爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会

2015年06月01日 | Weblog
悪いことをしたなと思っている。

ただ、歩かせ過ぎてしまった一件についてだけである。

ローマ3泊5日とかいう無謀なプランである。

基本、無駄に歩けるので、そう広い町でもないから、こことここは歩いてしまおう、という簡単な解決策。

同行者にも有無を言わせない。

普通に能天気に、「真実の口」にも手を突っ込む。

お前の気持ちは、どうなんだと問われれば、手がのこっていることを証明の事実とするしかない。

サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会には、ミケランジェロ作の「モーセ像」がある。

関係ないが、フクロウとミミズクの差は、尖った部分があるかなしかの差であるようだ。耳があるズク(フクロウ)なので、ミミズク。

この像には、角がある。

その前に、午後がはじまったばかりの中途半端な時間なので、教会は午前の部も終わり閉まっている。

では、その間に昼ご飯でも食べておこうと、直ぐ近所にあるあまり上品とも呼べない定食屋風情のところへ。

感じとしては、日本橋の裏路地にある商売を度外視したいくらか家庭的なところ。

アラビア風のペンネが好き。だからそれを頼み、赤ワインも。同行者がなにを注文したかは失念している。ただ、たくさん食べる性質だけは知っている。食べ放題なんて店を選ぶ基準にないが、この時期だけはそれを考慮した。

後出しじゃんけんのような悪口とも思える。

男性は、関与した女性のことについてあれこれ言わずに無言で通すというしきたりを守ったほうがいい。

だが、観察と饒舌を後天的に、まさしくイタリア人になろうと決意した事実により取得した自分は黙っているわけにもいかない。キーボードこそが、ぼくの魔法の杖なのだ。

ところで、料理のことだった。

この期待もしなかったペンネこそが絶妙の味だった。まさに庶民の胃袋を満たすための味。ワインもスノッブ的には無関係な命の水の味。

食べ終わる。そして、時計を気にする。

もう教会は開いているだろう。

ミケランジェロを見る。いくらか賽銭を入れると、ランプが数秒だけ着く。

邂逅というのは短時間であるものなのだ。

その後、歩いたかもしれないし、地下鉄に戻ったのかもしれない。コロッセオの大きさを確認したのかもしれない。

しかし、どの遺跡よりも、高級そうではまったくないあの店でペンネをもう一度、食べたいなと思っている。

ガイドブックには今後も載らないであろう、歴史的裏付けもまったくない店。

ここが自分らしいといえば、とっても自分らしい。


最後の火花 70

2015年06月01日 | 最後の火花
最後の火花 70

 柴田さんの教えてくれた方法論で成績があがる。彼女もよろこび、わたしも嬉しく、両親は満足して、先生は怪訝な顔をした。突然の好成績は別の方法論の疑いがある。次回も同じ結果、それ以上の成績が求められる。

「首位打者は辛いものなのよ」と、柴田さんはわたしをなぐさめた。彼女の例えは、なぜか野球を用いた。

 善意のすんなりとしたエネルギーもあるが、悔しいという感情も埋設された管を通ってエネルギーに化ける。だが、どこかで正しいことではないと思っている。

 試験も終わり、自由に本が読める。恋という大きな衝突物がある。自分の周囲にいる、同年齢かもしくは近い年齢の異性。特別な趣向がなければ、対象はそういうものだった。つまりは学校とか運動部とかの範囲でしかありえない。子どもから大人への移行に連れて、孤独という厄介な大げさな問題も立ちはだかる。ひとりでいるときの不安。ひとと感じ方や考え方が異なっていることへの心配。一致したいという願望。ひとの幸福。すでに交際しているひとへのやっかみ。わたしは自分が醜くなりつつあることを恐れている。内面的な意味合いで。

「長距離走者の孤独」という本を開く。運動というものは主題ではなく、ここでは反抗とか対立という毅然たる孤独の受容のことが書かれているようだ。受け入れるか、排除するかでその後の人生が変わる。

 テストの成績が良かったことでわたしの株が家族内であがる。同時に、柴田さんの仕事ぶりの信頼感もきちんと評価される。ひとに教えるということは簡単なように思えた。柴田さんが簡単にしている所為で。だが、ほんとうはそうではないのだろう。ひとの価値が格段にあがることは相対的に、誰かの値打ちが下がる可能性もあるのだった。これも嫉妬のひとつの出口だった。

 孤独を求めた代償は大きいものだった。わたしは居間で映画を父と見た。「大人は判ってくれない」という白黒の映画だった。彼も孤独らしい。孤独の解消はなぜだか衝突を生む。これが反抗期というものだろうか。わたしも母の言動と理不尽な注文にイライラさせられるときがある。

 それでいながら成績が上がったことで喜んでもらえたことを嬉しく感じている。子ども時代は自分の態度を分析しなかった。動物と同じような衝動のみで生きられていた。大人になるにつれ、意味や言い訳や理屈やごまかしが必要になってくるようだ。とにかく、ひとことでいえば面倒くさくなった。

 汗を流している同級生の姿を目で追っている。とにかく目立つ存在だ。華がある。親切かどうかも分からない。あんまり話したこともないのだ。彼が誰かを好きなことは周知で、うわさにもなっている。自分ではないということが悔しいというか切ないものだった。切ないというのは動悸の乱れのことだった。医学的に解説すれば。だが、わたしの身体は理科室の標本ではない。生きたあたたかな存在だった。

 自分ではどうしようもないこともある。勉強は柴田さんによって、どうにかなった。いまは、どうにかなることを頑張ろう。そう力んで誓わなくても週に数度は、柴田さんが家にやって来た。わたしは教わり、いっしょにご飯をため、柴田さんの恋の話をきいた。

 わたしから見れば、すべて打算の産物のようにも思える。弁護士になった自分にふさわしいのは、それ以上の尊敬されるべき職業のひとのようだった。医者とか、社長とかの。子どものわたしの理解は漠然としている。でも愛すべき柴田さんは理想とは別にだらしない性格の彼氏がいた。付き合ったり、別れたりして数年間が経つ。だが、彼女の勉強や仕事が忙しくなれば、別のかたちで前進するのだろう。せざるを得ないのであろう。

 わたしは勉強のコツをつかんでしまった。あとはやる気と眠気との戦いであった。絶対的な記憶量の問題もある。本を読む時間も必要だ。それより、あのひとがわたしを認める日が来てほしいようにも思う。

 父は、最寄り駅まで柴田さんを送った。なぜか妹もついて行っている。なにかをねだる作戦があるのかもしれない。妹も柴田さんを家庭教師にもてればいいが、もうその頃は、どこかの弁護士事務所で働いているのだろう。だらしのない男性はずっとその位置を守り抜くのだろうか。ある日、そこから抜け出る日が来る。いままでの時間を感謝する。父と妹は帰ってきた。妹はアイスを食べている。そのくせにお腹が丈夫じゃない。明日が心配だ。

 わたしはラジオをかけて勉強する。習慣にすることが大事だと言った。顔を洗うように、机に向かう。孤独のことも考える。父の笑い声が聞こえる。母のイライラした口調も階下から聞こえる。妹がトイレのドアを開ける音がする。わたしの集中力は破れた障子ぐらいのものだ。秘密にしたいことも筒抜けだ。

 明日は球技大会がある。彼は活躍するのだろう。そのゴールはあの子のために決めるのかもしれない。祝うべき理由がある。わたしはゴール・キーパーになって止めたいと願う。両手を伸ばして、すべてのシュートを払い除ける。いや、強く胸にボールを抱きかかえるのだ。妹が戸を開ける。青白い顔をして、薬がないのか問うた。