爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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最後の火花 79

2015年06月17日 | 最後の火花
最後の火花 79

 わたしは大事なことばを待っている。ことば以外にも実際に、この空間で彼の存在を待っている。

 駅のそばで紅茶を飲んで、本を読んでいる。きっかけができた場所。ひざには高慢と偏見が置かれている。わたしはぼんやりして遠いむかしの最初の恋のことを考えていた。すると彼が入ってくる。わたしの時間の感覚は変になり、誰を待っていたのか分からなくなっていた。

「こころ、ここにあらず、という顔をしてたよ」

 彼はひとの表情を読み取ることに長けている。わたしのよろこびも、怒りも悲しみにも敏感だ。わたしはその面では鈍感だ。ひとが怒っていることに気付かない場合もあった。

 彼はコーヒーを飲む。ミシェル・ルグランの音楽が流れている。今日という完璧な一日。

 ふたりで夜の町を歩く。さわやかな風が吹いている。むかしのテレビのコマーシャルを思い出していた。老夫婦が楽しそうに町を飛び跳ねるように歩いている。わたしもああなりたいと英雄に言ってみた。

「そうなるのには随分と時間がかかるよ」
「いや?」
「いやじゃないけど」
「いやじゃないけど?」
「もっと現在を楽しみたい」彼はこちらを向く。「奪われたものも多かったので」
「うん」わたしは納得する。

 ひとはいつ、このひとと決めるのだろう。自分と相手の両方がそう思う必要がある。シーソーのバランスは丁度でふたりとも宙に浮く。相手がいなくなれば落下してお尻に衝撃がくる。それが失恋でもあり、離別でもあった。そうならないように願っている。

 もうウソもつきたくないし、過剰に自分を高めて良く見せるようなこともしたくない。努力を怠るということではなく、等身大の自分にぴったりの衣服を見つけるようなものだ。良さも悪さも、高貴さも醜さも考慮しない自分という存在。そのままを愛されているという満足感。わたしはそうなるのだ。

 高いビルの上階にあるレストランに行く。となりでは誕生日のパーティーなのか、とてもにぎやかだ。キャンドルの炎を吹き消すという行為を客観的に見ると、とても不思議なことに思えた。疑うこともせずに幼児のころから何度もしてきたのに。

「楽しかった思い出ある?」わたしは小さく見えないようにとなりのテーブルを指差した。

「子どものころは、どうだったろう。途中からは、もうないよ」私はすぐに彼の過ごしてきた環境を忘れた。「光子は?」
「たくさんあったな」しかし、どれかひとつを選んで取り出すことはできなかった。総じての誕生日というイベントから。「はじめて学校のお友だちをたくさん呼んだときかな、それでも」

「どんなものを用意するの?」
「加藤さんというお手伝いさんがいて、いっぱい料理をつくってくれた。お手製のケーキも」
「そのひとから習ったの?」彼は段々とわたしの料理に洗脳されてきている。
「別のひと。中学のときの友人のお母さん。そうか、まだあのお店やってるのかな。今度いってみる?」
「うん、行ってみよう」

 約束というのは未来だから成立する。わたしは過去に交わして果たせなかった約束について思い出そうとした。結果はなにひとつ出てこない。わたしは忘れっぽいのだ。それでも、数々の記憶は生きている間に少しずつストックされていく。料理のレシピも増えていく。わたしは今後、どれほどの品々を食べてもらえるか考えてみる。冷やし中華も作って、温かいスープのバリエーションも披露しなければいけない。

 前菜の小さなチーズの切れ端を食べる。においも味もダメなひともいる。
「豆腐ようって、食べたことある?」

「あるよ。一丁ぐらい」彼はまじめな顔をして冗談を言う。わたしは吹き出しそうになる。
「好き?」
「とくべつにでもないけど、キライでもない」

 普通の料理の日もあって、誕生日を祝うための日もあった。珍味を口にする機会もあって、どうしようもなくアイスを食べたくなるときもある。定番が流行となってしまい、陳腐なものになってしまう場合もあった。

 テーブルには白身魚のグリルが運ばれる。白いワインも注がれる。お酒をまったく飲めないひとだったら、どうなっていただろうかと考える。十代のときに付き合った恋人たちは、それ以降、お酒を飲んだのだろうか。彼らとの約束ものこっていない。

 ヒレの肉がテーブルに載った。誰がこういう順序を発明したのだろう。好きなものから食べるという単純さにあこがれる。すると子どもたちはデザートからはじめる不作法をくりかえすかもしれない。わたしはさっき選んでしまったデザートが交換できるか悩んでいた。

 わたしたちもこういう段階を追いたいと思った。家を決めたり、赤ちゃんの洋服を買ったり、車を買い替えたり、子どもの入学式や卒業式に立ち会ったりして。最後にまたふたりになる。たくさん喧嘩をして、たくさん仲直りする。いっぱい笑って、ちょっと泣く。ふたりで思い出の土地へ旅する。未来だけが約束に値する土地なのだ。その未来が前方に開ける。誰も奪えないさわやかな予感。わたしだけに示されるであろう大切なことばが待っている。


