最後の火花 80
とうとう生まれた。元気そうな男の子だった。夫もよろこぶだろう。これで、この間違いだったかもしれない結婚が暗礁に乗り上げることを避けられるかもしれない。名前はわたしの一存でかまわないとのことだ。わたしは英雄という名を候補にあげている。わたしのヒーローとなるべきもの。命名とは別に、ただ健やかに育ってほしい。
同じ一年に無数の子どもが生まれる。そのなかに掛け替えのない友人をつくることも可能だし、ライバルを見つけて切磋琢磨することもできる。わたしは無心に応援するだろう。わたしの子どもなのだから。
早く会話ができるようになればいい。たくさんの質問をなげかけられる。いつか、わたしが答えを有していない問題も生じるだろう。わたしは追い抜かれることをいとわない。むしろ歓迎する。だが、ずっと先の話だ。
夫はいつも帰りが遅かった。町はずれの住まいなのだから仕方がない。帰ってきても英雄をちらっと見るだけで終わってしまう。そういう無愛想さが、愛情の欠如と感じられることがわたしには不満だった。
英雄はおとなしい子だった。あまり泣きもしない。寝かせたまま家事をして戻ってきても、同じ姿で寝ていた。わたしは抱っこをしてたくさん話しかける。ことばになる前のうめきの音をきいて安心する。愛情に包まれて生活してほしいと本心で願っている。自分は、自分の若いときの夢や欲求をすべて忘れてしまった。航空会社の乗員の一員として働きたかったのだろうか? それとも、デパートの店員として優秀なセールスを毎月、上げたかったのだろうか? だが、いまは家庭の主婦としてささいなやり繰りに励んでいた。
子どもを生んだわたしにもう興味がないようなふりをする。でも、たまにそういうこともある。わたしはふたり目について考える。ひとりで充分な気もする。弟や妹の面倒をみる英雄を見てみたいとも思う。自分の身体という宿はどれほどのものを生み出すのだろう。その与えられた機会を計算する時間も準備もわたしにはなかった。
毎日が同じ繰り返しでも飽きなかった。わたしは英雄を布でていねいにくるんでいっしょに買い物にいく。わたしは無言ではない。目に付く世界のすべての美しいものの名前を伝える。花があり、川があり、鮒がいて、橋の欄干で釣りをするおじさんがいた。酒屋で子どもの愛らしさをほめられ、八百屋でも同じ評判を勝ち取る。どちらかといえば、わたしに似ているそうだ。嬉しいことだが、わたしの欠点は受け継いでほしくない。時代も性別も変わるのだから、もっと立派な男性になるだろう。わたしは尊敬される職を得た英雄を予想する。だが、わたしの理解にこそ限界があった。哲学者がなにをするひとかも分からず、銀行員という狭い一室にいるひとの一日も知らなかった。単純に最愛の女性をけん命に愛してくれればいいのかもしれない。だが、男性には職業というものがとても大切な要素にもなるのだ。夫はその訓練に時間を注いでくれるだろうか。
ある日、英雄は床にすわっている。木のおもちゃを握っていた。腕力が強いのか、その棒で床を叩いていた。わたしは試しにラジオをかけてみる。音楽家にもなれるのだ。わたしは学生時代に歌をほめられたことを思い出している。ラジオの曲といっしょに歌ってみる。英雄は驚いたような顔をした。耳に入った音は、どう分析されるのか。英雄は自分の口をパクパクと動かした。
わたしは日記をつけることにする。その決断は遅かったのかもしれない。記入することは、きょうどんなことをして、どんな感情の揺れを表に出したかだ。水というものにびっくりしながらも、その清浄さを感じたこと。庭にあらわれたカエルをつかまえようとしたこと。はじめて口にしたことば。すっぱさや苦さの表情。小さな歯。髪の毛が切るまでに伸びたこと。
ずっとお腹のなかにいて外部の物事に対して免疫のない身体。具合が悪い日もある。わたしは最悪のことを考えてしまう。だが、数日後には以前より元気な状態になっている。ひとつ、悪を受容して許容する。潔癖では負けてしまう。適度な悪があったとしても、この世界で生きていかないといけない。
いつの間にか英雄は二本の足のみで立っている。わたしはびっくりした。むかし、農場でみた馬の出産の光景を思い浮かべた。あのときの少女だったわたしも感動したが、いまは比べられないほど身中に衝撃が走った。
それにしても感動も束の間で、油断し過ぎてしまった。それから数日後、英雄は突然倒れ、おでこをテーブルにぶつけてしまう。泣きじゃくり、小さなコブがひとつできた。わたしは泣く姿の子に不注意を謝り、夜こっそりとノートに記した。いずれ、わたしの目の届く範囲にいられなくなってしまう。せめても、この時代だけはわたしのすべてをかけて守りたかった。
夫は不機嫌のまま起きて、不機嫌のまま眠った。お酒臭い息が寝ている身体から発せられる。わたしは成功ということが分からなくなる。英雄は生まれなければいけなかった。このわたしの身体を通して、そして、この横で眠る夫の一部を借りて生まれなければならなかった。夜は暗く、朝までのわずかな安堵の時間をわたしは眠ろうと焦っていた。
