爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

最後の火花 72

2015年06月08日 | 最後の火花
最後の火花 72

 好きになった同級生はお似合いの子と別れてしまったが、それぞれが直ぐに別のひとと交際をはじめた。箸にも棒にもかからない、という辞書の文字をわたしはじっと見つめる。

「ドラフト制みたいね」と家庭教師の柴田さんはいつものように野球のことで例えた。「人気がある子は複数球団が名乗りを上げる」

「ない子は?」
「名スカウトに頼るしかない。光子ちゃんの良さを発掘するスカウトだっているのよ」と言って肩を優しく叩いた。「いまの若さに追いつかないだけで、大人になったらとっても美人になる顔だよ」
「そんなのあるの?」
「あるのよ。ピークは後でやって来た方がいいでしょ。さ、勉強」

 柴田さんは才色兼備であった。男性ならば文武両道。相手のこころは紆余曲折。わたしは漢字の問題を取り上げていた。アルファベットの文字に比べると、ほぼ無数にあるように思える。憶えるのが大変だ。だが、英語の単語もそれほど覚えられない。組み合わせは無数で、脳には限りがあった。時間も限りがあって、柴田さんはその一部を割いて、わたしに教えてくれていた。

 勉強が終わって無駄話の時間になる。

「良い匂いが下からしている」と言って柴田さんは鼻を動かす素振りをする。その様子がとても可愛い。餌を見つけたリスのようだ。「そうそう大人になるって、随分とふるいにかけられる過程なんだよ。選抜の連続。でも、忘れちゃいけないのが捨てる神もいて、拾う神もいるってこと」柴田さんは基本的に楽観的なひとなのだ。そういうタイプの常としてよく笑う。

 わたしはひとりになって本を開く。ずっと選ばれないことと戦うひとびと。「日陰者ジュード」ガッツということが自分には分からないのかもしれないが、どうしても応援したくなる。ひとは目標が芽生えたり、自分がすることを内なるなにかに設定されてしまう場合がある。もうどうやっても逃れられなくなる。だが、低みへと低みへと戻るように足を引っ張られる。けん命に逃げ出そうと努力するが、ぬかるみで足を踏ん張ってしまえば、さらに足をからみ取られるのだ。そういう内容の本だった。

 もうライバルもいない。自分が設定した位置にたどりつくことだけが願いとなる。

 わたしも基本的に楽観さを手に入れようと空想してみる。弁護士になれるのは数百人もいるのだろう。望んだ学校に通えるのもひとりではない。何人もの同級生ができるのだから、数百人は受かる。しかし、落ちるひともいる。ふるいにかけられるのだ。特別な場合をのぞいて恋人もひとりだった。長女もひとり。同時に、日本には長女が無数にいる。わたしの頭は混乱する。考え自体が手に負えなくなったのでランプを消して寝ることにする。

 関心をもたないようにしても翌日、ふたりが話している姿を見て気になった。動揺もしている。だが、前の女性は気にもしていないようだった。過去のふたりは直ぐに友人になってしまったようだった。別れたら契約が物別れになったケースと同様に、素っ気なさが求められないのだろうか。素人でありつづけるわたしは空想に頼るしかない。気の合う友人と、その案件を頼まれてもいないのに俎上に持ち出して勝手に煩悶をしていた。

 ハッピー・エンドが生じない物語をせっせと読んでいる。幸福になれないことを知っていながら、なぜ、わたしはこの本を読んでいるのだろう。苦みが分かってこその大人でもある。つまりは、そのことを実生活より前に本によって試しているのか。コーヒーをたしなみ、らっきょうを食べて、お魚の内臓を食べる。山菜を食べて、塩辛をつまむ。だが、甘味こそが最大の勢力ではないのだろうか。ケーキ。チョコレート。シュークリーム。

 甘いことば。やさしい眼差し。自分にも向けてくれる誰かができるかもしれない。わたしは鏡に自分の顔を写す。柴田さんみたいに鼻を動かしてみる。だが、とても不可能だった。唇のはしが歪み、意地悪そうな顔になる。今度は耳を動かしてみる。隠れた特技だった。もう自慢してひとに見せることなどしない。そうした特技があったことをも自分自身で忘れていた。

