最後の火花 84
息子とふたりきりで暮らしてきた生活を直ぐに忘れてしまった。新しい営みは実際の分量としてお米を買う量も食費も増えた。どこで聞きつけたのか分からないが、夫からのわずかばかりの送金もぴたっと止んだ。そういうところには抜かりのないひとだった。これで、息子を育てる面倒や厄介から解放されたとでも思っているのだろう。余分が省けたとでも。服の糸くずを払いのけるようにさっと。
「現金なひと」とわたしは言い捨てる。
山形もそれほど緻密ではないが、もろもろの費用を管理下に置きたがるひとだった。節約を強いられる環境に長い間いたのだから仕方がない。急に気前よくなどなれない。それにそもそもその元手自体が互いになかった。
愛とか情とかが、お金のやり繰りにある地点からとって変わる。夢見る高校生ではない。放課後に手をつないでときめく関係でもない。共同事業者みたいなものだ。しかし、生活に逼迫するほど余裕がないわけでもなく、大きすぎる贅沢さえしなければ毎月ぎりぎりだがなんとかなった。
息子の等身大の能力など、母ひとりで把握できるものでもない。客観性が欠け落ちる。本当の父でも期待して過剰に力を加えたり、その面で押しつぶすまで手を留めないかもしれない。義理の父でもなく、血縁のない同居者ならばこそ正当な評価を見極められる可能性が生じた。
「ダメだよ、オレなんて。失敗例しかもっていないんだから」そう言いながらも言葉とは裏腹に彼は良い教育者であった。また同じ意味で素敵な遊び友だちになった。
もし仮にわたしが急な大病で亡くなってしまった場合、英雄は山形といっしょに暮らしていけるのだろうか。男の子にとって最優先される性質はいったいどういうものだろう。愛想のよさでもない。気転の利くこと。要領がよいこと。寛容さ。融通があることなど。これが最高の性格だろうか。
片や、不寛容。頑固。生真面目すぎる。だが、性質は親から受け継ぐのだ。わたしとあのひとの混合体に自分の経験を加味したものが英雄になるはずだった。高望みはできない。普通に聖人君子でもなく、悪魔でも餓鬼でもない。普通という絶対にない立場だからこそ普通という中間に絶対になりたいものでもあった。わたしたちは普通という場所に、もう英雄を置くことはできそうになかった。いびつ、とまでいかなくてもいくらかは歪んでいる。ある催しものの会場にあった身体を写して太ったり痩せたり見える鏡のことを思い出した。別の鏡は、身長が高くなったり縮んだりもした。正確な価値など、これと同じく自身で発見するのもまたむずかしい。
常に子どものことばかり考えているわけでもない。自分の長い将来のこともある。一度、結婚に失敗した。そう稀なことでもないが、しばしばあることでもない。このような小さな町では異端者だ。山形も異端者だ。しかし、ふたりとも冷酷な対応はそれほどひどくされてこなかった。陰では分からないが、みんな、陰でのことなど心配し過ぎたら病気になる。すべてのひとが陰口の餌食になり、全員が陰でだけ、当人が居ないところだけで賞賛されるのだ。これが、人間の日々の生活の全部だった。
わたしは自分の時間ももてるようになった。恩恵が何事にもある。男ふたりで運動をしたり、釣りに行ったり、買い物にも足繁く向かう。わたしは家で繕いものをしたり、ただ何も気にせずにラジオを聴いた。世の中には美しいメロディーを生み出す能力を有したひとがいて、それを喉で再現できるひとがいた。自分の可能性というものをどこで取りこぼしたのか、いまからでも探しに行きたかった。だが、そういう想像という自由は束の間だからありがたく、たくさんあったら持て余すだけだろう。
晩御飯の仕度をしなければならない。ご飯をとぎ、水を調節する。男ふたりは腹を空かせているだろう。それが仕事なのだ。英雄にはもっともっと大きくなってもらわなければならない。健康が最大のプレゼントだ。わたしの頭のてっぺんには白髪が数本みつかる。若さと引き換えにひとはなにを貰えるのだろう。賢さ。地位。貯金。わたしはまだ何ももっていない。ひとりの男の子と。二番目の男性だけだった。
庭に、軒下という方がより具体的だが七輪を準備して火を起こした。サンマを焼く。どこにいたのか分からないが猫が数匹寄ってくる。小さな猫がいる。生まれてからどれほど経っているのだろう。敵ばかりの世の中なのだろうか。ほかの誰かが余り物をくれるのだろうか。わたしは肥料にするための余分の小さな魚を遠くに放った。親子らしい猫は口にくわえて走って逃げた。
「サンマか」と英雄の声がする。
「今度は上手に骨が取れるかな?」と、山形が訊く。彼はそう言うと団扇をつかんで煙のまえで屈んだ。猫にも食事がある。人間もあたたかなものを口にする。愛おしき団欒。未来の栄光も過去の失敗も沈んだままの団欒。眠りこんだまま、浮かんでこないでかまわないからこの一夜を楽しいものにしてほしいと消えゆく煙の前で願っていた。ほんの数秒だったが目が沁みて、涙が滲みそうだった。
