最後の火花 76
進学する高校も決まって、柴田さんともお別れして、中学を卒業することになる。だが、間もなく柴田さんは妹を教えるために戻ったが、自分の試験とか就職とかで再度、別れてしまった。緊密という関係ではなくなってしまっても、なりたい女性像の一部をこれからも担ってくれるだろう。
友人たちは意中の相手の制服のボタンを確保していた。わたしは興味がなかった。身体から離れた物質はそのひとではない。しかし、この弁明も苦し紛れな気がする。わたしが好きだったひとのボタンはひとつものこっていなかった。
あの後、前を留めないまま胸を開いて帰ったのだろうか。わたしはどうでもよいことを心配している。ほとんどのひととは会わなくなる。三年間も同じ場所に決まった時間に閉じ込められていた間柄なのに。不思議なものだ。
わたしの部屋にはこれから通うことになる高校の制服がハンガーにかかっていた。ほぼ三年間をこの一着で過ごすのだ。不潔ではないだろうか。しばらくの間、予習も復習もなく、ゆっくりと本が読める。父はとなりの部屋でテンプテーションズのイッツ・グロウィングという曲をかけていた。ほのぼのとした音だ。マイ・ガールもかかる。誰かを温めるというのは素敵なことだ。自分もそういう平和をもたらすひとになりたかった。だが、最近、直ぐにイライラするようになってしまっている。注意が必要だ。
わたしはマラマッドという作家の短編集を開く。テンプテーションズと同じように気楽な気分になり、同時に別の世界に簡単に運んでくれる。あるひとは馴染みのない土地で執拗に声をかけられる。善意をふりまきたいという願望が人間にはあると思う。たまにないひともいる。この十五年ほどでも知ってしまったのだから、大人になればそれこそ無数にいるだろう。わたしはそうなりたくなかった。お婆さんに席をゆずり、子どもにもにっこりと微笑んであげる。
だが、執拗さが迷惑を運んでくる。段々と素っ気ないという過ちに入り込んでしまう。結論はこわい。大切なものがなくなってしまう。友人たちもボタンをずっと保管するのだろうか。ある日、それは大切であることを止めてしまうのだろうか。分からない。
「春なんだから、ちょっと表に出よう。本ばっかり、読んでいないで」
父に誘われるまま電車に乗って、美術館に入った。風景画がたくさん飾られている。もし、将来、すごく好きなひとができたら、この風景をそのひとにも見せてあげたいと思うのだろうか。共有するという態度は美しい。でも、甘いものも食べたくなっている。
父はコーヒーを飲んでいる。仕事から解放されてのんびりとした顔をしている。わたしの前にはパフェがある。長いスプーンですくうように食べているが、急に自分が子どもっぽく思えた。大人の女性はこういう場合、なにを頼むのだろうか。観察のため目立たぬようにキョロキョロする。コーヒーを飲み、静かにタバコを吸っている女性がいた。雑誌を読んでいるモデルのような細身の女性もいる。手帳になにかを書き込んでいるひともいた。大人しく文庫本を読んでいるメガネのひともいた。いったい、何を読んでいるのだろう。
「あんまりキョロキョロしていると恥ずかしいよ」と父はたしなめた。
「してないよ」わたしはスパイのように、探偵のようにばれないと判断していた。
「してるよ、おちびちゃん」
父はわたしをからかう。会社で頼りにする女性たちもいるのだろうか。秘書という計画と実行力にあふれた人々もいるだろう。わたしはそういうタイプになれないかもしれない。好奇心をまき散らして、ひとにも迷惑をかけるだろう。
父はデパートに入って、わたしの服を買ってくれた。父の理想とする娘とわたしの有るがままの存在の中間地点のような服だった。それは皮肉にすぎる意見だ。意外と気に入ってしまった。父はバッグをぶら提げて大股に歩く。わたしは知人に会わないことだけを願っている。
家に帰ると妹が自分の部屋で友だちと遊んでいた。にぎやかな声がする。わたしはトレイにジュースを載せて戸を開ける。みんなの視線が集まる。
「お姉さん、とってもきれいなんですね」
明朗そうな友だちの不意のひとことに面食らって、わたしははにかむ。
「みっちゃん、顔、赤いよ」と妹は余計なひとことを付け加える。
「やだな、からかって」わたしはすごすごと退散する。鏡に向かって笑顔をつくる。わたしという城塞は簡単に蹴破られる。水攻めも、兵糧攻めも必要ない。あっけなくお手上げだ。降参。無条件降伏。
またいつものように本に帰る。お見合いの名人のようなひとがいる。赤い糸というのも結局は、あみだくじのようなものだろう。引かないことには、選ばないことには何もはじまらない。スタートを切る。
妹の友だちたちは帰ったようだ。夕飯の食卓でさっきのやり取りを暴かれる。父も笑う。母は化粧を覚える時期の算段をする。お手伝いさんも、わたしの顔が美に傾いていることに同意した。妹は宿命のライバルのように自分の存在感をアピールした。
