最後の火花 82
母という役割だけでは物足りなくなってくる。まだ、二十代の若い女性なのだ。かといって子どもがひとりいて、他のライバルたちを蹴落とすほどの自信もない。究極の願望と自分に見合ったという妥協の一致点。
かれこれ夫が出ていってしまってから、四、五年は経っているのだろう。完全なる失踪ではない。居場所も知っている。だが、そこが夫の決めた新しい家なのだ。完全に。
小さな町なので、ほとんどのひとの顔と情報は知れ渡っている。夫に逃げられた女。健気にひとりで息子を育てている女性。その息子は賢いが夢見心地のような表情をしばしば浮かべる。わたしの大まかなタイプはこのようにして分類される。そのなかに見かけたことのない男性が登場する。
英雄がめったにないことだが率先してそのひとに話しかけていた。
「誰なの?」
「空き地で野球を見ているひと」
「教えてくれるの?」
英雄は否定の素振りで首を左右に振る。「うまいのか、どうかも分からないから」だが、わたしの質問によってその可能性があることも考えに入ったのだろう。わたしは野球を教えられない。これからも青年に向かう男の子のしたいこと、さまざまな欲求についての手持ちの札は少なかった。
わたしは往来で会うと会釈するぐらいの関係になった。野性的な表情だが、目の奥は優しく、かつ淋しげな眼をしていた。そのアンバランスさが魅力を減らすことなく、かえって増しているようだった。同時にひとのうわさを耳にする。公平になるほど判断に正確さを求めることもない。しかし、出てくるものは良いことがひとつもなかった。どこかでひとを不幸にした元凶であり、数年間はあの場所にも入っていたということだ。それでも、わたしの父が厳しく教えた方法でものごとや対象を見るしかない。父は無知とそれに準じた色眼鏡ということを嫌悪した。潔癖なまでに自分の判断を崇高な地位にまで高めた。それは傍から見れば傲慢にも映った。でも、止めないことは何があってもやめないのだ。わたしも接した情報で結論に導くことにしようと誓った。しかし、接することなど皆無に等しいのだが。
わたしは少ない生活費を補うため、短時間だが働いている。近くの会社の事務というよりもろもろの雑務を請け負っていた。どこかに支払があれば銀行に行ってお金を卸して別の会社へと支払に行った。その工場のひとつで山形という男性は働いていた。わたしはまじめに働いている姿を目にする。丁度、休憩になって工場を騒音まみれにしている機械はスイッチを切られ、束の間の静寂がおとずれた。わたしは通帳が入っているバッグをひざに置き、出された麦茶を飲んでいた。工員たちも思い思いの場所に腰かけ、配られる麦茶をひとりは名残惜しそうに、別のひとりは一気に飲み干したりしている。
わたしの目は山形という男性の汗まみれの身体を見る。筋肉には艶のようなものがあって、光沢もあった。前の夫は肉体を動かすことを好まなかった。わたしのこころは荒々しいものを望んでいるようだった。
わたしは用を済ませて会社に戻る。ノートにその日のお金の動きを書き込む。あとは新聞の集金人にお金を払い、事務室を掃除して自宅に帰った。
英雄はひとりで遊んでいる。父親は顔を見にわざわざ戻るという簡単なことすら念頭にないようだった。昆虫や鮭の生存や営みと何ら変わりのない父性の欠如を呪う。彼を引き連れ河原に行く。網で魚をすくう。わたしもサンダルを脱いで冷たい水に足を入れた。目の前に魚影はあるのになかなか網には入らなかった。わたしという存在と似ていると思う。ここに確かにいるのに、どの網もわたしの頭上を覆わなかった。
家に男性がいないと英雄の語彙や振る舞い方に影響が今後、出てしまうかもしれない。わたしは自分の淋しさについての言い訳ばかりを考えているようだ。必要としているのは英雄ではなく、紛れもなく自分のこころであった。こころという一部に限ったことではなく、身体全身でもある。ふたりは収穫もなく疲れて道をとぼとぼと歩く。すると仕事を終えた山形さんが遠くから大股で歩いてきた。
「きょうは、野球ではなく釣りか。釣れたのか?」
わたしの目を見ることもなく英雄にだけ向かって質問した。
「全然。今度いっしょにやって教えてよ」
「分かったけど、いいですか?」と、はじめてそこにいるのに気付いたかのようにわたしの方に視線を向けた。
「ええ、どうぞ、教えてあげてください。わたしだと、さっぱり」
彼は返事をせずに頬をくずして笑顔を浮かべた。悪いことをし尽くしたひとにも見えない。ただ子どもの面倒見も良い素敵な男性に思えた。わたしは周囲の目を意識する。狭い世界なのだ。独身の男性と捨てられた女性との交渉をおもしろおかしく話すかもしれない。それでも、英雄にはお手本となるべき、見本として間違った歩みをとどめる力を有した男性が必要だった。わたしは永続の話をしているのではない。つまようじのようなわずかな時間だけ生き延びることしか考慮にいれない物体の話をしているのだった。
