この絵は、ノートの紙に描かれていて、メモのような。
裏に「病院・死・草・ブギ」と書かれています。
窓から外を見ているような印象もする。
いや、窓辺で外を見ている人を見ているようでもある。
中から、外からと境界線がなく、ただ眼差しがある。
こんなふうに思いました。
この絵に「病院」「死」という言葉は、あまりふさわしくない気がするので、
どういう意図なのかと疑問に思うのでした。
裏には、薄い鉛筆で色々なことが書かれていて、興味深い。
■『酒買いの唄』となっていて、
空の青が
石ころが動いて
歩いて
歩いて
これは、詩なのか?
■また、こういうのもある。
岬を曲がって
この道を歩くことに。
心に決めていた。
■???と思うものに、
クレヨン
スープ
骨つき
と、単語が並べられている。
ヒロクニさんは、文字が良くて、字そのものがポエジーを持っているので、
「字」を見た感じが詩人なのですが、
文章は、唐突で、文が非常に短いので、どういうことなのだろう?と思い、
読むのは一瞬で、考えてしまう時間の方が長くなります。
ヒロクニさんの文章の「この道を歩くことに。心に決めていた。」という箇所が、
わたしの心に引っかかります。
小学校の頃、3年生ぐらいでしょうか?
下校して道を歩いている時に、
「昨日もここを歩いていたけれど、今日もここを歩いている。明日もここを歩くなぁ~。」と思い、
今や明日、ここ当分の間、この道を歩くのは決まっていて、それは偶然ではなく、
何者かがわたしを歩かせていているのだろうか?と思ったことがあります。
明日とか、これから先の時間も、未来は決められていて、
「自分はその通りにしているだけなのかも。」と。
毎日、道を歩きながら、考えていたのを思いだします。
そのことを考えている時の感覚は、道を歩いているのですが、
自分が歩いている姿を漠然と見つめている「何者か」がいるような感じがしました。
何かが上から見ているような感覚。
一々の行為は、自分の意志のように思っているけれど、
違うのかも?と考えていました。
決まっていることをしているだけなのかもしれない。
道を歩きながら、小さな哲学者になっていた頃がありました。
ヒロクニさんも、心に決めたという決心をすること自体が、
決まっていたのかもと思うわけです。
わたしは、58歳なのですが、今になって、
時々、この道を歩いて考えていたことを思い出すのです。
それは、ヒロクニさんを見ていて思うこともあれば、
わたしに降りかかる嬉しいことや、嫌なことを通して思うのです。
まず思うのは、私は、どういう分けか「絵が好きだ」ということ。
これは、決められていたような感じがする。
一生これは続くと思われる。
私の家は、全く芸術系のものと無縁な環境なのに、深みにはまっていった。
ヒロクニさんとの結婚も今思えば不思議だ。
恋愛以外の力というか、先祖の働きのようなものを感じたりした。
ヒロクニさんと会った頃は、どういうわけか普段しないお墓参りをよくしていた。
(先祖に道を踏み外しませんように、お願いします。とか、言ってました。)
家族からは、「さほりは、最近おかしい。」と言われていたらしい。
そして、ヒロクニさんと一緒にいることから、さらに深みへ突入。
絵画からは離れられることはなく、一生続きそう。
嫌な出来事では、
どうしても理不尽に思う出来事に対峙して、困ったあげく、行き着いて、何かを得たりする。
悩みとか苦難は嫌なのですが、それを何とかするために、偶然出会ったものや、
新しい考えが起こったりして、気づきや自分に変化が訪れたときに、
苦難とかからは、だんだん離れていくような感覚があります。
偶然に知ったもので、救われるのは「何かの力」があったと思う。
よく「偶然は必然」とも言われるが、その言葉自体が、
「何者か」が働いている証しのような気がします。
また、嬉しいことは、コツコツしいていたことが実るように、訪れる。
タイミングにそれが現れると思う。
ヒロクニさんに毎日新聞の連載の話が来た時、闘病中だと受けれなかったのですが、
膀胱の全摘出の手術を受けた後で、
再発の心配がないとお医者様から言われた時にその話が来た。
やはり週一回の連載は、穴を空けれないので、
健康でないと受けることが出来なかったと思うのですが、
とてもいいタイミングで話が来たことになります。
やはり、何者かが、アレンジしてくれているように感じました。
今の年齢になってから振り返ると、そういう存在「何者か」いた。となるのです。
出来事をアレンジしてくれている「何か」は、有難い存在かも。
連載は、本当に降ってきた感じでした。
ヒロクニさんが、絵を描く一生というのは決まっていたことかもしれない。
当人は、決心したと言っていますが・・・・。
ヒロクニさんは、絵画が好きというより、「芸術が好き」という感じが強く、
そのせいか、他のジャンルの芸術全般に詳しい人です。
「何者か(見えない世界)」と現実の自分というものは、
複雑に絡まりあって生きていると最近思います。
小学校の頃感じた、上から何かが見ている「何者か」は、
何かわかりませんが、いると思っている今日、この頃です。
お盆が近くなっているので、こんな内容を書いてしまったのか?。
こういうことも決まっていたのでしょうか?
