快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 足利義昭から伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らへ直接命令が出されていた可能性

2017-11-21 08:55:33 | 地震 津波
 本能寺の変に関して前回までの記事で書いた事、そして更に説明を追加してまとめてみたいと思います。
 信長を討ち取る命令は当時毛利氏の所領で擁護を受けていた征夷大将軍 足利義昭から旧室町幕府奉公衆へ、明智光秀を通さずに直接命令が出ていた可能性が十分に有る。 
 足利義昭が旧室町幕府奉公衆である細川藤孝らへの同様の命令は有ったかどうかはわからないが、有った可能性は十分に有り、その場合、細川藤孝らは事前に信長襲撃がいつかは起きるであろう事はわかっていた事になる。
 そして明智光秀が以前は細川藤孝の足軽に過ぎなかったにもかかわらず、信長にさっさち鞍替えして細川藤孝の上に立つ身分になったのを細川藤孝はあまり良く思っていなかった可能性も有る。仮にそうだとすれば柴田勝家と豊臣秀吉の仲が良くなかったのと似ている。
 足利義昭も追放される直前まで家臣でいた細川藤孝らに比べて早めに信長へ鞍替えして出世した明智光秀の事はあまり信用していなかったと見られる。
 それは本能寺の変の後、山崎の戦いとなる時に光秀が援軍要請したにもかかわらず細川藤孝らが援軍せずに様子見に徹した事で裏付けられる。
 信長を討つ場合は当然、後継者が決定していた織田信忠も討たなければ直ぐに家臣がまとまって織田勢がまとまってしまう可能性が有り、後継者争いで織田方が弱体化するのを目論むなら京都にいた織田信忠も討つのは当然である。
 加えて織田信忠は征夷大将軍に就任、足利義昭は解任と言う事が決まりつつ有り、それは前日の茶会でも話が出た。
 信長がこの茶会で所有する茶器の名品をほぼ総動員したのは、信長の右大臣留任か或いは関白、太政大臣への就任だけでなく、織田信忠の征夷大将軍就任を進めるべく公家衆に工作するつもりだったと言う事になり、また徳川家康が何故かこの茶会にいなかったのは、こうした交渉をするのに家康はいて欲しくないので、堺で接待して実質席を外させたと考えられる。
 織田信忠もこの茶会にいなかったのは公家達や茶人から、征夷大将軍に織田信孝、織田信雄などを就任させた方が良いなどの意見が出た時に信忠がいると面倒になるからとも考えられる。
 実際に茶人としては島井宗室が来ているが、この茶人は大友氏に関係が深く、キリシタン大名であった大友氏はかなりキリシタン武将に近かった織田信孝を(イエズス会の指令で)推する可能性が有ったとも考えられなくはない。
 京都には信長と信忠がいて、しかも主な兵力は明智軍だけ、織田信孝とに丹羽長秀の軍は堺にいて離れている。
 前日の茶会で公家か茶人経由で本物の信長が手薄な警護で宿泊しているの情報が伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らへ入り、織田信忠の征夷大将軍就任発表前は今しか無い。
 中国攻めで明智軍の遠征の準備で慌しいのは当然で有り、信長、信忠を迎える為に京都へ兵を進めてもそれ程異様には見られにくいし、異変を察知した者が信長へ知らせにいく場合は新月の夜である以上、松明を持って移動するのでそれを討取れば良い。
 それらの事を追い詰められていた斉藤利三に相談し、更に明智軍を動かす以上明智秀光にも斉藤利三に相談、結果、信長と信忠を襲撃する事が決定し、斉藤利三と明智秀光本本隊、伊勢貞興、諏訪盛直らは信忠襲撃部隊となり、変は決行された。
 
 

仕組みとアプローチ -  本能寺の変 信長襲撃命令は足利義昭から伊勢貞興らに出されていた可能性

2017-11-21 01:24:24 | 地震 津波
 本能寺の変が追い詰められていた斉藤利三の暴走である可能性について、その後に旧室町幕府奉公衆もまた追い詰められていた事もは既に以前に記事にしました。
 ではどちらが話を持ちかけたのか?と言うのは斉藤利三の可能性が高いと思っていましたがその後に更に調べて行くと、どうも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの旧室町幕府奉公衆の方だったのではないか?とも考えられるようになりました。
 この旧室町幕府奉公衆達の多くは、足利義昭が京都から追放される直前まで足利義昭に仕えていた者が多かったようです。
 一方の明智光秀は足利義昭が追放される1年前位から実質、信長方に乗り移っていたようです。
 つまり足利義昭は明智光秀よりも伊勢貞興、諏訪盛直、御牧景重らの方を信用していた可能性が高い事が考えられます。
 その場合、足利義昭は明智光秀ではなく伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人かに「機を見て信長を討つように」と指示命令を出していた事は十分考えらると思っています。
 更に公家の中にも足利義昭や毛利氏と利害を同じにするグループも少なからずいたはずと考えられ、それらの一人でも茶会に参加し、本物の信長が本能寺にいて警護も手薄なのを確認し、それを伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆に人脈ルートで連絡。
 新月の状況で信長が抜け出していないのこれら公家の一部が遠目で監視。
 そして秀吉援軍で明智軍として集結した中に、伊勢貞興、諏訪盛直ら旧室町幕府奉公衆の幾人がいて、そこにいた斉藤利三や明智秀光らに話をもちかけ、「襲撃できるこれだけの機会は今回を逃したらもうあまりないだろう」と言う事になり実行が決定。
 光秀はこれを知らなかったと考えられなくも有りません。
 この仮説によれば多くの疑問点はクリアできるようになって来ます。
 例えば山崎の戦いで御牧景重が光秀に退却を進言しつつ、自らは秀吉軍に決死の抵抗をして戦死、と言うのも何故そこまでするのか?と言う疑問が解けてきます。
 自分らが決定して強行したからです。
 また光秀が準備不足だったのは以前の記事で書きましたが、この謎も解けて来ます。