 また夕方になって柴田さんに教わっている。勉強も終わって夕飯を食べる。

「もし仮に、好きなひとと別れて、再会するときにどういう気持ちになるの?」
「いまから心配するのは、早過ぎない?」
「一般論として」
「それこそ、千差万別だよ。憎み合うこともあるし、興味を失うことだってあるし、友人として新たな段階に入るひともいるし、元に戻ろうという力に負けるひとだっている」
「柴田さんは?」

「そんなに経験は多くないけど、過ぎたことは過ぎたことという簡単な法則。水たまりは太陽が照れば、干上がっちゃうからね」

 柴田さんはそう言ってからひとりで嬉しそうに笑った。もともとが楽天的な性格なのだ。心配とか、じくじくとか湿度の多そうなことが体内にないのだ。わたしはそう簡単にいかなそうな気がする。子ども時代になくした手袋のことをいつまでも悔やんでいた。恋人は手袋以上に大切だろう。手袋以上に温かく、親身なものなのだろう。ほんとうは何も知らないのだが。苦みと同じように。


フランスパン(バケット)でサンドウィッチ

2015年06月08日 | Weblog
フランスパン(バケット)でサンドウィッチ

パリの最後の日。同行者も自分も節約という観点がなかった。

大いに食べ、大いに飲む。

雨に降られ、美術館をいくつも回った。

モナリサを眺め、ベルト・モリゾを見つめる。

それらの楽しみも終わり。あとはホテルに戻って、荷物をぶらさげ空港に向かうだけ。仁川を経由して、なぜここに、という成田エアポートへ。

「もう一本ぐらい飲んでおきます?」ということは赤ワイン。

ホテルの場所は中心から外れた、ちょっと下町っぽいところ。

店に入る。店主は若々しく見える。祖父がいて、男の子がいる。店の立ち位置がいまいち分からないが、近所のひとたちがちょっとたむろするような定食屋とバルの中間のような場所だった。

つむじ辺りを隠すような小さな帽子をかぶっている。

だが、自分にとってすべては異人さん。

ショーケースを覗く。

鶏肉がある。フランスパンもある。

赤ワインで喉を潤し、これを頬張ったらという近い未来を予測して、頼んでみる。

「これ挟んで、サンドイッチみたいにできる?」メニューらしきものがない。見ていないのかもしれない。そういう調理法をベースにした店づくりなのかが具体的に分からないが、取り敢えずは交渉の世界である。

気楽にうけたまわってくれる。

真ん中を切り裂き、パプリカのようなものも入れ、ちょっと表面を焼いて、適度な大きさに切ってくれる。

満点。

白身魚のソテーに白ワインも旨かったし、ビーフ・シチューも絶品だったが、なんだか最終的にこれだった。

気取らない生活。気取らない人々。

いろいろお店にやってくる。

常連らしき、近くの学校の新米先生のようなタイプがにこやかに微笑む。(薄れた記憶の美化傾向により、瀬戸内海の夏目雅子さんと化している)

排他的なものは一切、なかった。

お金を払って、ホテルまで歩く。

この瞬間がいつも悲しい。

またオフィスでPCに向かう生活と再対面になるのだ。

バスは揺れ、飛行機も揺れる。機内食のクオリティーにげんなりして、映画を見る。

仁川でシャンプー・セットのようなものを買って、待ち時間にシャワーを浴びる。剃らなかった髭は一週間ほどで、むさ苦しくボウボウになっている。

成田から自宅まで。

すべてを記憶しておいて、すべてを忘れてしまうだろうというシーソーに乗っている。

時間が経って、2015年のいまである。

ネット上の地図は便利であり、危険でもある。なんとなくあの店を探す。ここかな、という見当をつけるが、あの日に簡単に戻れるわけでもない。

そして、排他的なニュースを見守る。

ボルドーを紹介する映画を見て、予想と反して、現在の市場を買い占めているのは中国の富裕層であり、その儲けのひとつの稼業は大人のトイザラス(パートのおばさんが無表情で組み立てている)であることを知り、文化もなにもなく、げんなりとしてしまった一夜のことを追記する。


ムーブメントを記録する異国人

2015年06月06日 | Weblog
ムーブメントを記録する異国人

交換可能ならば、自分は誰になりたいのか?