最後の火花 78

2015年06月17日 | 最後の火花
最後の火花 78

 はじめて告白されてしまった。重大なことだ。

 もともと知っていた相手だが、彼の頭のなかにわたしがいただなんて。わたしは返事をためらう。だから、一回目はそれっきりになってしまった。次の機会が到来するのか悶々とする。わたしは決してキライではない。絶対に、了承するはずなのだ。了承ということばは十代の半ばが使うことばではないのかもしれない。単純な返事ではオッケーだ。オーキー・ドーキーだ。

 一週間ぐらいまた経って、同じ提案を投げかけられる。返答は決まっている。契約成立。売買交渉。

 友人以外で、なおかつ、いままではそれほど親しくもなかった、それも異性と時間の約束をして、身なりにも気をかけて会うことになる。会いたいという気持ちと恥ずかしい気分が両輪となってわたしは転がっている。会う度ごとに自然と打ち解けていく。彼は優しかった。彼は楽しかった。彼はそこそこ美しかった。わたしは自分がきれいになっている錯覚に飛び込む。

 満足というのはまだまだ低い地点にあった。いっしょに手をつないで歩くだけとか。高級車を乗り回す年齢でもない。何万円もするワインのコルクを抜くわけでもない。テレビの大人の女性たちはそういう意見を述べていた。なんだか不幸なひとびとのように思える。しかし、それぞれの山登りの道中の一環なのだろう。五合目ではこんなこと。八合目ではあんなこと。頂上に立ってこそ感激できること。

 わたしたちはベンチに座り、お話をしている。最初の地点より愛情は深まっている。情というのは女性に過分にあるのだろうか。身の回りのものに愛着を感じる量。そんなことを考えていると足元に猫が寄ってきた。なぜ唐突に気を許したのか分からないながらも、わたしの足にすり寄ってくる。普段ならとてもうれしいのに、この時ばかりは恥ずかしかった。だが、彼もその猫のあたまをゆっくりと撫でてくれた。その行為に満足したのか、小高い丘のほうにのんびりと猫は歩いて行った。振り向くこともせずに何事もなかったかのように悠然と。

「恩も感じないみたいだね」と彼はいった。ふたりともそのことで笑う。親密さというのはこういう些細な体験を通して増していくものなのだろう。

 彼はわたしを送ってくれる。無言でも愛情は感じられる。しかし、いったいわたしのどの部分に魅かれているのだろう。可愛い子は山ほどいた。わたしは、それまで彼とほとんど話したこともなかった。皆無に近い。わたしもすこしばかり怖かった。なにをされたという理由もないのだが、風貌とたたずまいが怖かった。

 すべては杞憂に過ぎない。あのまま知り合いにならなかったら、わたしは彼の優しさに触れないままで終わってしまった。家の前に着く。わたしは家に入り、彼はそこから自分の家まで歩く。

 本を読もうとするが、なかなか手に付かない。わたしの体温は風邪を引いたわけでもないのにちょっとだけ上がる。わたしは女性という側にいる。男性に愛を寄せられて徐々に大人の女性になる。早まってはいけない。わたしは急に明日のお弁当の献立を考えることにする。レンコンには穴がある。そこにひき肉を詰め込む。ピーマンも同じようにしよう。わたしはあれこれ考えながらお風呂にはいる。

 わたしは所有して、かつ所有されている。家族や友人も知らない一面を見せることになる。わたしの長所を再確認して、さらに短所を指摘される。短所を治そうと思いながらも、今後の人生のお供として道連れにする。好きになるというのはそこまでの容認と覚悟が必須なのだろうか。

 ようやく本を開く。ローレン・バコールという大昔の女優の自伝。ひとは、特に女優という職業はイメージが最優先され、その虚像によって画面に登場する。本音など、実際の夫や周囲のマネージャーぐらいのほんのわずかしか知らないのだろう。本当のことがどうであろうと、そこには名声や金銭も発生しない。だが、この自伝には本音だけが溢れている。きれいな顔立ちと、文才が両方とも備わっている。うらやましかった。

 朝、寝坊をしてしまい大慌てでお弁当をつくる。時間も有限。一日も有限。彼との時間も有限だった。去年に出かけた南の島のことを思い出す。ハンモックに揺られて一日中、のんびりしていた。時間は間延びして、誰も結論を迫ってこない。判断をすることはなく、ただ与えられたものだけで充分に満足していた。

 家を出る。わたしのことを常に考えてくれる恋人ができた。会わなくても、こころのどこかにいる。どこかという中途半端なものではなく、中心にいるのだ。

 学校の休み時間、友だちが痴漢に遭ったという報告をした。汚らわしい。その一方で、わたしの彼はわたしの身体についてどういう願望や欲求をもっているのか心配になる。わたしを抱きしめようと想像しているのだろうか。彼らは、そういう雑誌を笑いながら交換している。トレードがあり、競りがあった。

 わたしもいつか胸やお尻を触られるかもしれない。頬にひげを感じるぐらい大人の顔なのだろうか。お昼時間になってお弁当箱を開く。彼はいったい何を食べているのだろうか。屋上で一服なんかしていないだろう。きょうも会えるだろうか。わたしは家庭教師もいなくなり、友人のおばさんに料理を習うこともさぼってしまっている。ただ、ある若者に会いたかった。自分が昨日の猫のようにシンプルに寄り添っていければいいと考えていた。