思いをまとめたのが、今日という日になったのは、偶然です。
変な日・・・。
庭では、ひまわりが咲いています。
↑今年は、背が高くなった。
やはり日当たりがいい方が大きくなる。
↑ひまわりと青い空。
そして、雲。
夏全開です。
↑角度を変えて、2つが写るように。
上の写真より後に撮ったもの。
ひまわりの中心が時間が経つにつれ、茶色に変化してきています。
ヒロクニさんは、ひまわりを見ながら、
「あの葉も、バランスを取るのに役に立っているようだねぇ~。」と、言い、
「葉がないと、あーいう風に真直ぐ立つことは、難しいだろうね。」と。
「そんなこと考えもしなかった。」と答えました。
わたしが思ったのは、ひまわりが立っているのは、
「見えない重力という力のおかげ」。
重力を発見したニュートンって、偉い人だ。
地球は丸い。
この絵に不安を感じたとのこと、読んでから絵を見直しました。変に白々しいところが確かにこの絵にはあります。絵をよく見て下さっているのが伝わってきます。だけど、あまり考えこまないようにね。
ヒロクニさんの絵に取り巻かれている私は、時々距離をとって絵を見ています。(そうじゃない時もありますが・・・。)見るのをちょっとやめたとあり、それは正解です。現実と不可解な絵(別の世界)を行ったり来たりとうまくして下さい。私は、急に絵を持って来て、「見て。」をくり返しされる時が多いと、現実の日常が進まなくて往生するときがあります。上手に絵と付き合って下さいね。疲れてないようにね。ともりんは、気迫の人だから対峙の量が人よりタフネスなような気がします。(間違っていたら、ごめんなさい。)この絵、寂しいというか孤独な雰囲気もあって、ナーバスな絵です。
最近になって、小学校の時の通学路で思ったことがよく思い出され、漠然としたホワホワとした記憶をまとめた文になります。何者かに支配されないゾ!という気迫それもありと思います。そこには、強い意志があります。それも大切です。
連載の依頼が来た時は、病院、お医者様の言葉、私が家にいること、また別な面を言うと、編集員の方は、東京にはたくさんの画家やイラストレーターがいるので、こちらに依頼をもっていこうと考えていたらしいのです。それが、ふっと、ヒロクニさんを思い出し、依頼してくれたらしいのです。この、「ふっと、思い出してくれた。」がなかったら、ともりんともこうやって長い付き合い(ブログですが)がなかったと思えば、不思議な感覚がします。
私は、きっと哲学も好きなのかもしれません。難解な哲学書は、読みませんが・・・・。
ひまわりを植える楽しさは、今年はじめて味わったかな。今は雨なので、咲き終わった花がうつむいています。ともりんの太陽、月、銀河系の作用の感覚は、宇宙の広がりを感じる素敵な感覚。目に見えないつながりを感じさせます。
ヒロクニさんの蜂の巣の壊し方怖いでしょ。上半身裸で、やっています。やっぱり野蛮人なんだと横目で見ています。その現場を見たくないので、その場をいつも去っていきます。
涼しい日にひぐらしがカナカナ・・・と鳴きました。今年の夏は、終わりが早いのかな?と拍子抜けしています。
まだまだ、コロナが治まりませんが、お互い元気でいましょう!
前回のイカと似た感じの白ですが、前回の白の方が明るく躍動感があるように思いました。今回の白は静かで重い感じです。
反復フレーズのブギがここに描かれているのか?と思いながら見つめると、目と草と死のイメージがぐるぐると同じリズムで反復されているように見えてきました。
特に、黒い丸いモチーフが反復されてぐるぐると永久運動をしていそうに見えてきて、気持ちがぞわぞわしてきたので、見ることをやめました。
視点と感覚をちょっと変えるだけで、受け止め方が全然違ってきてびっくりしました。
「字そのものがポエジー」が少しわかる気がします。作品に描かれている文字は、造形のように感じられ、ひとつのモチーフのように見えます。
「この道を歩くこと」小学生のさほりんの感性に深く感じ入りました。通学路を歩くという単純で必然な行動に、精神性と宗教性を取り入れた自分の感性で考えたことが表されていると感じました。
自分を見つめている「何者か」がいる感覚は私も今も思うところがあります。そして、ひねくれものの私は、その何者かには影響されない己の道を進んで行ってやる!と、なぜか鼻息が荒くなってしまうのです(笑)
さほりんの「絵が好き」という感覚が、とてもきれいでまっすぐだと感じました。理屈ではなく魂が惹かれるモノというもの、さほりんの感覚はそれなのかなと思いました。
その惹かれるモノに「好き」と言える人は、もしかしたら少ないのかもしれません。それは、世俗的なことや経済的なことを背景にした雑音が入ってしまうからかと思います。
さほりんの「絵が好き」は、魂が惹かれた、とても美しい感情だと感じました。
連載が降ってきたこと、背景にそのようなことがあったのですね。あの連載がなければ、私はヒロクニ先生を知らなかったと思います。感慨深いです。
背の高いひまわり!まっすく、すらりと高く伸びましたね。「ひまわりと青い空」の写真は、ゴッホのひまわりの絵のようです。
青い空を背景に伸びていくひまわり、「僕はどこまで伸びていくの?」というジャックと豆の木のような、ひまわりの不安を少し感じました。
エネルギーのある暑い夏とひまわりの不安が、心に細かい情緒を響かせます。
ひまわりの立っているバランス、私は、「地球の重力と空からの引力」と密かに思っています。
ニュートンの重力と同じように、空からも(太陽、月、銀貨系の大気?細かいところは定義せず……)引力があって、何か作用しているかも?と空想しています。
前回の続きですが、濡れタオルで巣を取るのは、とても真似できません(真似しませんが)。刺されないのでしょうか。恐ろしいです。
私は、空き家になったスズメバチの巣に、キンチョールをたくさんたくさん、たっぷりかけて、巣を落としたことしかありません。