爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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最後の火花 84

2015年06月24日 | 最後の火花
最後の火花 84

 息子とふたりきりで暮らしてきた生活を直ぐに忘れてしまった。新しい営みは実際の分量としてお米を買う量も食費も増えた。どこで聞きつけたのか分からないが、夫からのわずかばかりの送金もぴたっと止んだ。そういうところには抜かりのないひとだった。これで、息子を育てる面倒や厄介から解放されたとでも思っているのだろう。余分が省けたとでも。服の糸くずを払いのけるようにさっと。

「現金なひと」とわたしは言い捨てる。

 山形もそれほど緻密ではないが、もろもろの費用を管理下に置きたがるひとだった。節約を強いられる環境に長い間いたのだから仕方がない。急に気前よくなどなれない。それにそもそもその元手自体が互いになかった。

 愛とか情とかが、お金のやり繰りにある地点からとって変わる。夢見る高校生ではない。放課後に手をつないでときめく関係でもない。共同事業者みたいなものだ。しかし、生活に逼迫するほど余裕がないわけでもなく、大きすぎる贅沢さえしなければ毎月ぎりぎりだがなんとかなった。

 息子の等身大の能力など、母ひとりで把握できるものでもない。客観性が欠け落ちる。本当の父でも期待して過剰に力を加えたり、その面で押しつぶすまで手を留めないかもしれない。義理の父でもなく、血縁のない同居者ならばこそ正当な評価を見極められる可能性が生じた。

「ダメだよ、オレなんて。失敗例しかもっていないんだから」そう言いながらも言葉とは裏腹に彼は良い教育者であった。また同じ意味で素敵な遊び友だちになった。

 もし仮にわたしが急な大病で亡くなってしまった場合、英雄は山形といっしょに暮らしていけるのだろうか。男の子にとって最優先される性質はいったいどういうものだろう。愛想のよさでもない。気転の利くこと。要領がよいこと。寛容さ。融通があることなど。これが最高の性格だろうか。

 片や、不寛容。頑固。生真面目すぎる。だが、性質は親から受け継ぐのだ。わたしとあのひとの混合体に自分の経験を加味したものが英雄になるはずだった。高望みはできない。普通に聖人君子でもなく、悪魔でも餓鬼でもない。普通という絶対にない立場だからこそ普通という中間に絶対になりたいものでもあった。わたしたちは普通という場所に、もう英雄を置くことはできそうになかった。いびつ、とまでいかなくてもいくらかは歪んでいる。ある催しものの会場にあった身体を写して太ったり痩せたり見える鏡のことを思い出した。別の鏡は、身長が高くなったり縮んだりもした。正確な価値など、これと同じく自身で発見するのもまたむずかしい。

 常に子どものことばかり考えているわけでもない。自分の長い将来のこともある。一度、結婚に失敗した。そう稀なことでもないが、しばしばあることでもない。このような小さな町では異端者だ。山形も異端者だ。しかし、ふたりとも冷酷な対応はそれほどひどくされてこなかった。陰では分からないが、みんな、陰でのことなど心配し過ぎたら病気になる。すべてのひとが陰口の餌食になり、全員が陰でだけ、当人が居ないところだけで賞賛されるのだ。これが、人間の日々の生活の全部だった。

 わたしは自分の時間ももてるようになった。恩恵が何事にもある。男ふたりで運動をしたり、釣りに行ったり、買い物にも足繁く向かう。わたしは家で繕いものをしたり、ただ何も気にせずにラジオを聴いた。世の中には美しいメロディーを生み出す能力を有したひとがいて、それを喉で再現できるひとがいた。自分の可能性というものをどこで取りこぼしたのか、いまからでも探しに行きたかった。だが、そういう想像という自由は束の間だからありがたく、たくさんあったら持て余すだけだろう。

 晩御飯の仕度をしなければならない。ご飯をとぎ、水を調節する。男ふたりは腹を空かせているだろう。それが仕事なのだ。英雄にはもっともっと大きくなってもらわなければならない。健康が最大のプレゼントだ。わたしの頭のてっぺんには白髪が数本みつかる。若さと引き換えにひとはなにを貰えるのだろう。賢さ。地位。貯金。わたしはまだ何ももっていない。ひとりの男の子と。二番目の男性だけだった。

 庭に、軒下という方がより具体的だが七輪を準備して火を起こした。サンマを焼く。どこにいたのか分からないが猫が数匹寄ってくる。小さな猫がいる。生まれてからどれほど経っているのだろう。敵ばかりの世の中なのだろうか。ほかの誰かが余り物をくれるのだろうか。わたしは肥料にするための余分の小さな魚を遠くに放った。親子らしい猫は口にくわえて走って逃げた。

「サンマか」と英雄の声がする。

「今度は上手に骨が取れるかな?」と、山形が訊く。彼はそう言うと団扇をつかんで煙のまえで屈んだ。猫にも食事がある。人間もあたたかなものを口にする。愛おしき団欒。未来の栄光も過去の失敗も沈んだままの団欒。眠りこんだまま、浮かんでこないでかまわないからこの一夜を楽しいものにしてほしいと消えゆく煙の前で願っていた。ほんの数秒だったが目が沁みて、涙が滲みそうだった。


