前回記事の続きです。
朝廷、仏教勢力、イエズス会を全て敵に回したような信長ですが、安土城の天守の一件だけでなく、実は他にも同様な事が有ると考えていて、それは「石見銀山の攻略構想」です。
当時の石見銀山は御料地として商人らが管理し、それを更に毛利氏が管理して朝廷にその有る程度の割合を納めていたのでした。
イエズス会は商人経由でこの銀山利権からの利益を把握できていて、朝廷もこの利益の恩恵を受けており、そして毛利氏は反キリシタンの色彩が当時は強く「仏教勢力」として石見銀山の利権に力が有りました。
朝廷と仏教勢力とイエズス会の利権が一致してしまえば当然の如くの信長はピンチとなるわけでその地雷を踏んでしまったの事としては、信長が「秀吉からの毛利援軍要請に応えて明智勢等を出雲石見に国替えする条件で毛利攻めに動員する動きを見せた」と言う事だったのかと考えています。
信長が石見銀山から得られる利益を朝廷から奪取する動き、そして当然、当時反キリシタンの色彩が強かった毛利氏からもその利権が奪われ、更にそのキリシタンでも安土城天守の件で信長がイエズス会の思う通りにならず石見銀山の利益はイエズス会には入らないと想定する状況だったはずです。
そしてこれらの状況から「朝廷、仏教、イエズス会による反信長勢力のネットワーク」が新たに構成されてしまい、それが本能寺の変に結びつき、多くの重臣らが嫌がる信長の強硬政策(比叡山焼き討ちなど)を「汚れ役も仕方なく厭わず実行した明智光秀」が信長の巻き添えになり山崎の戦いで敗死と言う名目に追い込まれたのではなかったのでしょうか。
一方でイエズス会の方針は高山右近→中川清秀 経由、仏教の方針変更の動きは毛利氏経由、朝廷の方針は一時対公家衆の窓口ともなっていて、その立ち位置で最高だったのが秀吉だったように思われます。
朝廷、仏教勢力、イエズス会を全て敵に回したような信長ですが、安土城の天守の一件だけでなく、実は他にも同様な事が有ると考えていて、それは「石見銀山の攻略構想」です。
当時の石見銀山は御料地として商人らが管理し、それを更に毛利氏が管理して朝廷にその有る程度の割合を納めていたのでした。
イエズス会は商人経由でこの銀山利権からの利益を把握できていて、朝廷もこの利益の恩恵を受けており、そして毛利氏は反キリシタンの色彩が当時は強く「仏教勢力」として石見銀山の利権に力が有りました。
朝廷と仏教勢力とイエズス会の利権が一致してしまえば当然の如くの信長はピンチとなるわけでその地雷を踏んでしまったの事としては、信長が「秀吉からの毛利援軍要請に応えて明智勢等を出雲石見に国替えする条件で毛利攻めに動員する動きを見せた」と言う事だったのかと考えています。
信長が石見銀山から得られる利益を朝廷から奪取する動き、そして当然、当時反キリシタンの色彩が強かった毛利氏からもその利権が奪われ、更にそのキリシタンでも安土城天守の件で信長がイエズス会の思う通りにならず石見銀山の利益はイエズス会には入らないと想定する状況だったはずです。
そしてこれらの状況から「朝廷、仏教、イエズス会による反信長勢力のネットワーク」が新たに構成されてしまい、それが本能寺の変に結びつき、多くの重臣らが嫌がる信長の強硬政策(比叡山焼き討ちなど)を「汚れ役も仕方なく厭わず実行した明智光秀」が信長の巻き添えになり山崎の戦いで敗死と言う名目に追い込まれたのではなかったのでしょうか。
一方でイエズス会の方針は高山右近→中川清秀 経由、仏教の方針変更の動きは毛利氏経由、朝廷の方針は一時対公家衆の窓口ともなっていて、その立ち位置で最高だったのが秀吉だったように思われます。