最後の火花 73
わたしは彼の家でテレビを見ていた。伝説にまでなったひとびとの最後のことばや墓碑銘が伝えられる。
「自分だったら、どうする。どうしたい?」
彼はすこし考える様子をした。「みんな、後悔した。ぼくも後悔した」
「どうして?」
「唯一の真実だと思うから」
わたしは黙る。どんな後悔があるか予想したから。そして、凡その答えが分かっているから。
「光子は?」
「飲んで、食べて、寝た」
「俗物だな」
「まったくもって俗物」女性など形而下で示されるものが幸福の源泉なのだ。彼はときたま難しそうな顔をしている。形而上、神様、未知なるもの。わたしも考えたことがあったと思う。しかし、この秋からの洋服とか、流行りのレストランの情報という方に気持ちは動いた。
彼は買い物帰りのデパートのバッグをいくつももってくれる。いやそうな顔もせずに。しかし、店の前には決していてくれない。ああでもない、こうでもないに耐えられないのだ。普通のことだと思うが、ちょっとだけ淋しくなる。でも、期待はこれぐらいで増やさずに、もし、確実にそうしたいなら気の合う友人と来ればいいのだ。その反対に彼には友人が多くなかった。振り返るべき過去を多くもたず、それこそ、そこは後悔すべき国の住人たちで溢れているのだろう。わたしの最大の後悔は、どこの時点だったのだろうか。就職の面接でとんちんかんなことを言ったこと。大きなあくびを見られたこと。くしゃみの迫力があり過ぎたこと。わたしはどう転んでも形而下の人間だった。
家に着き、彼は目覚まし時計に電池を入れていた。「フール・プルーフ」という独り言をいいながら。
「なに、それ?」
「安全とかを考えて製品は失敗を予定して設計されている」
「例えば?」
「この電池も逆さまには入らないとか、倒れたらスイッチが切れるストーブとか」
「なんだ、そういうことか」
「大切なことだけどね」彼はそう誇らしげに言う。もし、後悔に先立って、そういう弁のようなものがあったらどうだろう。しかし、わたしが好きになる、あるいは出会うことになる彼はいまの状態のままでもあってほしい。身勝手な言い分だけど。しかし、身体というのは高機能だ。簡単に逆さまにも前後にもなれる。形而下の告白。
わたしは家に帰って本を探す。過去がよみがえり、そのことに拘泥して、複雑な感情を浴びてしまう主人公。題名は、「夜半楽」だった。過去などそっと静かに眠らせておけばいいのだ。石をめくり、下から虫が這い出てくる。その光景をわたしは思い浮かべていた。よみがえらせた過去は、もう静かには葬れない。退治のような行為が必要になる。袋につめてまた闇に戻す。地下に埋める。しかし、彼にはこのことを勧められない。わたしは確信に触れることを恐れている。
しっぺ返しを食う。過去はそう甘く迎えてくれない。両手をひろげて歓迎もしてくれない。すると、過去への導火線に火を近付けることは避けなければいけなかった。
わたしは仕事をする。未来に向けて働いている。成功はこれからやってくる。そう理想を燃やしても、過去の失敗が暴かれ、後始末をしている。これがなかなか疲れる作業だった。有効なる一日を台無しにする。夜には英雄と会う。彼の家に寄る。
わたしはおしゃべりになった。疲労感を口からことばに変換して放出しなければならない。彼は鷹揚に相槌をしながら話を聞いてくれる。
「失敗なんかにこだわることないよ」彼はそう言ったが、むずかしいことは自分が一番知っているはずだった。
わたしは服を着込んで終電に間に合うように部屋を出た。彼も駅まで見送りにきてくれた。わたしは手を振る。彼も片手をズボンのポケットから出して手を振った。
さよならが出来るということは幸せなのだ。もう一度、再会が許されているならば。これっきりにならなければ。最後で思い出として封印という事態にならなければ。わたしは確信している。数日後にはまた会える。
電車のなかで本を広げて両ひざの上に載せる。ひとつだけ座席は空いていた。わたしは直ぐに夢中になって前後である未来も過去のことも放り投げてしまう。次第に車内は混んできて、夜中の熱気が加わった。
もうちょっとで読み終わりそうだったが駅に着いてしまう。家までの道順に悩むこともない。そうなると悩みというのは分からないことに限るという前提があった。あの問題が分からないという遠いむかしの焦りもわたしに影響を与えることはない。ちょっと先の未来についてだけ困惑する。しかし、ほんとうのところは悩んでいない。いや、それもウソだ。両親に会わせるということも考慮に入れなければいけない。反対してこその父であり、同情を体現するための母だった。だが、うちでは反対の役割を負う可能性もある。子どもは今更、気に入られることなどに努めなくてもいい。だが、急に会う大人は善後策が必要なのだ。彼の育った環境はある面では特殊だった。特別なものなど映画とかテレビの画面を通してでないと抵抗せずに受け入れることも難しかった。
