快気分析

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仕組みとアプローチ -  信長は家康を討とうとしていたのか その3

2020-01-18 13:22:28 | 明智光秀
 仮に信長が家康やその重臣らを討つつもりが有ったとしたならばですがその理由については更に他にも有ります。
 当ブログで以前にも書きましたが、家康の正室築山殿と嫡男 松平信康亡き後、側室の実質筆頭であるが西郷局の男子(後の秀忠)が順調の育つのですが、その西郷局は土岐一族系です。
 当時、北条氏は上総土岐氏と常陸土岐氏と連携をとって反北条である里見氏らに対抗していました。
 なので例え築山殿、信康が消えても家康と土岐一族、そして介在している北条氏が一体となって勢力を増す可能性が有るのは信長にとって不安で仕方がなかったはずで、どこかで土岐一族と北条氏のグループを分断しなければやがて手がつけられなくなると考えていたのではないでしょうか。
 信長がおそらく考えた対策と言うのは、家康を長曾我部攻め援軍としてかなり動員させる、と言う事だったかと思っています。
 長曾我部攻めに土岐一族の明智勢を動員するわけにも行かないので、毛利攻め援軍に動員される分、長曾我部攻めの軍勢がやや少なくなるかも知れない上、武田氏が実質滅亡した後はやや余裕が出てきた戦上手な家康の徳川勢を四国へ動員させる、こうした考えを信長はしていたのだと考えています。
 その証拠となるかどうかはわかりませんが、本能寺の変の直前、家康ら一行は堺で接待されていました。
 名目は接待ですが、実質は堺商人らと商談、それは長曾我部攻めの準備だったのではないでしょうか。
 土岐一族とは西郷局を通して縁戚関係ではあるものの、明智光秀や斎藤利三、石谷氏ら程、土岐一族と深い戦績関係とまでではなく、家康も信長の要請は断れない程度だったはずです。
 信長が本気で家康を長曾我部攻めに動員させようとしていたのか、パフォーマンスだけでもという程度だったのかはわかりませんが、少なくとも家康を動員させれば長曾我部、毛利の両方を同時攻撃は有る程度可能だったかも知れません。
 家康を討つか、或いは家康に長曾我部攻めをさせて(広義の)土岐一族系を分断させようとしていた、という考え方です。
 

仕組みとアプローチ -  信長は家康を討とうとしていたのか その2

2020-01-18 09:52:45 | 明智光秀
 実際にどうだったのかはともかくとして、仮に信長が家康やその重臣らを討つつもりが有ったとしたならばその理由については他にも多々あります。
 家康は親族4人が信長の意向によって落命している、と言う事です。
 いずれも江戸時代以前の史料から解釈される旨の事ですが次のような件が有りました。
 一つは家康は信長によって直接間接で正室である築山殿と嫡男である松平信康の粛清を命じられ、そして家臣がそれを実行する事になりました。(松平信康は形の上では切腹)
 そして次に桶狭間の戦いの後、信長に投降した岡部元信が「(家康の伯父であり当時刈谷城主だった)水野信近が今川方に与するという密約をしたのに戦闘に来なかったと」と信長にバラしたのです。
 これに対して信長は岡部元信が水野信近に報復をしないように拘束するとか、報復しないように誓約させるとかはせずに、そのまま今川領への帰還を容認しました。
 その後どうなったかと言うと、この岡部元信は当然の如く帰り際に水野信近を討ち取ったのでした。
 これは信長が岡部元信に水野信近を殺害させた、とも解釈できます。
 もしかしたら信長は暗に岡部元信に水野信近殺害指示までしたのかも知れませんが、そこまでははっきりわかっていません。
 それから更に水野信近の兄でやはり家康の伯父である水野信元は武田方との内通等の疑いを信長にかけられ、1576年にやはり信長から家康に信元暗殺命令が下され家康の家臣により暗殺。
 これで家康の親族4人が信長の意向によって落命し、しかもその手口は信長が自ら手を汚さずに3名は家康経由で家臣に実行させ、1名は今川方の岡部元信に実行させた、と言う状況だったようで、家康の腹の底は煮えくり返っていたのかどうか、今となってはわかりませんが、信長自身も家康が恨んでいるのではないか?とは内心思っていた可能性についてはゼロではなかったと考えています。
 何かのきっかけで家康が豹変し、信長に襲い掛かる前に家康を消してしまおう、と信長が考えていたとしても不思議ではありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

仕組みとアプローチ -  信長は家康を討とうとしていたのか その1

2020-01-18 00:48:43 | 明智光秀
  本能寺の変の直前、家康と重臣らは合わせて40~50名と言う僅かな人数で信長への礼に安土城、京都、そして堺へ来ていたのでした。
 (実際には町人などになりすました忍びの者などをかなり使って「見えざる護衛」はしていたものとは思われますが)信長に招かれた以上、多くの兵と共に行っては信長に失礼だろうと言う形式上の制約が有ったのでしょう。
 信長が家康らを招いたのを「家康と重臣らを誘き出して討つ為」とする考え方については、その可能性はゼロとは言い切れませんが、しかし信長が直接討ったとなるとそれは信長の汚点となってかえってその後の天下統一にはデメリットが多くなるはずで、(個人的な考え方に過ぎませんが)少なくとも「信長は直接的に家康らを討つ形にする事は考えていなかったはず」と見ています。
 ですが一方では「信長が家康をいつかは討つつもりだった可能性は少なくなかった、そして実は武田氏ら滅亡させた勢力の残党や敵対している勢力らが家康ら一行を襲ってくれれば(信長は)自らの手を汚さずに家康らを消す事ができて領地は織田家のものになるかも、と信長は考えていた」とも思っています。
 三河から安土、京都、堺のルートを少人数で移動させると言う危険な事を信長はなぜ家康らに行わせたのでしょうか?
 そして本能寺の変で襲撃部隊にいた本城惣右衛門が「信長の命で家康を討つと思っていた」旨の記録を残しています。
 オカシイとは思いませんか?
 家康らが、しかも少人数で来ている事を(いくら織田方の兵とは言え)信長が重臣でもない兵達にまで知らせるのは非常に危険な事ではないでしょうか。
 これらの状況からわかるのは「実は信長の目的が上記以外にも有ったのかも知れない」と言う事です。
 その一つは「家康ら一行が僅かな人数でも襲撃されない場合は、それだけ家康が信長に敵対する勢力(伊賀衆の一部)や敵対していた勢力の残党(例えば武田氏の残党、実際に後の井伊直政の赤備えの部隊は旧武田勢の将兵)と裏で協力関係に有る可能性が高い、と信長が把握できる事」です。
 信長は家康ら一行に危険な移動をさせて家康が敵方とどれだけ吊るんでいるか、その度合を見分けようとしていたのではないでしょうか。
 コマセを撒く事で見えなかった魚が食いつくかどうかを調べるのと同じです。
 ただ信長と家康の間で「信長へ礼に来るのは全員影武者で良い。これは敵方や敵方だった残党がどれだけ三河から畿内に潜んでいるのかを見極める為なので」と言う取り決めが予め有ったのならまた話は別です。
 果たしてどちらだったのでしょうか。