本能寺の変に関しては襲撃メンバーについて謎が有ります。
それは織田信忠が立て篭もった二条城攻撃隊に旧室町幕府奉公衆が少なからずいた事です。
少なくとも後の山崎の戦いにも明智方として参戦している伊勢貞興、諏訪盛直、御牧兼顕が二条城攻撃に参加しているのですが、いくら光秀の実質家臣だからと言って、普通ならそのようなリスクの高い行動まで果たして採るでしょうか?
この三人は後の山崎の戦いでいずれも壮絶な最後を遂げています。
何故そこまでするのか?別に光秀と共に中国攻めに同行し、足利義昭を庇っている毛利氏に突然寝返り、秀吉の軍と戦っても良いわけです。その方がどう見ても勝算は高いのではないでしょうか。
まず旧幕府奉公衆であるこの三人は、本能寺で襲撃に参加してから二条城に向かったと言う状況ではなく、どうも最初から織田信忠を討つ為に動いていたようなのです。
「本能寺に向かう」と言っても、多くの兵は「家康を討つのかと思っていた」と言う記録がある通り、知らずに信長襲撃に参加してしまう事になったわけです。
つまりは「信長を討つ」と最初から多くの兵に言ってしまうと、一つは情報漏えいで織田方に知られてしまう事、もう一つは「信長を討つ」と聞いて怯えて逃げ出す雑兵などが後を絶たない為、本能寺と言う場所しか指定せず、まだ多くの人は家康が京都にいると思っていた、と考えられます。
これで襲撃が始まってしまえば、知らずに参加してしまった雑兵と言えども、もう逃げ場はないわけで仕方なく明智方として参加していくしかなくなるわけです。
ところが、旧幕府奉公衆の割合が少なくない織田信忠襲撃部隊は、雑兵と言えどもどう考えても「家康を討つ」とは思えないわけであり、何か別の目的が有るのではないか?とも思えるのです。
無論、二条城へ攻撃が始まるのは本能寺が襲撃された後なので、雑兵達も逃げ場が無い、と思った事は多少考えられるのですが、その当時ではまだ信長が襲撃されたとはあまりわからなかったはずなのです。
つまり最初から織田信忠を討ち取るのが目的で有る事を認識していた部隊だったと考えられるのではないでしょうか。
そしてその理由を考えて行くと、ある可能性が浮かび上がって来ます。
それが何かと言えば、「中国攻めにあたって、織田信忠が征夷大将軍に任ぜられた」と言う事です。
当時は足利義昭がまだ征夷大将軍でした。
足利義昭を庇っている毛利氏を攻撃しようとすれば、毛利氏は当然のように征夷大将軍である足利義昭を盾にして、「織田は逆賊なり」とふれ回り、織田方に敵対する諸勢力を結集して行くはずだったと考えています。
「織田信忠が征夷大将軍に任ぜられる」、と言う事は、「足利義昭が征夷大将軍を解任される」、と言う事になります。
まず有り得ない話ですが仮に特例で二人の征夷大将軍の存在を容認しても結局両者は同格となるわけです。
いずれにしてもそうするとどうなるのか?と言えば、確かに征夷大将軍が当時やや形骸化しつつあったとは言え「征夷大将軍を討つのは逆賊」と言うレッテルを貼られる可能性が少なからず有ったはずです。
なので「織田信忠が征夷大将軍に任ぜられた」と言う事が朝廷から正式に公表される前に信忠を討ち取らないと、「逆賊のレッテルを貼られずに済むには信忠の征夷大将軍就任公表前に信長、信忠を討たないと、もう今後チャンスは無い」と言う事になります。
そして征夷大将軍就任が必要になったのは、中国攻め。
その中国攻めも何故か秀吉は毛利氏とは戦闘らしい戦闘はせず、ただ高松城の水攻めだけ、そして信長に毛利氏との大規模戦闘の援軍を依頼したのも秀吉、ならば信長か信忠のどちらかが征夷大将軍に任ぜられるのを計算して誘導したのも秀吉(と毛利氏の談合)なのか?と言う事になって来ます。
特に旧幕府奉公衆達は、足利義昭が征夷大将軍を解任されてしまえば戻るところが無くなるだけでなく、立場も弱くなり、そして信長、信忠を「征夷大将軍である足利義昭を追放した逆賊、織田信長を討つのは正義である」と言う大義名分を失う可能性が有るとなれば、これもやはり斉藤利三と同様に追い詰められていた人達なのだろうと見ています。
それは織田信忠が立て篭もった二条城攻撃隊に旧室町幕府奉公衆が少なからずいた事です。
少なくとも後の山崎の戦いにも明智方として参戦している伊勢貞興、諏訪盛直、御牧兼顕が二条城攻撃に参加しているのですが、いくら光秀の実質家臣だからと言って、普通ならそのようなリスクの高い行動まで果たして採るでしょうか?
