快気分析

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仕組みとアプローチ -  イエズス会の方針転換を秀吉がかなり早くから知っていた可能性について

2020-01-23 21:36:38 | 明智光秀
 当初は信長を押していたイエズス会がやがて信長を危険視し始めたのはおそらく1579年。
 それはキリスト教施設を眼下に見下ろす安土城の天守が出来た年あたりだろうと考えられます。
 その方針転換をイエズス会が露骨に態度で表したのかどうかはわかりせん。
 高山右近というキリシタン武将の代表格とそしてその近縁の中川清秀が信長配下の明智勢の与力として配置されていたからです。
 しかしイエズス会の方針転換が仮に高山右近らに伝えられていたのだったとしたら、それはおそらく秀吉へ筒抜けだった思っています。
 何故かと言うと秀吉と中川清秀は1580年に内誓紙を書いて友として誓い合っていたからです。
 1580年にはほぼ確実にイエズス会は信長を危険視する方向に転換していた可能性が高く、それは遅くとも1582年初めには秀吉にも伝えられていたと言う可能性は有る程度考えられるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ、秀吉にイエズス会の方針を伝えた人物がいる可能性が有りますが、定かでは有りません。
 それが誰かと言うとやはりキリシタン武将の代表格である大友宗麟です。
 当時は島津氏の攻勢で大友氏は苦境に有りました。
 大友宗麟がイエズス会に近寄ったのはこの苦境を乗り越える為も有ったようですが、更に信長に同調して九州側から毛利攻めを行う代わりに織田勢に島津氏との和睦を斡旋してもらう旨を伝えていたとするすると見方も有るようです。
 なので当時毛利攻めを任されていた秀吉は大友宗麟と頻繁に連絡を取り合っていたはずであり、それならばイエズス会が1582年初めには既に信長に対して危険視する方向に転換し始めていた事が大友宗麟経由でも秀吉へ伝わっていたのかも知れません。ただここまで方々にイエズス会が真意を伝えてしまうかどうかは定かでない所です。
 いずれにしても秀吉にはイエズス会の方針転換を高山右近、中川清秀に次いで早くから知っていた可能性は十分有ると見ています。

追記
一部誤植等が有りましたので訂正しておきました。

仕組みとアプローチ -  細川ガラシャとキリスト教 そして明智光秀

2020-01-23 07:00:43 | 明智光秀
 前回の記事で書いた細川ガラシャですが、キリスト教に傾倒し始めたのは1584年あたりからのようで、これは山崎の戦いで父、明智光秀が敗死した時から約2年後となります。
 と言う事は明智光秀の存命中はキリスト教に傾倒していなかったわけです。
 土岐一族系の武将でキリスト教に傾倒したと考えられるのは、ルイス・フロイスの「日本史」によれば長曾我部信親(長曾我部元親の嫡男)だったようですが、1582年当時はまだ17歳前後だったはずで、年齢からすると本能寺の変、山崎の戦いの後にキリスト教に傾倒し始めたように思えます。
 上記の2つの事例からすると明智光秀はやはりキリスト教を受け入れる考え方ではなかったように考えられますが実際はどうだったのでしょう。
 ルイス・フロイスの「日本史」で書かれている明智光秀についての記述からすると、少なくともキリスト教を積極的に受け入れる姿勢ではなかったようです。