快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 正親町天皇と織田信長の暗闘はやはり有ったのか

2018-05-16 21:45:35 | 明智光秀
 正親町天皇と織田信長の関係ですが、次の事からも明らかなようです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

正親町天皇の譲位問題
信長が譲位を要求したとする説
正親町天皇は天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになる。そして、たびたび譲位を要求されるようになる。同年12月8日の『孝親日記』にその事が記されている。また、2年後には譲位後に居住する仙洞御所の予定地を探していたともされた。信長としては、儲君の誠仁親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようという思惑があったようである。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。ちなみに本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものである。
信長が譲位に反対したとする説
上記の説とは違い、正親町天皇が譲位を希望して信長がこれに反対していたという説もある。

引用終了

 正親町天皇はなぜ天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになったのか? (表面化したのは1573年からなのかも知れませんが、おそらく西上作戦が開始された1572年あたりから信長は薄々疑い始めていたと見て良いと思われます)。
 それはこの年に何が起きたのかなどを調べていたらある程度の事が見えてきました。
 武田信玄が1572年から始めた西上作戦の最中に没したのが1573年5月。
 この西上作戦のあたりからの信長は「正親町天皇も武田軍を進軍させて信長を討たせようとした黒幕の一人ではないか?」と考え始めるようになったと見るのが普通かと思います。
 では正親町天皇と武田信玄の関係がどのようなものなのか、と言うと次の通りです。


引用開始(一部抜粋)

西上作戦
詳細は「西上作戦」を参照

尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し外交関係がはじまっており[注釈 14]、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。

元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している[注釈 15]。

元亀3年(1572年)10月3日、仏法の庇護者でもある信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した[注釈 16]。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁(信友)の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った[注釈 17]。

引用終了

 信長により比叡山焼き討ちをされたの時の比叡山側トップである天台座主の覚恕法親王が正親町天皇の弟宮であり、その後甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願したとの事なので、武田信玄が西上作戦を開始したのは単に将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じるというだけではなく、正親町天皇・覚恕法親王による復讐の意味も有るのだろうと信長は見ていた、そのように考えて良いのかと思います。
 それならば尚更、本能寺の変の時に襲撃部隊に信長の居場所を教え、かつ信忠が妙覚寺か隣接する二条神殿にいる事を教えたのが公家衆の一部だとする仮説は辻褄が合う話であり、襲撃部隊の方も情報提供者を守る為、信忠がいる妙覚寺か隣接する二条神殿を襲撃する時刻を計画的に遅らせ、あたかも本能寺で初めて知ったかのような形にした、と言うのも成り立つように思えます。