進学する高校も決まって、柴田さんともお別れして、中学を卒業することになる。だが、間もなく柴田さんは妹を教えるために戻ったが、自分の試験とか就職とかで再度、別れてしまった。緊密という関係ではなくなってしまっても、なりたい女性像の一部をこれからも担ってくれるだろう。
友人たちは意中の相手の制服のボタンを確保していた。わたしは興味がなかった。身体から離れた物質はそのひとではない。しかし、この弁明も苦し紛れな気がする。わたしが好きだったひとのボタンはひとつものこっていなかった。
あの後、前を留めないまま胸を開いて帰ったのだろうか。わたしはどうでもよいことを心配している。ほとんどのひととは会わなくなる。三年間も同じ場所に決まった時間に閉じ込められていた間柄なのに。不思議なものだ。
わたしの部屋にはこれから通うことになる高校の制服がハンガーにかかっていた。ほぼ三年間をこの一着で過ごすのだ。不潔ではないだろうか。しばらくの間、予習も復習もなく、ゆっくりと本が読める。父はとなりの部屋でテンプテーションズのイッツ・グロウィングという曲をかけていた。ほのぼのとした音だ。マイ・ガールもかかる。誰かを温めるというのは素敵なことだ。自分もそういう平和をもたらすひとになりたかった。だが、最近、直ぐにイライラするようになってしまっている。注意が必要だ。
わたしはマラマッドという作家の短編集を開く。テンプテーションズと同じように気楽な気分になり、同時に別の世界に簡単に運んでくれる。あるひとは馴染みのない土地で執拗に声をかけられる。善意をふりまきたいという願望が人間にはあると思う。たまにないひともいる。この十五年ほどでも知ってしまったのだから、大人になればそれこそ無数にいるだろう。わたしはそうなりたくなかった。お婆さんに席をゆずり、子どもにもにっこりと微笑んであげる。
だが、執拗さが迷惑を運んでくる。段々と素っ気ないという過ちに入り込んでしまう。結論はこわい。大切なものがなくなってしまう。友人たちもボタンをずっと保管するのだろうか。ある日、それは大切であることを止めてしまうのだろうか。分からない。
「春なんだから、ちょっと表に出よう。本ばっかり、読んでいないで」
父に誘われるまま電車に乗って、美術館に入った。風景画がたくさん飾られている。もし、将来、すごく好きなひとができたら、この風景をそのひとにも見せてあげたいと思うのだろうか。共有するという態度は美しい。でも、甘いものも食べたくなっている。
父はコーヒーを飲んでいる。仕事から解放されてのんびりとした顔をしている。わたしの前にはパフェがある。長いスプーンですくうように食べているが、急に自分が子どもっぽく思えた。大人の女性はこういう場合、なにを頼むのだろうか。観察のため目立たぬようにキョロキョロする。コーヒーを飲み、静かにタバコを吸っている女性がいた。雑誌を読んでいるモデルのような細身の女性もいる。手帳になにかを書き込んでいるひともいた。大人しく文庫本を読んでいるメガネのひともいた。いったい、何を読んでいるのだろう。
「あんまりキョロキョロしていると恥ずかしいよ」と父はたしなめた。
「してないよ」わたしはスパイのように、探偵のようにばれないと判断していた。
「してるよ、おちびちゃん」
父はわたしをからかう。会社で頼りにする女性たちもいるのだろうか。秘書という計画と実行力にあふれた人々もいるだろう。わたしはそういうタイプになれないかもしれない。好奇心をまき散らして、ひとにも迷惑をかけるだろう。
父はデパートに入って、わたしの服を買ってくれた。父の理想とする娘とわたしの有るがままの存在の中間地点のような服だった。それは皮肉にすぎる意見だ。意外と気に入ってしまった。父はバッグをぶら提げて大股に歩く。わたしは知人に会わないことだけを願っている。
家に帰ると妹が自分の部屋で友だちと遊んでいた。にぎやかな声がする。わたしはトレイにジュースを載せて戸を開ける。みんなの視線が集まる。
「お姉さん、とってもきれいなんですね」
明朗そうな友だちの不意のひとことに面食らって、わたしははにかむ。
「みっちゃん、顔、赤いよ」と妹は余計なひとことを付け加える。
「やだな、からかって」わたしはすごすごと退散する。鏡に向かって笑顔をつくる。わたしという城塞は簡単に蹴破られる。水攻めも、兵糧攻めも必要ない。あっけなくお手上げだ。降参。無条件降伏。
またいつものように本に帰る。お見合いの名人のようなひとがいる。赤い糸というのも結局は、あみだくじのようなものだろう。引かないことには、選ばないことには何もはじまらない。スタートを切る。
妹の友だちたちは帰ったようだ。夕飯の食卓でさっきのやり取りを暴かれる。父も笑う。母は化粧を覚える時期の算段をする。お手伝いさんも、わたしの顔が美に傾いていることに同意した。妹は宿命のライバルのように自分の存在感をアピールした。