最後の火花 83

2015年06月24日 | 最後の火花
最後の火花 83

 こそこそと逢瀬を繰り返すのを許容するほど、この町は広くもなく寛容でもなかった。正々堂々ということが武器にもなり、自己防衛ともなった。ふたりの関係は知れ渡ってしまった。後悔は一切ない。なによりうれしいのは息子の英雄がなついてくれたことだ。オレはここで再出発をする。一度の過ちで将来のすべてを棒にふることもない。

 命を絶つことも考えていたが、ふたりがオレの希望になってくれた。希望とか望みの猶予や緩和を考えなければ一日だって生きられないことを、オレはこの場所で知った。弦もときには弛まなければいけない。女性のあたたかな身体がオレの体の芯の冷たい部分をほぐして癒してくれる。何気ない会話が、失われた人生を取り戻してくれる。ラウンドの一回でノックアウトされたボクサーのようなものだった。しかし、再試合は許されるのだ。オレは丁寧に最終ラウンドまで持ち応えるだろう。勝者にならなくてもよい。ドローぐらいで充分だ。それも高望みかもしれない。ギリギリ敗者になってもかまわない。僅差であれば。

 朝飯から家族がいるよろこび。オレは仕事にでかける。薄暗い煤けた部屋に帰らなくてもいいのだ。安物の焼酎で身体もあたまも痺れさせなくてもいい。麻痺や鈍麻は、もうオレにはいらない。目敏いとか鋭敏さも必要ではない。中庸という快楽。オレはやっと飼い主が見つかった犬のように安心して夜を迎えて目をつぶる。

 誰が女性をつくったのだろう。曲線で描かれた立体の美。オレは耽溺する。オレの手の平はなめらかさの何たるかを知る。接触できるものこそが実体なのだ。神も哲学と真理もなく、いま目の前にあるものが自分に有利に働いた。

 平時と変わらないつもりでいたが、オレは職場でいくらかだが陽気になったとうわさされる。給料が入れば小さなプレゼントを見つけるようになった。無駄遣いだと叱られるが、あいつはうれしそうだった。英雄もここの小さな玩具屋でお気に入りのものを見つける。オレの酒の量は減っていく。この快感を決して忘れたくなかったのだろう。

 自分の危険な要素はすべて消えてしまったようだ。過去の失敗がいまにつながっている。あの密室で過ごした年月こそ、いまの幸せをつくっている。自分の幸福を胸を張り、偉そうに威張って宣言することもないが、オレは日中、職場の騒音にまぎれながら、そのことを小さな声で呟いてみる。祈りにも似た気持ちで。

 毎日の積み重ねがこの複雑な関係の安定感を増すことになった。層や堆肥となって栄養を吸い取る。お互い同士が滋養の役割を果たす。オレはただこのことを待ち侘びて、手に入った瞬間から信奉しようとしていた。

 オレは子どもと遊ぶ能力があることをはじめて発見する。直ぐ同じ目線に立てるからだろう。自分が扱ってほしいというむかしの思いを再燃させた。キャッチボールをして、釣りに興じた。魚をさばき、河原で焼いた。そのひとつひとつがオレの思い出になり、同時に英雄の思い出にもなる。思い出というのは素晴らしいものだ。インデックスをつけて、その都度、取り出せるようになる。脳が損傷しない限り、自分の命とともに生き延びる。しかし、オレはひとりのその思い出のすべてを奪ってしまったのだ。英雄には、その代わりにならないかもしれないが、たくさんの記憶をもたらしてあげたい。

 蚊取り線香をつけて、縁側で月を見る。世界はある面では公平だった。永続性というのは満ちて欠ける行程だった。人間の永続性というのは、子どもが大人になり、大人が老人になることだった。その一日一日を手を抜かず、怠惰にならず、ときに休んで、病気を治療して暮らしていくのだ。オレは犯罪に選ばれてしまった。いまは反対に幸福を選んだ。大人になるのがすこし遅すぎたようだ。だが、いまからでも間に合う。英雄は寝込んでしまい、オレは布団に運んだ後、雨戸を閉めた。

 熱っぽい唇を感じる。目を開けても室内は真っ暗だ。濃密な闇。音と匂いと皮膚の感触。オレは仕事で疲れていたが、別の種類の疲労感を欲していた。それは疲労に達成と高揚が混ざり合ったものだ。夜中の攻防がまだ負担にならない。オレらは若かった。若さとは未来に保険をかけないことなのだろう。

 仕事では手当を増やしてくれるという提案がなされた。すべては筒抜けなのだ。オレは頭のなかで計算する。いくらにもならないが、当然、ないよりあった方が良いものだ。

 夕飯は七輪で焼いたサンマが並んだ。三匹が皿に並んでいる。英雄は青っぽい大根を擦っている。まだまだ頼りない力だが、大人になると誤った力の行使をしてしまう場合もあるのだ。このオレのように。オレは身体を拭き、食卓に向かう。幼少時にあの施設で唱えたことばをいま頃になって思い出している。二十年も前のことだろうか。ひとりでこころのなかを手探る。「天におります……」だが、オレは地面にいる。どん底も味わった。それでも、やめることも放棄することもなかった。ダウンしたが立ち上がった。戦う気力ものこっている。レフェリーのジャッジに公平さがあり、贔屓も、手加減もなければなんとかなりそうだった。オレは、「いただきます」と言って、同じ言葉の復唱を静かに聞いた。