ですか?
(3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。
普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ
ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか?
詳しい人がいたら教えて下さい。
No.1
回答者: titelist1 回答日時:2014/08/31 20:23
戦費が自己負担であったのは鎌倉時代から室町時代の応仁の乱までです。幕府に所領の安堵を受けているためにその奉公として戦場に参加させられたのです。この者達を御家人と呼びますが、幕府からお金を支給せずとも所領からの年貢米で賄ったのです。平家を京都落ちさせた木曽義仲は褒美を与えず、京都で略奪させたので悪評が広がり、朝廷は源頼朝に追討を要請した。
応仁の乱後の戦国時代になると、質問者が指摘しているような方式では統制が取れないので、戦国大名が戦費を支給するようになるのです。古いタイプの戦国大名は守護大名から上がってきているので戦の形が古いのです。したがって、農繁期には戦に農業をしている武士達を投入できないのです。武田と上杉の川中島合戦が何度も行なわれているが、これにあたります。
一方、下克上でのし上がった戦国大名は違っているのです。その典型的なのが織田家なのです。熱田の港を支配し、海運業の利益を上納させていたのです。東海道は伊勢湾を舟で渡る道でした。濃尾平野の大河は幾つもあり交通の難所だったのです。織田信長の楽市楽座もお金を得るための方法なのです。資金を持った大名はお金で兵士を雇うのです。そして戦を仕掛けるのはいつも農繁期なのです。お金があるので鉄砲も買えるのです。
もう、お判りですね。古い戦国大名は領民に戦費を負担させ、新しい戦国大名は大名が戦費を出した。その費用は勝ち取った領地の領民に後から巻き上げるのです。
引用終了
この資料を見ると尾張がかなり経済面で石高以外の豊かさが有った事がわかり、それで鉄砲などを十分に揃えていたのでしょう。
6月の桶狭間の戦い後ですが、農繁期を過ぎた10月~12月には一度反撃のチャンスが有ったと思われるのです。
その一つは美濃の斉藤義龍との同盟強化により尾張に攻め込む事なのですが、そのような動きをした記録は全く見当たりません。
当時は今川氏と武田氏、そして北条氏が1554年からの甲相駿三国同盟を結んでいたので、「もしかすると武田氏が美濃の斉藤氏と国境紛争で反目しているのではないか?」と調べてみると、そうした史実が見当たりません。
なのに今川氏真も美濃の斉藤氏も何故か連携をとる動きはしていません。
1561年6月に美濃の斉藤義龍は若くして病死しますが、前年の秋頃からどうも体調が思わしくなかった可能性は有るのかどうか、と言う点を知りたいのですがそれはわかりません。
しかし若いながらも子の斎藤龍興は既にいたわけで、義龍が病床でも子と家臣の竹中重治などに優秀な家臣に指示すれば美濃駿河同盟は有り得たと思われます。
そうこうしている内に家康の松平氏は1562年の清洲同盟で信長の織田氏と組む方向となり、流れは大きく変わってしまいました。
今川氏真が美濃の斉藤氏と同盟の動きをしていた場合には、家康の松平氏が織田方についていたかどうか疑問なわけで、歴史を変えた「今川氏と斉藤氏の謎」と言えます。
そして今川氏も斉藤氏も実質滅亡してしまいました。