即座に否定して、自分がやっぱりいちばんだな、と湯ぶねに浸かりしみじみ考える。今更ね。

気難しい顔。ひねくれた性格。ひりひりとした緊張感を愛好する。窮鼠猫を噛むを実践する主義だとしても。

そんなんでも、自分がいちばん。

しかし、このひとなら充分変わる価値があるというひともいる。

ドイツを離れる。船に乗って。貿易の仕事の傍ら、ニューヨークでレコード会社をつくる。

ジャズは変遷する。良いものと悪いものとの差が分かる。黒人音楽を愛好する。

ロックは68、9年が全盛でジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、スライ、ファンク、グッド・ヴァイブレーションズがあって、その後、消える。

ジャズのピークはその10年前辺り。真っ黒な音楽が記録される。

ブルーノート・レーベル。

その当事者のアルフレッド・ライオンになりたい。

生々しい音楽をレコードではなく聴ける。

途中で辞めてしまった演奏もあったかもしれない。

リハーサルにもギャラを出したとも言われている。

友人もやってくる。カメラマンとしての技術があり、自分のデザインを発揮する才能あるひとも加わって、レコード・ジャケットもアートになる。

すると、録音技師がいちばんなのかなとも考えられる。

リバーサイドやプレステッジの演奏も生で余分に聴ける。

だが、どのグループにするかチョイスして、誰をメンバーに選ぶか、その妙も楽しそうだ。

それも上手かったのがブルーノート。

後年、倉庫にある膨大な録音を発掘するマイケル・カスクーナというひとも登場する。ジャズ界のシュリーマン。古代への情熱。

その恩恵を自分も受ける。

販売と未発表にした差がそれほどない。別バージョンも聴ける。

衰える部分も機能もあるが、耳だけはなんとか持ち応えている。

低音を愛好する。オスカー・ピーターソンがブルーノートで録ったら、どうなっていたのだろう。趣味ではないのかもしれない。

自分も本末転倒でレイ・ブラウンのがっちりとした音を聴くために彼の音をかける。

ブルー・ミッチエル、ジーン・アモンズ、グラント・グリーン、トミー・フラナガン、ジョージ・タッカー、几帳面で哲学のないアート・テイラーというメンバーを集めてブルーノートで録音してくれてたらな、とも思う。黒いけど、ひとりピアノだけが可憐にまとめてくれる。

いまは、900円ほどでネットで買える。

月々、1,000円ぐらいで世界の音楽が聴き放題というプランもサイトもある。

しかし、あの時代のあの音楽と熱気をそのままで聴ける術がない。

トランペットのつばきがかかるぐらいの近距離で。

いくらお金を積んでも、できないものはできない。

そして、自分の着ぐるみも脱げないのであった。

湯で、その皮膜を一部、取り去るのみが限度であった。


ラクリマ・クリスティ

2015年06月03日 | Weblog
ラクリマ・クリスティ

いつ、人見知りという鉄壁の要塞を跳び越えて、あるいは最高の防寒具を脱ぎ捨ててしまったのだろう?

短い連休をむりやりつくりツアー旅行の一員になる。

ローマにいた。男性が三人であった。

ふたりは別行動をして、ぼくはポンペイという埋もれた街のオプションに参加するため、同じホテルの新婚さんと、さらに出発地のホテルのロビーに向かうため、タクシーに乗っている。

寡黙とか物静かということが許されない環境である。

お荷物になってしまう。まあ、過剰に自意識過剰なのだが。

ほぼ他人に等しい新婚さんはタクシーの後部座席。独り身はドライバー横の助手席へ。

ローマではじめてシート・ベルトをつかった人間かもしれない。

「乱暴な運転だな!」とこころのなかで思いながらも無言のまま身体は左右に揺られている。それでも、ローマの早朝の街並みは驚くほどきれいだった。すこぶる、アメージングとか形容詞を順番に頭にうかべる。

バスに揺られ、南下する。ナポリに寄って海をバックの坂道で写真を撮る。新婚さんの美人妻ともパチリであった。後々、このときの写真を郵送し合う間柄も構築したが、それ以降の関係性を深めることをためらった。

