桶狭間の戦いに至った今川方の尾張侵攻について、これが今川義元の上洛が目的だったのかどうか、と言う議論があります。
最近の考え方は「上洛をするつもりではなかったとする」ものが多いようです。
引用開始(一部抜粋)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/10435/%89%B1%8B%B7%8A%D4%82%CC%90%ED%82%A2/10/
信長は後に将軍・足利義昭を奉じて京周辺の支配や地方大名の紛争を調停する天下人の役割を間接的に担い、甲斐の武田信玄が元亀年間に行った西上作戦は上洛が意図されていた可能性が考えられているが(注1)、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に信長が上洛の名分に利用したように、将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が永禄2年(1559年)に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば、事前に越前の朝倉氏や南近江の六角氏などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。
既に合戦以前の情勢の節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている(注2)。
引用終了
筆者も「上洛が目的ではなかった」とする考えに現時点で同感です。
ただその理由と言うのが、この引用例と全く同じではなく、少し違うものです。
それは「仮に今川義元が上洛をするつもりならば、美濃の斉藤義龍にも事前に連絡を入れていたはずなのに、その形跡が無い」と言う点です。
では何故「その形跡が無いのか?」と言うと、「仮に美濃の斉藤義龍にも事前に連絡を入れていたのなら、今川軍が進攻して来るのに合わせて斉藤義龍の美濃軍も尾張に北から進攻していたはずだから」です。そしてその史実は全く有りません。
これに近い事は前回の記事でも書きました。
皮肉にも今川義元がもっと欲を張って上洛を目論んでいたならば、連絡を受けた美濃の斉藤義龍もほぼ同時に尾張侵攻をしていた可能性が高く、その場合に信長は美濃方面と桶狭間方面の両方に兵力を配分せねばならなくなり、両方で負けていた可能性が高かった事になります。
この桶狭間の戦いの後、信長は美濃攻めで斉藤氏を実質滅ぼしますが、本能寺の変ではその信長も討たれます。
そして本能寺の変の首謀者が実は明智光秀ではなく、斉藤利光だったとする説があるのですが、筆者も同感なのです。
その斉藤利光ですが、正室は斉藤道三の娘ですから斉藤義龍の姉か妹と言う事になります。
最近の考え方は「上洛をするつもりではなかったとする」ものが多いようです。
引用開始(一部抜粋)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/10435/%89%B1%8B%B7%8A%D4%82%CC%90%ED%82%A2/10/
信長は後に将軍・足利義昭を奉じて京周辺の支配や地方大名の紛争を調停する天下人の役割を間接的に担い、甲斐の武田信玄が元亀年間に行った西上作戦は上洛が意図されていた可能性が考えられているが(注1)、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に信長が上洛の名分に利用したように、将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が永禄2年(1559年)に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば、事前に越前の朝倉氏や南近江の六角氏などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。
既に合戦以前の情勢の節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている(注2)。
引用終了
筆者も「上洛が目的ではなかった」とする考えに現時点で同感です。
ただその理由と言うのが、この引用例と全く同じではなく、少し違うものです。
それは「仮に今川義元が上洛をするつもりならば、美濃の斉藤義龍にも事前に連絡を入れていたはずなのに、その形跡が無い」と言う点です。
では何故「その形跡が無いのか?」と言うと、「仮に美濃の斉藤義龍にも事前に連絡を入れていたのなら、今川軍が進攻して来るのに合わせて斉藤義龍の美濃軍も尾張に北から進攻していたはずだから」です。そしてその史実は全く有りません。
これに近い事は前回の記事でも書きました。
皮肉にも今川義元がもっと欲を張って上洛を目論んでいたならば、連絡を受けた美濃の斉藤義龍もほぼ同時に尾張侵攻をしていた可能性が高く、その場合に信長は美濃方面と桶狭間方面の両方に兵力を配分せねばならなくなり、両方で負けていた可能性が高かった事になります。
この桶狭間の戦いの後、信長は美濃攻めで斉藤氏を実質滅ぼしますが、本能寺の変ではその信長も討たれます。
そして本能寺の変の首謀者が実は明智光秀ではなく、斉藤利光だったとする説があるのですが、筆者も同感なのです。
その斉藤利光ですが、正室は斉藤道三の娘ですから斉藤義龍の姉か妹と言う事になります。