息子とふたりきりで暮らしてきた生活を直ぐに忘れてしまった。新しい営みは実際の分量としてお米を買う量も食費も増えた。どこで聞きつけたのか分からないが、夫からのわずかばかりの送金もぴたっと止んだ。そういうところには抜かりのないひとだった。これで、息子を育てる面倒や厄介から解放されたとでも思っているのだろう。余分が省けたとでも。服の糸くずを払いのけるようにさっと。
「現金なひと」とわたしは言い捨てる。
山形もそれほど緻密ではないが、もろもろの費用を管理下に置きたがるひとだった。節約を強いられる環境に長い間いたのだから仕方がない。急に気前よくなどなれない。それにそもそもその元手自体が互いになかった。
愛とか情とかが、お金のやり繰りにある地点からとって変わる。夢見る高校生ではない。放課後に手をつないでときめく関係でもない。共同事業者みたいなものだ。しかし、生活に逼迫するほど余裕がないわけでもなく、大きすぎる贅沢さえしなければ毎月ぎりぎりだがなんとかなった。
息子の等身大の能力など、母ひとりで把握できるものでもない。客観性が欠け落ちる。本当の父でも期待して過剰に力を加えたり、その面で押しつぶすまで手を留めないかもしれない。義理の父でもなく、血縁のない同居者ならばこそ正当な評価を見極められる可能性が生じた。
「ダメだよ、オレなんて。失敗例しかもっていないんだから」そう言いながらも言葉とは裏腹に彼は良い教育者であった。また同じ意味で素敵な遊び友だちになった。
もし仮にわたしが急な大病で亡くなってしまった場合、英雄は山形といっしょに暮らしていけるのだろうか。男の子にとって最優先される性質はいったいどういうものだろう。愛想のよさでもない。気転の利くこと。要領がよいこと。寛容さ。融通があることなど。これが最高の性格だろうか。
片や、不寛容。頑固。生真面目すぎる。だが、性質は親から受け継ぐのだ。わたしとあのひとの混合体に自分の経験を加味したものが英雄になるはずだった。高望みはできない。普通に聖人君子でもなく、悪魔でも餓鬼でもない。普通という絶対にない立場だからこそ普通という中間に絶対になりたいものでもあった。わたしたちは普通という場所に、もう英雄を置くことはできそうになかった。いびつ、とまでいかなくてもいくらかは歪んでいる。ある催しものの会場にあった身体を写して太ったり痩せたり見える鏡のことを思い出した。別の鏡は、身長が高くなったり縮んだりもした。正確な価値など、これと同じく自身で発見するのもまたむずかしい。
常に子どものことばかり考えているわけでもない。自分の長い将来のこともある。一度、結婚に失敗した。そう稀なことでもないが、しばしばあることでもない。このような小さな町では異端者だ。山形も異端者だ。しかし、ふたりとも冷酷な対応はそれほどひどくされてこなかった。陰では分からないが、みんな、陰でのことなど心配し過ぎたら病気になる。すべてのひとが陰口の餌食になり、全員が陰でだけ、当人が居ないところだけで賞賛されるのだ。これが、人間の日々の生活の全部だった。
わたしは自分の時間ももてるようになった。恩恵が何事にもある。男ふたりで運動をしたり、釣りに行ったり、買い物にも足繁く向かう。わたしは家で繕いものをしたり、ただ何も気にせずにラジオを聴いた。世の中には美しいメロディーを生み出す能力を有したひとがいて、それを喉で再現できるひとがいた。自分の可能性というものをどこで取りこぼしたのか、いまからでも探しに行きたかった。だが、そういう想像という自由は束の間だからありがたく、たくさんあったら持て余すだけだろう。
晩御飯の仕度をしなければならない。ご飯をとぎ、水を調節する。男ふたりは腹を空かせているだろう。それが仕事なのだ。英雄にはもっともっと大きくなってもらわなければならない。健康が最大のプレゼントだ。わたしの頭のてっぺんには白髪が数本みつかる。若さと引き換えにひとはなにを貰えるのだろう。賢さ。地位。貯金。わたしはまだ何ももっていない。ひとりの男の子と。二番目の男性だけだった。
庭に、軒下という方がより具体的だが七輪を準備して火を起こした。サンマを焼く。どこにいたのか分からないが猫が数匹寄ってくる。小さな猫がいる。生まれてからどれほど経っているのだろう。敵ばかりの世の中なのだろうか。ほかの誰かが余り物をくれるのだろうか。わたしは肥料にするための余分の小さな魚を遠くに放った。親子らしい猫は口にくわえて走って逃げた。
「サンマか」と英雄の声がする。
「今度は上手に骨が取れるかな?」と、山形が訊く。彼はそう言うと団扇をつかんで煙のまえで屈んだ。猫にも食事がある。人間もあたたかなものを口にする。愛おしき団欒。未来の栄光も過去の失敗も沈んだままの団欒。眠りこんだまま、浮かんでこないでかまわないからこの一夜を楽しいものにしてほしいと消えゆく煙の前で願っていた。ほんの数秒だったが目が沁みて、涙が滲みそうだった。