最後の火花 81
ようやく犯罪を償った。大事な時間を無駄にしてしまった。
知人の空いている家に身を寄せた。その知人が仕事を紹介してくれる。無一文からの再出発だ。一か月に必要になるお金を彼に借りる。オレには刻印がついた。レッテルがある。蹄鉄が打ちつけられている。
自分には幸福がもう二度と、来ないだろう。ひとを殺しておいて、自分のその願いなどむなしいものだ。オレは毎日、肉体を酷使して働き、理性を失わない程度に安い焼酎で酔った。眠れない夜は職場の控室に捨てるように置かれている本を持ち帰って読んだ。数ページもすると、オレの目は自然と閉じられてしまう。
夢をみる。自分という存在が希望にあふれていた時代に戻っている。夢中で野球のボールを追い駆けている。蒸し暑い教室から逃れることを考えている夏休み前の一日。崖から海に飛び込んだ勇気。スイカを無我夢中で食べた夕方。にわか雨に打たれたまま過ごしたあの日。
朝になる。また仕事に出かける。自分という存在が恐れられているような雰囲気はない。そもそも、ひとりで昼食を食べ、ひとりで残業をして、ひとりで家に帰るだけなのだから、他人の視線を感じる暇もない。
たまに土曜の午前だけで仕事が終わる日に、親子の姿を見かける。決まって母と男の子だけだった。オレはうわさを耳にする。夫は出ていってしまい、隣町で暮らしているそうだ。男の子は自分の幼少時を思い出させる容貌だった。母の愛をそれほど受けていないところは似ていないのだが。
自分はひとを幸福にすることができるのだろうか。幸福にする価値があるのだろうか。幸福に寄与する使命をまだ奪われていないのだろうか。だが、自分の存在を消すことだけを願うべきはずだった。自分は犯罪をした人間だ。ひとの将来を奪ってしまった人間だった。
オレは少年たちの野球を見ている。財布は借金を返して空の日曜だった。それでも、無料で太陽を浴びて、無料でさわやかな風を感じていた。誰かあたたかな存在と会話をしたいとも思う。刑務所をでて、自分は長い会話をしたことがない。自分の口は、数語をかたるためにできている。
どこで間違ってしまったのだろう。かっとなりやすい性分なのは子どものころから指摘されていた。大人になるにつれ改善されたはずだった。だが、あの日だけは抑えられなかった。たった数分でオレは自分の人生を失った。もちろん、相手の人生も無と化した。罵倒を浴び、たくさんの涙を見せつけられた。前以って知っていたら、自分はどうやっても回避しただろう。それが失敗者の常套の宣言だった。
ボールがこちらに転がってきた。無視できないほどに近付いてくる。オレはボールを拾う。むかしのころの懐かしい手触りだった。白と呼べないほどに黒ずんでしまったボール。オレは小さな胸に向かって丁寧に投げ返す。その小さな存在はあの男の子だった。彼は帽子を脱ぎ、挨拶をした。しっかりしている。
オレはそのまま家に向かう。給料日までに数日ある。部屋には焼酎がまだのこっているはずだ。オレは窓を開け、暑苦しい部屋でポータブル・ラジオのニュースを聴き、焼酎をコップに注いで乾いたイカの足をかじった。
ニュースはどこかの国の嵐を告げ、誰かの式典に触れ、傷害事件をひとつ増やした。自分がすべてに無関係でいられた少年時代にもどり、野球でも無心にしたかった。成功に憧れることもなく、失望を味わうこともなかったあの頃の幸福。幸福というものを意識した時点で、自分の不幸も日の目に暴かれるのだろう。
いつの間にか寝ていた。ラジオだけが小声で自分を主張していた。古い歌謡曲が流れている。現代のものより録音状態は悪かったが、補って余りある熱気があった。オレはボリュームを上げる。音が大きくなるとなぜか空腹を感じた。
たまった汚れた衣服を洗う。もう外は暗くなったが軒下に干す。月がいつもより輝いていた。円というものは映像的に美しいと実感する。一本の線。三角形。四角。円。自分は家族というものに憧れているのかもしれない。円いちゃぶ台。筒状の湯飲み。お椀。二本で対となる箸などの有形のものも含めて。
朝、すっかり乾いた作業着を着こんで職場に向かう。騒音と逃れることのない熱。また一日がはじまる。給料日まで数日だ。来月、再来月とこの焦燥はつづくのだろう。冬になればもっとましになるのかもしれない。なぜ、自分はこの町に居付くことを望んだのだろう。いくらか金がたまれば、もっと遠い土地に移ることにするのだろか? オレという存在を詮索される。羨望は決して生まず、がっかりという感覚、裏切られたという悲しみだけをのこす。誰が悪いわけでもなく、ただ、自分の過去の衝動だけに非があった。誤った解答を消しゴムできれいにして、あらたに問題を読み直して、深く理解してから解答を書き記したかった。もしくは、その問題そのものを破って放り投げたかった。そう思いながらも汗をぬぐい、ミスをしないように気を配りながら昼食時の休憩まで頑張ることにした。