わたしは彼の家でテレビを見ていた。伝説にまでなったひとびとの最後のことばや墓碑銘が伝えられる。
「自分だったら、どうする。どうしたい?」
彼はすこし考える様子をした。「みんな、後悔した。ぼくも後悔した」
「どうして?」
「唯一の真実だと思うから」
わたしは黙る。どんな後悔があるか予想したから。そして、凡その答えが分かっているから。
「光子は?」
「飲んで、食べて、寝た」
「俗物だな」
「まったくもって俗物」女性など形而下で示されるものが幸福の源泉なのだ。彼はときたま難しそうな顔をしている。形而上、神様、未知なるもの。わたしも考えたことがあったと思う。しかし、この秋からの洋服とか、流行りのレストランの情報という方に気持ちは動いた。
彼は買い物帰りのデパートのバッグをいくつももってくれる。いやそうな顔もせずに。しかし、店の前には決していてくれない。ああでもない、こうでもないに耐えられないのだ。普通のことだと思うが、ちょっとだけ淋しくなる。でも、期待はこれぐらいで増やさずに、もし、確実にそうしたいなら気の合う友人と来ればいいのだ。その反対に彼には友人が多くなかった。振り返るべき過去を多くもたず、それこそ、そこは後悔すべき国の住人たちで溢れているのだろう。わたしの最大の後悔は、どこの時点だったのだろうか。就職の面接でとんちんかんなことを言ったこと。大きなあくびを見られたこと。くしゃみの迫力があり過ぎたこと。わたしはどう転んでも形而下の人間だった。
家に着き、彼は目覚まし時計に電池を入れていた。「フール・プルーフ」という独り言をいいながら。
「なに、それ?」
「安全とかを考えて製品は失敗を予定して設計されている」
「例えば?」
「この電池も逆さまには入らないとか、倒れたらスイッチが切れるストーブとか」
「なんだ、そういうことか」
「大切なことだけどね」彼はそう誇らしげに言う。もし、後悔に先立って、そういう弁のようなものがあったらどうだろう。しかし、わたしが好きになる、あるいは出会うことになる彼はいまの状態のままでもあってほしい。身勝手な言い分だけど。しかし、身体というのは高機能だ。簡単に逆さまにも前後にもなれる。形而下の告白。
わたしは家に帰って本を探す。過去がよみがえり、そのことに拘泥して、複雑な感情を浴びてしまう主人公。題名は、「夜半楽」だった。過去などそっと静かに眠らせておけばいいのだ。石をめくり、下から虫が這い出てくる。その光景をわたしは思い浮かべていた。よみがえらせた過去は、もう静かには葬れない。退治のような行為が必要になる。袋につめてまた闇に戻す。地下に埋める。しかし、彼にはこのことを勧められない。わたしは確信に触れることを恐れている。
しっぺ返しを食う。過去はそう甘く迎えてくれない。両手をひろげて歓迎もしてくれない。すると、過去への導火線に火を近付けることは避けなければいけなかった。
わたしは仕事をする。未来に向けて働いている。成功はこれからやってくる。そう理想を燃やしても、過去の失敗が暴かれ、後始末をしている。これがなかなか疲れる作業だった。有効なる一日を台無しにする。夜には英雄と会う。彼の家に寄る。
わたしはおしゃべりになった。疲労感を口からことばに変換して放出しなければならない。彼は鷹揚に相槌をしながら話を聞いてくれる。
「失敗なんかにこだわることないよ」彼はそう言ったが、むずかしいことは自分が一番知っているはずだった。
わたしは服を着込んで終電に間に合うように部屋を出た。彼も駅まで見送りにきてくれた。わたしは手を振る。彼も片手をズボンのポケットから出して手を振った。
さよならが出来るということは幸せなのだ。もう一度、再会が許されているならば。これっきりにならなければ。最後で思い出として封印という事態にならなければ。わたしは確信している。数日後にはまた会える。
電車のなかで本を広げて両ひざの上に載せる。ひとつだけ座席は空いていた。わたしは直ぐに夢中になって前後である未来も過去のことも放り投げてしまう。次第に車内は混んできて、夜中の熱気が加わった。
もうちょっとで読み終わりそうだったが駅に着いてしまう。家までの道順に悩むこともない。そうなると悩みというのは分からないことに限るという前提があった。あの問題が分からないという遠いむかしの焦りもわたしに影響を与えることはない。ちょっと先の未来についてだけ困惑する。しかし、ほんとうのところは悩んでいない。いや、それもウソだ。両親に会わせるということも考慮に入れなければいけない。反対してこその父であり、同情を体現するための母だった。だが、うちでは反対の役割を負う可能性もある。子どもは今更、気に入られることなどに努めなくてもいい。だが、急に会う大人は善後策が必要なのだ。彼の育った環境はある面では特殊だった。特別なものなど映画とかテレビの画面を通してでないと抵抗せずに受け入れることも難しかった。