本能寺の変の前に明智光秀が戦勝祈願で連歌を行ったと言われる有名なものです。
「ときは今 天(あめ)が下しる五月かな」
これについての解釈を本能寺の変、つまり信長襲撃を暗示するものとしている事が多いようで、明智光秀首謀説につながっているようです。
しかし筆者が疑問に思うのは、信長襲撃といういわば信長でも予測できないような事をするのに、わざわざその動きが漏れるような戦勝祈願や襲撃を暗示するような連歌を果たして光秀がするのか? と言う事です。
関ヶ原の戦いの前に宇喜多秀家が戦勝祈願を行ったと言うのは有名ですが、これは前もって明らかに参戦すると言うのが多くの人達に開示されていたからです。
光秀が秘密裏に信長襲撃するつもりがあったのならば事前に計略がバレて襲撃に失敗するようなドジな事はしないのではないでしょうか。
ではこの戦勝祈願と連歌にどのような意味が有ったのか?と言えば、戦勝祈願は中国攻め(実質は毛利攻め)の為です。
毛利氏を攻略できれば、出雲、石見の所領を信長から確約されていた光秀は、御領所、つまり天皇直轄地で毛利氏が代行管理していた所領について毛利氏に代わる役を得る事が出来ます。
これは「天」つまり天皇直轄地の管理代行権を信長様が「下さった」、とも解釈されるわけで、「いよいよ天皇直轄地の管理代行を任されるようになった」と解釈できなくもない、と筆者は見ています。
少なくともこの連歌が信長に後に知られてもそう解釈できるものだったのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、石見銀山は実質換算で100万石以上、御領所の一括管理などによる利益配分が仮に半分としても50万石以上であり、飢饉などの心配は全く無い事、更に出雲、石見の米の石高を仮に数十万石、更に日本海側の水運拠点としての経済的価値、穴海や中海や日本海での水産物の隠れた石高、信長が考えていた大陸へ進出の拠点など、光秀にとってはそう悪くない話だったと考えています。
光秀がこのような連歌を詠んだ事、そして本能寺の変の後になってからあわてて足利義昭に上洛要請した事、更には細川藤孝、筒井順慶らに後手後手で援軍要請して結局ハシゴを外された事などから、どう見ても光秀が本能寺の変をかなり前から予め周到に計画していたとは考えられないのです。
事前に十分な時間をとって計画をしていたのなら想定外のような事がもっと起きないように対策しながら進めていたのではないでしょうか。
「ときは今 天(あめ)が下しる五月かな」
これについての解釈を本能寺の変、つまり信長襲撃を暗示するものとしている事が多いようで、明智光秀首謀説につながっているようです。
しかし筆者が疑問に思うのは、信長襲撃といういわば信長でも予測できないような事をするのに、わざわざその動きが漏れるような戦勝祈願や襲撃を暗示するような連歌を果たして光秀がするのか? と言う事です。
関ヶ原の戦いの前に宇喜多秀家が戦勝祈願を行ったと言うのは有名ですが、これは前もって明らかに参戦すると言うのが多くの人達に開示されていたからです。
光秀が秘密裏に信長襲撃するつもりがあったのならば事前に計略がバレて襲撃に失敗するようなドジな事はしないのではないでしょうか。
ではこの戦勝祈願と連歌にどのような意味が有ったのか?と言えば、戦勝祈願は中国攻め(実質は毛利攻め)の為です。
毛利氏を攻略できれば、出雲、石見の所領を信長から確約されていた光秀は、御領所、つまり天皇直轄地で毛利氏が代行管理していた所領について毛利氏に代わる役を得る事が出来ます。
これは「天」つまり天皇直轄地の管理代行権を信長様が「下さった」、とも解釈されるわけで、「いよいよ天皇直轄地の管理代行を任されるようになった」と解釈できなくもない、と筆者は見ています。
少なくともこの連歌が信長に後に知られてもそう解釈できるものだったのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、石見銀山は実質換算で100万石以上、御領所の一括管理などによる利益配分が仮に半分としても50万石以上であり、飢饉などの心配は全く無い事、更に出雲、石見の米の石高を仮に数十万石、更に日本海側の水運拠点としての経済的価値、穴海や中海や日本海での水産物の隠れた石高、信長が考えていた大陸へ進出の拠点など、光秀にとってはそう悪くない話だったと考えています。
光秀がこのような連歌を詠んだ事、そして本能寺の変の後になってからあわてて足利義昭に上洛要請した事、更には細川藤孝、筒井順慶らに後手後手で援軍要請して結局ハシゴを外された事などから、どう見ても光秀が本能寺の変をかなり前から予め周到に計画していたとは考えられないのです。
事前に十分な時間をとって計画をしていたのなら想定外のような事がもっと起きないように対策しながら進めていたのではないでしょうか。