ようやく犯罪を償った。大事な時間を無駄にしてしまった。
知人の空いている家に身を寄せた。その知人が仕事を紹介してくれる。無一文からの再出発だ。一か月に必要になるお金を彼に借りる。オレには刻印がついた。レッテルがある。蹄鉄が打ちつけられている。
自分には幸福がもう二度と、来ないだろう。ひとを殺しておいて、自分のその願いなどむなしいものだ。オレは毎日、肉体を酷使して働き、理性を失わない程度に安い焼酎で酔った。眠れない夜は職場の控室に捨てるように置かれている本を持ち帰って読んだ。数ページもすると、オレの目は自然と閉じられてしまう。
夢をみる。自分という存在が希望にあふれていた時代に戻っている。夢中で野球のボールを追い駆けている。蒸し暑い教室から逃れることを考えている夏休み前の一日。崖から海に飛び込んだ勇気。スイカを無我夢中で食べた夕方。にわか雨に打たれたまま過ごしたあの日。
朝になる。また仕事に出かける。自分という存在が恐れられているような雰囲気はない。そもそも、ひとりで昼食を食べ、ひとりで残業をして、ひとりで家に帰るだけなのだから、他人の視線を感じる暇もない。
たまに土曜の午前だけで仕事が終わる日に、親子の姿を見かける。決まって母と男の子だけだった。オレはうわさを耳にする。夫は出ていってしまい、隣町で暮らしているそうだ。男の子は自分の幼少時を思い出させる容貌だった。母の愛をそれほど受けていないところは似ていないのだが。
自分はひとを幸福にすることができるのだろうか。幸福にする価値があるのだろうか。幸福に寄与する使命をまだ奪われていないのだろうか。だが、自分の存在を消すことだけを願うべきはずだった。自分は犯罪をした人間だ。ひとの将来を奪ってしまった人間だった。
オレは少年たちの野球を見ている。財布は借金を返して空の日曜だった。それでも、無料で太陽を浴びて、無料でさわやかな風を感じていた。誰かあたたかな存在と会話をしたいとも思う。刑務所をでて、自分は長い会話をしたことがない。自分の口は、数語をかたるためにできている。
どこで間違ってしまったのだろう。かっとなりやすい性分なのは子どものころから指摘されていた。大人になるにつれ改善されたはずだった。だが、あの日だけは抑えられなかった。たった数分でオレは自分の人生を失った。もちろん、相手の人生も無と化した。罵倒を浴び、たくさんの涙を見せつけられた。前以って知っていたら、自分はどうやっても回避しただろう。それが失敗者の常套の宣言だった。
ボールがこちらに転がってきた。無視できないほどに近付いてくる。オレはボールを拾う。むかしのころの懐かしい手触りだった。白と呼べないほどに黒ずんでしまったボール。オレは小さな胸に向かって丁寧に投げ返す。その小さな存在はあの男の子だった。彼は帽子を脱ぎ、挨拶をした。しっかりしている。
オレはそのまま家に向かう。給料日までに数日ある。部屋には焼酎がまだのこっているはずだ。オレは窓を開け、暑苦しい部屋でポータブル・ラジオのニュースを聴き、焼酎をコップに注いで乾いたイカの足をかじった。
ニュースはどこかの国の嵐を告げ、誰かの式典に触れ、傷害事件をひとつ増やした。自分がすべてに無関係でいられた少年時代にもどり、野球でも無心にしたかった。成功に憧れることもなく、失望を味わうこともなかったあの頃の幸福。幸福というものを意識した時点で、自分の不幸も日の目に暴かれるのだろう。
いつの間にか寝ていた。ラジオだけが小声で自分を主張していた。古い歌謡曲が流れている。現代のものより録音状態は悪かったが、補って余りある熱気があった。オレはボリュームを上げる。音が大きくなるとなぜか空腹を感じた。
たまった汚れた衣服を洗う。もう外は暗くなったが軒下に干す。月がいつもより輝いていた。円というものは映像的に美しいと実感する。一本の線。三角形。四角。円。自分は家族というものに憧れているのかもしれない。円いちゃぶ台。筒状の湯飲み。お椀。二本で対となる箸などの有形のものも含めて。
朝、すっかり乾いた作業着を着こんで職場に向かう。騒音と逃れることのない熱。また一日がはじまる。給料日まで数日だ。来月、再来月とこの焦燥はつづくのだろう。冬になればもっとましになるのかもしれない。なぜ、自分はこの町に居付くことを望んだのだろう。いくらか金がたまれば、もっと遠い土地に移ることにするのだろか? オレという存在を詮索される。羨望は決して生まず、がっかりという感覚、裏切られたという悲しみだけをのこす。誰が悪いわけでもなく、ただ、自分の過去の衝動だけに非があった。誤った解答を消しゴムできれいにして、あらたに問題を読み直して、深く理解してから解答を書き記したかった。もしくは、その問題そのものを破って放り投げたかった。そう思いながらも汗をぬぐい、ミスをしないように気を配りながら昼食時の休憩まで頑張ることにした。