この三人は後の山崎の戦いでいずれも壮絶な最後を遂げています。
何故そこまでするのか?別に光秀と共に中国攻めに同行し、足利義昭を庇っている毛利氏に突然寝返り、秀吉の軍と戦っても良いわけです。その方がどう見ても勝算は高いのではないでしょうか。
まず旧幕府奉公衆であるこの三人は、本能寺で襲撃に参加してから二条城に向かったと言う状況ではなく、どうも最初から織田信忠を討つ為に動いていたようなのです。
「本能寺に向かう」と言っても、多くの兵は「家康を討つのかと思っていた」と言う記録がある通り、知らずに信長襲撃に参加してしまう事になったわけです。
つまりは「信長を討つ」と最初から多くの兵に言ってしまうと、一つは情報漏えいで織田方に知られてしまう事、もう一つは「信長を討つ」と聞いて怯えて逃げ出す雑兵などが後を絶たない為、本能寺と言う場所しか指定せず、まだ多くの人は家康が京都にいると思っていた、と考えられます。
これで襲撃が始まってしまえば、知らずに参加してしまった雑兵と言えども、もう逃げ場はないわけで仕方なく明智方として参加していくしかなくなるわけです。
ところが、旧幕府奉公衆の割合が少なくない織田信忠襲撃部隊は、雑兵と言えどもどう考えても「家康を討つ」とは思えないわけであり、何か別の目的が有るのではないか?とも思えるのです。
無論、二条城へ攻撃が始まるのは本能寺が襲撃された後なので、雑兵達も逃げ場が無い、と思った事は多少考えられるのですが、その当時ではまだ信長が襲撃されたとはあまりわからなかったはずなのです。
つまり最初から織田信忠を討ち取るのが目的で有る事を認識していた部隊だったと考えられるのではないでしょうか。
そしてその理由を考えて行くと、ある可能性が浮かび上がって来ます。
それが何かと言えば、「中国攻めにあたって、織田信忠が征夷大将軍に任ぜられた」と言う事です。
当時は足利義昭がまだ征夷大将軍でした。
足利義昭を庇っている毛利氏を攻撃しようとすれば、毛利氏は当然のように征夷大将軍である足利義昭を盾にして、「織田は逆賊なり」とふれ回り、織田方に敵対する諸勢力を結集して行くはずだったと考えています。
「織田信忠が征夷大将軍に任ぜられる」、と言う事は、「足利義昭が征夷大将軍を解任される」、と言う事になります。
まず有り得ない話ですが仮に特例で二人の征夷大将軍の存在を容認しても結局両者は同格となるわけです。
いずれにしてもそうするとどうなるのか?と言えば、確かに征夷大将軍が当時やや形骸化しつつあったとは言え「征夷大将軍を討つのは逆賊」と言うレッテルを貼られる可能性が少なからず有ったはずです。
なので「織田信忠が征夷大将軍に任ぜられた」と言う事が朝廷から正式に公表される前に信忠を討ち取らないと、「逆賊のレッテルを貼られずに済むには信忠の征夷大将軍就任公表前に信長、信忠を討たないと、もう今後チャンスは無い」と言う事になります。
そして征夷大将軍就任が必要になったのは、中国攻め。
その中国攻めも何故か秀吉は毛利氏とは戦闘らしい戦闘はせず、ただ高松城の水攻めだけ、そして信長に毛利氏との大規模戦闘の援軍を依頼したのも秀吉、ならば信長か信忠のどちらかが征夷大将軍に任ぜられるのを計算して誘導したのも秀吉(と毛利氏の談合)なのか?と言う事になって来ます。
特に旧幕府奉公衆達は、足利義昭が征夷大将軍を解任されてしまえば戻るところが無くなるだけでなく、立場も弱くなり、そして信長、信忠を「征夷大将軍である足利義昭を追放した逆賊、織田信長を討つのは正義である」と言う大義名分を失う可能性が有るとなれば、これもやはり斉藤利三と同様に追い詰められていた人達なのだろうと見ています。