いろいろ、がんじがらめの世の中である。

ポンペイに向かう前だと思うがランチになった。三人でテーブルを囲むといういびつな関係である。

夫も痩せ型で姿よろしく、その常でガッツクという無様な振る舞いをしたこともなさそうだった。

せっかく輪に入れてもらったのだから、それなりに会話でサービスをしようと決める。

お道化、幇間。

やれば、できるものだった。

そして、ワインはラクリマ・クリスティというその辺りでは定番のものを頼んだ。

このときの会話が楽しかったので(もちろん、お世辞分を差し引く覚悟)、また東京でも会いましょうという手紙が写真に同封されていた。住所は練馬だった。

どのぐらいの割合でひとびとは離婚をするのかも分からないが、初々しいふたりはとてもお似合いだったので、あのままずっとつづいてくれたらいいなと願う。

ひとり、おじさんは誰かの涙を飲む。

ローマの駅前で別れ、ふたりはおそらく夜のオプションに向かい、自分は止まってしまった地下鉄に戸惑うのだった。

だが、なんとか帰って、また男性三人で夕飯を食べることになりました。

途中、「タクシーひろってあげようか?」との親切な兄さんとも会う。

その善意の行為もむなしく、混雑した道路は空きのタクシーなどない。少しすると、電車はゆるゆると再開したようでもあった。

自分はイタリア語などには無頓着だが、どうにかこうにかやっているみたいだ。

こうしたツアーの連続で、人見知りも消えたように思う。

最近は初対面のひとに会うたびに、「人見知りでちゃうんだけど……」と言うが、自分自身で信じられなくなっている。コルクを抜いたワインと同じで、もうフタは戻らないのだった。


かわはぎ

2015年06月02日 | Weblog
かわはぎ

クラシック音楽を聴いた。作曲者の名前も思い出せない。自分が高等な人間になった気がする。そのメッキは限りなく薄く、剥がれやすいことは当人がいちばんよく知っている。

夕方の入口。

酒場に向かう。例えば、ひとりで入ったときの店員の接する態度を偏差値50と仮定する。失礼でもなく、王子様でもない。ここが普通。突っけんどんでもなければ、うやうやしさもない。

ふたりで入る。あれ? 対応悪くないという場合もある。偏差値が下がる。ところで、この日にいっしょに行った女性といると、なかなか丁寧な対応をされる。特別な何かがあるわけでもないが、特別、何かが足りないとも思えない。

自分といっしょにいるぐらいだから金銭目当てでもない。ただ、いっしょにお酒を飲んで旨いつまみでも喰いたいだけ。

ある店は夕方なのに、もう満員。こうなるリスクをあまり考えてもいない。王子と王女でもないので歩いて別の店を探すことにする。

味覚も似ている。好物も似ている。

間もなく、能登料理という看板があった。それほどの繁盛店とも思えないが、ここにしようと決める。

飲み物を頼み、料理を考える。

男性の主らしきひとは、テーブルの横で愛想よくお勧めを声で並べる。

現地から空輸しているとのこと。かわはぎがあるともいった。味が想像つかない。ではということで頼んでみた。

大きな円い皿に切り身が盛られる。淡泊そうな色合い。

真ん中に肝が入った小皿もある。淡泊そうな切り身をこれにつけて食せとのご指示。

やってみる。

一気に濃厚な味になる。試しに切り身だけだと、やはり淡泊。

結果、はずれではなかった。さっきの店に断られて良かった。

他の刺身も注文する。しかし、あの濃厚な味を知ってしまうと、すべてが物足りなくなる。すべて、いったん肝にバウンドさせる。すべて、おいしい。チキン・ナゲットのソースともいえる。上品な例えではなくなる。

いろいろな店で日本酒を飲む。チョコの日に黒ビールをプレゼントしてくれた。

そして、そのうちに会わなくなる。

やり残したこともあるような気もするし、やり直したいともまったく思っていない。

花火の夜に青い浴衣をきていた。その後、飲みに行く。可愛い店員は自分が働いていることを呪うような口調で、「わたしも花火を見に行きたいな」と言った。

自分は恵まれていたのかもしれない。その割に、別の華やかな人生を、手に入らないアナザー・ライフを求めていた。肝の濃厚さにも似た。


最後の火花 71

2015年06月02日 | 最後の火花
最後の火花 71

 彼の家にいる。今日で二回目だ。室内で動ける範囲が限定されていて、勝手に冷蔵庫のなかのもので料理をつくったり、コーヒーを入れたりもできない。まだまだお客さんだ。自分はこういった過程をどうやり繰りしていたのか急に分からなくなった。

