快気分析

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仕組みとアプローチ -  光秀は信長の無謀に巻き込まれたのか

2020-01-21 18:42:39 | 明智光秀
 前回記事の続きです。
 朝廷、仏教勢力、イエズス会を全て敵に回したような信長ですが、安土城の天守の一件だけでなく、実は他にも同様な事が有ると考えていて、それは「石見銀山の攻略構想」です。
 当時の石見銀山は御料地として商人らが管理し、それを更に毛利氏が管理して朝廷にその有る程度の割合を納めていたのでした。
 イエズス会は商人経由でこの銀山利権からの利益を把握できていて、朝廷もこの利益の恩恵を受けており、そして毛利氏は反キリシタンの色彩が当時は強く「仏教勢力」として石見銀山の利権に力が有りました。
 朝廷と仏教勢力とイエズス会の利権が一致してしまえば当然の如くの信長はピンチとなるわけでその地雷を踏んでしまったの事としては、信長が「秀吉からの毛利援軍要請に応えて明智勢等を出雲石見に国替えする条件で毛利攻めに動員する動きを見せた」と言う事だったのかと考えています。
 信長が石見銀山から得られる利益を朝廷から奪取する動き、そして当然、当時反キリシタンの色彩が強かった毛利氏からもその利権が奪われ、更にそのキリシタンでも安土城天守の件で信長がイエズス会の思う通りにならず石見銀山の利益はイエズス会には入らないと想定する状況だったはずです。
 そしてこれらの状況から「朝廷、仏教、イエズス会による反信長勢力のネットワーク」が新たに構成されてしまい、それが本能寺の変に結びつき、多くの重臣らが嫌がる信長の強硬政策(比叡山焼き討ちなど)を「汚れ役も仕方なく厭わず実行した明智光秀」が信長の巻き添えになり山崎の戦いで敗死と言う名目に追い込まれたのではなかったのでしょうか。
 一方でイエズス会の方針は高山右近→中川清秀 経由、仏教の方針変更の動きは毛利氏経由、朝廷の方針は一時対公家衆の窓口ともなっていて、その立ち位置で最高だったのが秀吉だったように思われます。 

仕組みとアプローチ -  明智光秀と佐久間信盛 そして信長による比叡山焼き討ち

2020-01-21 17:49:23 | 明智光秀
 江戸時代以前の史料が必ずしも真実を伝えているとは限らないのですが、信長による比叡山焼き討ちに関して「甫庵信長記」では佐久間信盛と武井夕庵らが止めた方が良い旨の進言をしたとされているようですが、その一方で明智光秀が反対した事は書かれておらず、更に明智光秀がその後に光秀に近江国滋賀郡が与えられ、坂本の町に坂本城が築城された事から見てどうも明智光秀は比叡山焼き討ちに関して佐久間信盛らのようなレベルで反対姿勢を取らなかったものと思われます。
 この時に反対意見を進言した佐久間信盛はその後に高野山攻めを任されたものの、おそらく比叡山焼き討ちで反対だった事と同じで乗り気でなかったのでしょうね。
 何か決め手に欠く攻撃で殆ど戦果をあげずにいたので信長から疑いの目で見られ、そしてやがて追放されてしまいますが、それに代わって「信長による首のすげ替え」の如く畿内総指揮官に任命されたのが明智光秀でした。仏教の総本山と言えども躊躇せずに仏教総本山の攻撃、粛清を実行できると信長から評価されていたのでしょうか。
 その明智光秀も本能寺の変の頃には既にもう引退したいと思っていたような史料も有るようです。
 イエズス会に従うわけではなく、かと言って仏教勢力に従うわけではない、そして、かと言って朝廷に従うと言うわけではない、「我(信長様)は神である」などと言う信長の思想が周囲にわかって来れば、やがて反信長ネットワークが構成され、そして信長のセキュリティが甘い所を狙って誰でも襲撃する事になるのはごく自然であり、安国寺恵瓊の予言とはやや遅れてはいても「信長は高転びに転んだ」のでした。

仕組みとアプローチ -  信長による比叡山焼き討ちと明智光秀

2020-01-21 12:16:20 | 明智光秀
 1571年に有った比叡山焼き討ちについては、発掘された遺跡や江戸時代以前の史料などから、そのその見方は様々なようです。
 よく言われている通り、かなりの人数が皆殺しにされたとする説と、一方では実際には粛清された人数はそう多くはなかった、とする説が有り、更には明智光秀が当初反対していてしぶしぶ命令に従ったとする説と、信長の命令に反対はせずに寧ろ積極的に賛成し実行した、と言う説が有り定かな事はまだわかっていないようです。
 また比叡山の僧侶らについても民衆への権力、カネ、酒、肉食等などにどっぷり浸かっていて堕落が酷く、朝廷も覚恕法親王も多少の処罰を容認した、とする見方と、朝廷の意に反した粛清のレベルだったとする説が有るようです。
 そして正親町天皇の弟である覚恕法親王が、比叡山焼き討ち当日に比叡山にいなかったのは偶然だったのか、それとも信長が覚恕法親王まで巻き添えで落命してしまうとさすがに不利となるので不在の時を狙ったのか、それとも朝廷や覚恕法親王の容認の下でこの焼き討ちが実行されたのか?
 果たしてどれだったのでしょう。
 仮にですが、比叡山の僧侶らで堕落(権力、カネ、酒、肉食等)の激しかったグループだけを覚恕法親王が粛清しようとしたのならほぼその要求通りの内容であったはずで、光秀はこの時の実績を買われて朝廷からの信頼を受け、朝廷の御料地である石見銀山を含む出雲石見への国替えも朝廷から信長への勧めで決められたようにも考えられます。
 反対に比叡山の僧侶らで堕落(権力、カネ、酒、肉食等)は有る程度は有ったものの一斉粛清する程のものでなかったとしたら、比叡山焼き討ちは朝廷や覚恕法親王の意に反した事であり朝廷は光秀を良く思わなくなっていて、信長にも光秀にも「消えて欲しい」と思っていた、と言う事になるのかと思います。
 或いは仮に比叡山焼き討ちの件は信長の命令だから仕方なかったとして、その後にキリシタンに系統しない明智光秀を朝廷や覚恕法親王が見直して、光秀の石見銀山を含む出雲石見への国替えを朝廷からも信長への勧めた、という事も有ったのでしょうか。
 そして仮に比叡山焼き討ちや光秀の石見銀山を含む出雲石見への国替えが、朝廷や覚恕法親王の利益を損なうものだったのだとすればそれは「信長と光秀の両方が討たれて他の武将に交代してもらった方が良い」と思ったはずです。
 いずれにしても後に権力を握った秀吉はキリシタンは当分支援したのですが、石見銀山から出る利益については以前かそれにも増して朝廷に納めたようです。
 本能寺の変に石見銀山の利権が大きくかかわっていたのだろうと個人的に考えている事は既に以前の記事で書いた通りです。