とうとう生まれた。元気そうな男の子だった。夫もよろこぶだろう。これで、この間違いだったかもしれない結婚が暗礁に乗り上げることを避けられるかもしれない。名前はわたしの一存でかまわないとのことだ。わたしは英雄という名を候補にあげている。わたしのヒーローとなるべきもの。命名とは別に、ただ健やかに育ってほしい。
同じ一年に無数の子どもが生まれる。そのなかに掛け替えのない友人をつくることも可能だし、ライバルを見つけて切磋琢磨することもできる。わたしは無心に応援するだろう。わたしの子どもなのだから。
早く会話ができるようになればいい。たくさんの質問をなげかけられる。いつか、わたしが答えを有していない問題も生じるだろう。わたしは追い抜かれることをいとわない。むしろ歓迎する。だが、ずっと先の話だ。
夫はいつも帰りが遅かった。町はずれの住まいなのだから仕方がない。帰ってきても英雄をちらっと見るだけで終わってしまう。そういう無愛想さが、愛情の欠如と感じられることがわたしには不満だった。
英雄はおとなしい子だった。あまり泣きもしない。寝かせたまま家事をして戻ってきても、同じ姿で寝ていた。わたしは抱っこをしてたくさん話しかける。ことばになる前のうめきの音をきいて安心する。愛情に包まれて生活してほしいと本心で願っている。自分は、自分の若いときの夢や欲求をすべて忘れてしまった。航空会社の乗員の一員として働きたかったのだろうか? それとも、デパートの店員として優秀なセールスを毎月、上げたかったのだろうか? だが、いまは家庭の主婦としてささいなやり繰りに励んでいた。
子どもを生んだわたしにもう興味がないようなふりをする。でも、たまにそういうこともある。わたしはふたり目について考える。ひとりで充分な気もする。弟や妹の面倒をみる英雄を見てみたいとも思う。自分の身体という宿はどれほどのものを生み出すのだろう。その与えられた機会を計算する時間も準備もわたしにはなかった。
毎日が同じ繰り返しでも飽きなかった。わたしは英雄を布でていねいにくるんでいっしょに買い物にいく。わたしは無言ではない。目に付く世界のすべての美しいものの名前を伝える。花があり、川があり、鮒がいて、橋の欄干で釣りをするおじさんがいた。酒屋で子どもの愛らしさをほめられ、八百屋でも同じ評判を勝ち取る。どちらかといえば、わたしに似ているそうだ。嬉しいことだが、わたしの欠点は受け継いでほしくない。時代も性別も変わるのだから、もっと立派な男性になるだろう。わたしは尊敬される職を得た英雄を予想する。だが、わたしの理解にこそ限界があった。哲学者がなにをするひとかも分からず、銀行員という狭い一室にいるひとの一日も知らなかった。単純に最愛の女性をけん命に愛してくれればいいのかもしれない。だが、男性には職業というものがとても大切な要素にもなるのだ。夫はその訓練に時間を注いでくれるだろうか。
ある日、英雄は床にすわっている。木のおもちゃを握っていた。腕力が強いのか、その棒で床を叩いていた。わたしは試しにラジオをかけてみる。音楽家にもなれるのだ。わたしは学生時代に歌をほめられたことを思い出している。ラジオの曲といっしょに歌ってみる。英雄は驚いたような顔をした。耳に入った音は、どう分析されるのか。英雄は自分の口をパクパクと動かした。
わたしは日記をつけることにする。その決断は遅かったのかもしれない。記入することは、きょうどんなことをして、どんな感情の揺れを表に出したかだ。水というものにびっくりしながらも、その清浄さを感じたこと。庭にあらわれたカエルをつかまえようとしたこと。はじめて口にしたことば。すっぱさや苦さの表情。小さな歯。髪の毛が切るまでに伸びたこと。
ずっとお腹のなかにいて外部の物事に対して免疫のない身体。具合が悪い日もある。わたしは最悪のことを考えてしまう。だが、数日後には以前より元気な状態になっている。ひとつ、悪を受容して許容する。潔癖では負けてしまう。適度な悪があったとしても、この世界で生きていかないといけない。
いつの間にか英雄は二本の足のみで立っている。わたしはびっくりした。むかし、農場でみた馬の出産の光景を思い浮かべた。あのときの少女だったわたしも感動したが、いまは比べられないほど身中に衝撃が走った。
それにしても感動も束の間で、油断し過ぎてしまった。それから数日後、英雄は突然倒れ、おでこをテーブルにぶつけてしまう。泣きじゃくり、小さなコブがひとつできた。わたしは泣く姿の子に不注意を謝り、夜こっそりとノートに記した。いずれ、わたしの目の届く範囲にいられなくなってしまう。せめても、この時代だけはわたしのすべてをかけて守りたかった。
夫は不機嫌のまま起きて、不機嫌のまま眠った。お酒臭い息が寝ている身体から発せられる。わたしは成功ということが分からなくなる。英雄は生まれなければいけなかった。このわたしの身体を通して、そして、この横で眠る夫の一部を借りて生まれなければならなかった。夜は暗く、朝までのわずかな安堵の時間をわたしは眠ろうと焦っていた。