「どうぞ」目の前にコーヒーが運ばれる。コーヒーは匂いが八割方を占める。味はあとの二割。どちらも合格点だった。

「おいしいね」
「ありがとう」
 彼は寡黙なひとだった。その状態が多少の緊張を生む。本を読むひとにしてはそれほど本がない。
「家にあまり本を置かないの、気に入ったものでも?」
「なるべくなら身軽でいたい」その言葉通り、家財道具も多くなかった。
「理由があって?」

「ただ、なんとなく」わたしはその後につづくことばを期待するが、なにも出てこなかった。
「お父さん、いっぱいレコードとか貯めているから、男性ってコレクションが好きなのかと思っていた」
「うらやましいな」またピリオド。わたしはぼんやりと窓のそとを見る。なにか得意料理をつくってあげたいとも思う。
「食べ物、何が好き? 大体のものつくれるよ」
「そうなんだ、どうして?」

 わたしは説明する。母はおそらく一回も包丁を握っていないかもしれないこと。お手伝いさんがいつもいたこと。自分はそうなることを恐れ、学校時代の友だちのお母さんの小さな料理屋で習ったことなどを。

「偉いんだね」
「そうでもないけど、できる?」わたしはできないことを前提に訊いている。無骨で寡黙な男性の正確なる証明のように。
「それなりにできるよ、当番があったから」
「当番?」

 彼は言い難そうだが口を開く。絶縁状になっても構わないように。「親がいなかったから、施設にいた。そこが当番制なのでじゃがいもを剥いたり、ニンジンを切ったり、シチューやカレーの味付けをしたり」

 わたしは目を丸くする。急に自分がロマノフ王朝のお姫様のように感じる。
「好きになった?」
「仕事だから」
「じゃあ、思い出の味をわたしが作ってあげようか?」わたしはお茶らけ気味に言う。だが、返事は直ぐにでてこない。
「やっぱり、いいよ。どこか、外で食べよう。お腹、空いた?」

 わたしはただ頷く。葬れない過去があるひとたちがいることを知った。

 手をつないで外を歩く。身分の差という本の情報のストックを頭のなかにひろげる。黒人の青年が白人の女性とセロニアス・モンクのライブに行くという話があった。結局、その後別れてしまったはずだ。題名を思い出せない。父はそのピアニストが好きだった。だが、それをレコード・プレーヤーに載せるたびに母と妹は不愉快な顔をした。わたしは聴き入る。そうだ、「ハーレムに生まれて」だ。名作。家に帰って、再読しなければ。

 小さなレストランに入る。彼はハンバーグを頼み、わたしはシチューにこだわった。絶対にわたしのものを食べさせなければいけない。上手なのだ。うならせないといけない。しかし、意気込みもむなしく、このお店のビーフ・シチューは絶品だった。感動する。

「とても、おいしいよ」わたしはスプーンに肉片を載せて彼の口元に寄せた。彼は恥ずかしそうにしながらも食べる。
「ほんとうだ」
「これより、いくぶん劣るかもしれないけど、わたしのも上手だよ」
「じゃあ、今度、作ってもらうよ。食べさせてもらうよ」

 彼の部屋に戻る。打ち解ける過程。なれなれしさと親しさの中間。わたしは帰りに買ったケーキのためのスプーンを探そうとあたりをつけて引き出しを開けた。すると、なかに写真があった。古い写真だった。セピア色というきれいな表現ではなく、黄ばんでいると表現した方が正しいのかもしれない。わたしは、びっくりする。写っている女性はわたしにとても似ているのだ。

「これ、誰?」
「あ、お母さん。母親だよ」
「いまは?」
「いない」
「どうしたの?」
「いろいろあった。光子さんに似ているだろ」

「知ってた?」
「知ってた?」
「似ていること?」
「もちろん、あの本の店から」
「じゃあ、こっそりと見てた?」
「こっそりでもないよ。直ぐにコーヒーがひっくり返ったから」

 わたしは運命という甘美なことを考えている。でも、いったんそのことについては忘れ、となりの引き出しからスプーンとフォークを出した。わたしたちは甘くなった唇を寄せる。わたしの頭は冷静だった。わたしは彼の母と似ているのかもしれない。それは彼にとってどういうことなのだろう。わたしにとっては間違った、躊躇すべき事柄なのだろうか。だが、歯車がまわってしまったわたしは簡単に無視する。狭い部屋の狭いベッドの上で身悶えする。

