信長が家康を京都、大阪を経由させた理由は前回の記事で書いた通りと考えていますが、実際に5月28日に京都を既に発っていた家康が大阪に寄ってから堺に着いたのが5月29日。
そして信長は入れ替わるように同じ5月29日に京都に着いています。
そこで本能寺の変で襲撃部隊となった兵には「家康を討つ為だと思っていた」者がいた(と言うよりは殆どがそう思っていたと見ています)と言う事が何を意味しているか?と言うと、個人的には次の様に考えています。
家康が京都へ来て滞在している事を多くの兵が知り得るように情報を意図的に拡散させたのは、おそらく信長。
その主な目的は以前の記事で書いた通りです。
京都や周辺とて毛利氏や既に対立関係になっていた長宗我部などの刺客、滅亡させられた武田氏などの残党などの存在を想定しての防御体制の意味も有ったと思われます。
そして京都を家康が発ったのが5月28日で有る事を6月に入っても多くの兵が知らないように情報隠蔽工作していたのもおそらく信長。
そして信長が家康と入れ替わるように同じ5月29日から京都に滞在している事を6月入っても多くの兵が知らないように情報隠蔽工作していたのもおそらく信長。
織田家の直属主力部隊は既に京都から出払ってしまっているか、やや近くにいても毛利攻めの出陣準備状態にしていたので、信長の直接部隊は周辺に5000もいない事から、自分の居場所を大勢には知らせないように情報面でそれなりのセキュリティを構築したつもりだったのではないでしょうか。
ただこれまでの記事で書いた通り、そこにはセキュリティ面で弱点が有ったのでした。
それともう一つ。
信長が切腹命令を出した斉藤利三ですが、特にその後捕らえているわけでもなく光秀に預けたままにしていました。
現代風に言えば、死刑宣告をしたにもかかわらず身柄を拘束もせずに最新式の武器を持たせてそこらへんを殆ど自由に歩かせているのと同じなわけで、信長にとってこんな危険な事は無いはずなのです。
斉藤利三が「どうせ処刑されるなら」と追い詰められた心境になって信長襲撃を考え始め、そこへ信長を厄介者に思っていた組織や人達がそのような状況で有る事を知り得てこれを利用して信長襲撃を成功させるよう、有効な情報を提供した、と言う事かと思います。
前回の記事内容なども含めて言える事ですが、用心深い信長が何故このような杜撰なリスク管理をしたのか、と言うのは謎としか言いようが有りません。