母という役割だけでは物足りなくなってくる。まだ、二十代の若い女性なのだ。かといって子どもがひとりいて、他のライバルたちを蹴落とすほどの自信もない。究極の願望と自分に見合ったという妥協の一致点。
かれこれ夫が出ていってしまってから、四、五年は経っているのだろう。完全なる失踪ではない。居場所も知っている。だが、そこが夫の決めた新しい家なのだ。完全に。
小さな町なので、ほとんどのひとの顔と情報は知れ渡っている。夫に逃げられた女。健気にひとりで息子を育てている女性。その息子は賢いが夢見心地のような表情をしばしば浮かべる。わたしの大まかなタイプはこのようにして分類される。そのなかに見かけたことのない男性が登場する。
英雄がめったにないことだが率先してそのひとに話しかけていた。
「誰なの?」
「空き地で野球を見ているひと」
「教えてくれるの?」
英雄は否定の素振りで首を左右に振る。「うまいのか、どうかも分からないから」だが、わたしの質問によってその可能性があることも考えに入ったのだろう。わたしは野球を教えられない。これからも青年に向かう男の子のしたいこと、さまざまな欲求についての手持ちの札は少なかった。
わたしは往来で会うと会釈するぐらいの関係になった。野性的な表情だが、目の奥は優しく、かつ淋しげな眼をしていた。そのアンバランスさが魅力を減らすことなく、かえって増しているようだった。同時にひとのうわさを耳にする。公平になるほど判断に正確さを求めることもない。しかし、出てくるものは良いことがひとつもなかった。どこかでひとを不幸にした元凶であり、数年間はあの場所にも入っていたということだ。それでも、わたしの父が厳しく教えた方法でものごとや対象を見るしかない。父は無知とそれに準じた色眼鏡ということを嫌悪した。潔癖なまでに自分の判断を崇高な地位にまで高めた。それは傍から見れば傲慢にも映った。でも、止めないことは何があってもやめないのだ。わたしも接した情報で結論に導くことにしようと誓った。しかし、接することなど皆無に等しいのだが。
わたしは少ない生活費を補うため、短時間だが働いている。近くの会社の事務というよりもろもろの雑務を請け負っていた。どこかに支払があれば銀行に行ってお金を卸して別の会社へと支払に行った。その工場のひとつで山形という男性は働いていた。わたしはまじめに働いている姿を目にする。丁度、休憩になって工場を騒音まみれにしている機械はスイッチを切られ、束の間の静寂がおとずれた。わたしは通帳が入っているバッグをひざに置き、出された麦茶を飲んでいた。工員たちも思い思いの場所に腰かけ、配られる麦茶をひとりは名残惜しそうに、別のひとりは一気に飲み干したりしている。
わたしの目は山形という男性の汗まみれの身体を見る。筋肉には艶のようなものがあって、光沢もあった。前の夫は肉体を動かすことを好まなかった。わたしのこころは荒々しいものを望んでいるようだった。
わたしは用を済ませて会社に戻る。ノートにその日のお金の動きを書き込む。あとは新聞の集金人にお金を払い、事務室を掃除して自宅に帰った。
英雄はひとりで遊んでいる。父親は顔を見にわざわざ戻るという簡単なことすら念頭にないようだった。昆虫や鮭の生存や営みと何ら変わりのない父性の欠如を呪う。彼を引き連れ河原に行く。網で魚をすくう。わたしもサンダルを脱いで冷たい水に足を入れた。目の前に魚影はあるのになかなか網には入らなかった。わたしという存在と似ていると思う。ここに確かにいるのに、どの網もわたしの頭上を覆わなかった。
家に男性がいないと英雄の語彙や振る舞い方に影響が今後、出てしまうかもしれない。わたしは自分の淋しさについての言い訳ばかりを考えているようだ。必要としているのは英雄ではなく、紛れもなく自分のこころであった。こころという一部に限ったことではなく、身体全身でもある。ふたりは収穫もなく疲れて道をとぼとぼと歩く。すると仕事を終えた山形さんが遠くから大股で歩いてきた。
「きょうは、野球ではなく釣りか。釣れたのか?」
わたしの目を見ることもなく英雄にだけ向かって質問した。
「全然。今度いっしょにやって教えてよ」
「分かったけど、いいですか?」と、はじめてそこにいるのに気付いたかのようにわたしの方に視線を向けた。
「ええ、どうぞ、教えてあげてください。わたしだと、さっぱり」
彼は返事をせずに頬をくずして笑顔を浮かべた。悪いことをし尽くしたひとにも見えない。ただ子どもの面倒見も良い素敵な男性に思えた。わたしは周囲の目を意識する。狭い世界なのだ。独身の男性と捨てられた女性との交渉をおもしろおかしく話すかもしれない。それでも、英雄にはお手本となるべき、見本として間違った歩みをとどめる力を有した男性が必要だった。わたしは永続の話をしているのではない。つまようじのようなわずかな時間だけ生き延びることしか考慮にいれない物体の話をしているのだった。