 ふたりで天井を見上げている。木の節の模様が不思議な形状をしていた。どこかの旅館で妹と騒いだ記憶がよみがえってきた。彼はその頃、どこにいたのだろう。

「彼女って、いつからいないの?」
「数年前だよ、多分。もう思い出せない」
「じゃあ、きょうで打ち切りだ」
「え?」

「明日からはわたしが彼女と宣言してもいいから」
「誰に?」
「誰にでも」
「気が早くない?」
「そんな気なかった? 迷惑になる?」
「ならないよ」彼は電気をつけてTシャツを着た。これはわたしからの視点。一方的な視点。


サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会

2015年06月01日 | Weblog
悪いことをしたなと思っている。

ただ、歩かせ過ぎてしまった一件についてだけである。

ローマ3泊5日とかいう無謀なプランである。

基本、無駄に歩けるので、そう広い町でもないから、こことここは歩いてしまおう、という簡単な解決策。

同行者にも有無を言わせない。

普通に能天気に、「真実の口」にも手を突っ込む。

お前の気持ちは、どうなんだと問われれば、手がのこっていることを証明の事実とするしかない。

サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会には、ミケランジェロ作の「モーセ像」がある。

関係ないが、フクロウとミミズクの差は、尖った部分があるかなしかの差であるようだ。耳があるズク(フクロウ)なので、ミミズク。

この像には、角がある。

その前に、午後がはじまったばかりの中途半端な時間なので、教会は午前の部も終わり閉まっている。

では、その間に昼ご飯でも食べておこうと、直ぐ近所にあるあまり上品とも呼べない定食屋風情のところへ。

感じとしては、日本橋の裏路地にある商売を度外視したいくらか家庭的なところ。

アラビア風のペンネが好き。だからそれを頼み、赤ワインも。同行者がなにを注文したかは失念している。ただ、たくさん食べる性質だけは知っている。食べ放題なんて店を選ぶ基準にないが、この時期だけはそれを考慮した。

後出しじゃんけんのような悪口とも思える。

男性は、関与した女性のことについてあれこれ言わずに無言で通すというしきたりを守ったほうがいい。

だが、観察と饒舌を後天的に、まさしくイタリア人になろうと決意した事実により取得した自分は黙っているわけにもいかない。キーボードこそが、ぼくの魔法の杖なのだ。

ところで、料理のことだった。

この期待もしなかったペンネこそが絶妙の味だった。まさに庶民の胃袋を満たすための味。ワインもスノッブ的には無関係な命の水の味。

食べ終わる。そして、時計を気にする。

もう教会は開いているだろう。

ミケランジェロを見る。いくらか賽銭を入れると、ランプが数秒だけ着く。

邂逅というのは短時間であるものなのだ。

その後、歩いたかもしれないし、地下鉄に戻ったのかもしれない。コロッセオの大きさを確認したのかもしれない。

しかし、どの遺跡よりも、高級そうではまったくないあの店でペンネをもう一度、食べたいなと思っている。

ガイドブックには今後も載らないであろう、歴史的裏付けもまったくない店。

ここが自分らしいといえば、とっても自分らしい。


最後の火花 70

2015年06月01日 | 最後の火花
最後の火花 70

 柴田さんの教えてくれた方法論で成績があがる。彼女もよろこび、わたしも嬉しく、両親は満足して、先生は怪訝な顔をした。突然の好成績は別の方法論の疑いがある。次回も同じ結果、それ以上の成績が求められる。

「首位打者は辛いものなのよ」と、柴田さんはわたしをなぐさめた。彼女の例えは、なぜか野球を用いた。

 善意のすんなりとしたエネルギーもあるが、悔しいという感情も埋設された管を通ってエネルギーに化ける。だが、どこかで正しいことではないと思っている。

 試験も終わり、自由に本が読める。恋という大きな衝突物がある。自分の周囲にいる、同年齢かもしくは近い年齢の異性。特別な趣向がなければ、対象はそういうものだった。つまりは学校とか運動部とかの範囲でしかありえない。子どもから大人への移行に連れて、孤独という厄介な大げさな問題も立ちはだかる。ひとりでいるときの不安。ひとと感じ方や考え方が異なっていることへの心配。一致したいという願望。ひとの幸福。すでに交際しているひとへのやっかみ。わたしは自分が醜くなりつつあることを恐れている。内面的な意味合いで。

