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最後の火花 85

2015年06月25日 | 最後の火花
最後の火花 85

 職場の昼休みに食事を済ませ、一服しながら新聞を読んでいた。紙面に絶対に自分が載らないと思って読むのが新聞だった。オレは一度、載ってしまった。好奇と軽蔑の文字。隠ぺいと露出の掛け合い。

 ある高名なひとの記事があった。晩節を汚す、という見本のようなものだった。ひとの目に触れないところで大量の金品が移動していた。税も通帳への記帳も必要ない宝たち。彼がした数々の成功が泡となす。もうこの不名誉をぬぐうチャンスは与えられないだろう。あと数年で彼の人生は終わるぐらいに充分に生きていた。

 すると若いときの不名誉のほうがいくらかましかもしれない。絶対に浴びないのが理想だが、思い通りにもいかないならば。辛酸をなめる期間が短いほうが幸福とも思えるし、そこから抜け出した(抜け出す保証はどこにもないが)あとの快感を得られるならば、若いときの不名誉は勝った。

 休憩は終わる。機械はふたたび作動する。いくつかの欠陥品が生まれる。百パーセントの完成品など人間が作るもののなかにはない。はじかれるものが絶対的に生じる。その埋め合わせのために数個だけ余分に発注する。

 仕事になれてくると付加的な仕事が追加された。総合的にこの場の流れや利益を俯瞰するには、いろいろなところに踏み込んだほうがいい。株式などない小さな工場。儲かるのか、あるいは傾くのか世の中は二者択一しかない。現状維持は理想であり、夢でもあった。自分は力まないように、溺れないように、軽やかに泳ぎ切ることだけを覚えようとした。

 三時の休憩時につけたラジオの続報のニュースでも同じ話題が取り上げられていた。マスコミは生け贄を探す。普段だったら、揉み手をして卑屈に応対していた相手だろう。そもそも近寄ることもそばに接近することもできないひとだったろう。あるきっかけで立場が変わる。野性の動物が遠い世界の裏の動物園の檻のなかで縮こまるように、マイクという餌を横柄に放り投げられていた。あるいは突かれていた。

 社長も事務員も、ここぞとばかり喝采している。自分たちには生涯かかっても手に入れられない地位やお金を有していたひとなのだ。どうやっても同じ地平線に立てないが、この瞬間だけはその境界がうやむやになった。

「山形君はどう思う?」

 社長の問いかけを合図にみなの視線が向いた。自分は簡単に証拠をもっていないことに対して裁かないことを誓ったはずなのだ。
「晩節を汚したようで、もったいないなと」
「もう少しで乗り越えられたのにね。うまいこと見つからずに」女性の事務員のことばにみなが笑った。それを機に休憩は終わる。あと三時間できょうも解放される。

 そう終わりを予想していたが、急な納品の約束で残業になった。社長は勝手にかつ丼を頼んでいた。オレはそれを夕飯にして、九時近くまで汗まみれになった。

「ご飯は?」
「食べたけど、食べるよ」冷えたご飯でも家族とともに過ごす時間は貴重だった。英雄は横になって寝てしまったようだ。ずっと、この子も不名誉から逃げ切れればいい。その網は突然、頭上を覆う。走り回っても、真っ黒な雨雲のように執拗に追い駆けてくる。服をびしょ濡れにしない限りは仕事を中断させない。完遂させることだけが望みなのだ。
「無理しなくてもいいよ」彼女は茶碗に軽めにご飯をよそった。

「無理じゃないよ」オレは沢庵をもちあげる。毎日でる漬け物に飽きることをしない。飽きるということはいったいどういうことだろう。白米も納豆もその不名誉を負わない。醤油も味噌もその地にいない。卵も飽きることはない。普遍的な関係を保ちたいと思う。それに比して、オレという存在は突飛過ぎた。内なる野蛮さは完全に消えたのだろうか。オレはこの家族にも飽きてしまう時期がくるのだろうか。

 彼女は後片付けをしている。オレは英雄を抱えて布団のうえに載せた。まだまだ軽かった。オレは風呂に入り、一日の汚れを落とした。こんなに簡単に不名誉も洗い流れればいい。しかし、しばらく湯につかり考えを訂正する。不名誉というのは、自分に責任がないことにも思えた。不本意とか不注意とかの、一歩はなれた距離にあるものとして。加害者とか、同罪という観点では当てはまらない。オレは、オレの存在を無心に受け入れる彼女や英雄を同じ低みまで引っ張ってこようとしているのだろうか。否定と肯定を頭のなかで繰り返すなか、風呂の戸が開いた。女神という安っぽいことばを敢えてつかってみる。黒い髪に、白い肌。黒い瞳に白い歯並み。赤い部分。彼女は器用に足先からオレの横に入り込んできた。湯は浴槽からこぼれ出す。オレの不幸も幸福もいずれこのようにこぼれ出してしまうだろう。少なくなった湯の底にはどんなものがのこっているのだろう。砂粒だろうか。ダイヤモンドだろうか。栄誉だろうか。過去の失跡だろうか。だが、オレはすべてを忘れてしまう。オレの思考は身体の九十八パーセントぐらいしか占めていない。そののこりの数パーセントは主張をはじめると、全部を一網打尽に覆い尽くしてしまう。