「長距離走者の孤独」という本を開く。運動というものは主題ではなく、ここでは反抗とか対立という毅然たる孤独の受容のことが書かれているようだ。受け入れるか、排除するかでその後の人生が変わる。

 テストの成績が良かったことでわたしの株が家族内であがる。同時に、柴田さんの仕事ぶりの信頼感もきちんと評価される。ひとに教えるということは簡単なように思えた。柴田さんが簡単にしている所為で。だが、ほんとうはそうではないのだろう。ひとの価値が格段にあがることは相対的に、誰かの値打ちが下がる可能性もあるのだった。これも嫉妬のひとつの出口だった。

 孤独を求めた代償は大きいものだった。わたしは居間で映画を父と見た。「大人は判ってくれない」という白黒の映画だった。彼も孤独らしい。孤独の解消はなぜだか衝突を生む。これが反抗期というものだろうか。わたしも母の言動と理不尽な注文にイライラさせられるときがある。

 それでいながら成績が上がったことで喜んでもらえたことを嬉しく感じている。子ども時代は自分の態度を分析しなかった。動物と同じような衝動のみで生きられていた。大人になるにつれ、意味や言い訳や理屈やごまかしが必要になってくるようだ。とにかく、ひとことでいえば面倒くさくなった。

 汗を流している同級生の姿を目で追っている。とにかく目立つ存在だ。華がある。親切かどうかも分からない。あんまり話したこともないのだ。彼が誰かを好きなことは周知で、うわさにもなっている。自分ではないということが悔しいというか切ないものだった。切ないというのは動悸の乱れのことだった。医学的に解説すれば。だが、わたしの身体は理科室の標本ではない。生きたあたたかな存在だった。

 自分ではどうしようもないこともある。勉強は柴田さんによって、どうにかなった。いまは、どうにかなることを頑張ろう。そう力んで誓わなくても週に数度は、柴田さんが家にやって来た。わたしは教わり、いっしょにご飯をため、柴田さんの恋の話をきいた。

 わたしから見れば、すべて打算の産物のようにも思える。弁護士になった自分にふさわしいのは、それ以上の尊敬されるべき職業のひとのようだった。医者とか、社長とかの。子どものわたしの理解は漠然としている。でも愛すべき柴田さんは理想とは別にだらしない性格の彼氏がいた。付き合ったり、別れたりして数年間が経つ。だが、彼女の勉強や仕事が忙しくなれば、別のかたちで前進するのだろう。せざるを得ないのであろう。

 わたしは勉強のコツをつかんでしまった。あとはやる気と眠気との戦いであった。絶対的な記憶量の問題もある。本を読む時間も必要だ。それより、あのひとがわたしを認める日が来てほしいようにも思う。

 父は、最寄り駅まで柴田さんを送った。なぜか妹もついて行っている。なにかをねだる作戦があるのかもしれない。妹も柴田さんを家庭教師にもてればいいが、もうその頃は、どこかの弁護士事務所で働いているのだろう。だらしのない男性はずっとその位置を守り抜くのだろうか。ある日、そこから抜け出る日が来る。いままでの時間を感謝する。父と妹は帰ってきた。妹はアイスを食べている。そのくせにお腹が丈夫じゃない。明日が心配だ。

 わたしはラジオをかけて勉強する。習慣にすることが大事だと言った。顔を洗うように、机に向かう。孤独のことも考える。父の笑い声が聞こえる。母のイライラした口調も階下から聞こえる。妹がトイレのドアを開ける音がする。わたしの集中力は破れた障子ぐらいのものだ。秘密にしたいことも筒抜けだ。

 明日は球技大会がある。彼は活躍するのだろう。そのゴールはあの子のために決めるのかもしれない。祝うべき理由がある。わたしはゴール・キーパーになって止めたいと願う。両手を伸ばして、すべてのシュートを払い除ける。いや、強く胸にボールを抱きかかえるのだ。妹が戸を開ける。青白い顔をして、薬がないのか問うた。