『女相続人』(49)(1992.3.24.)
19世紀半ば、医者(ラルフ・リチャードソン)の一人娘キャサリン(オリビア・デ・ハビランド)は、従姉妹の婚約パーティーで知り合った青年モリス(モンゴメリー・クリフト)と恋に落ちる。彼が財産目当てだと気付いた父は結婚に反対するが…。容姿にコンプレックスを持ち、結婚運がない女性が、男に裏切られ、残酷な女性へと変化していく様子を、ウィリアム・ワイラー監督が冷徹なタッチで描く。原作はヘンリー・ジェームズ。
見終わった後、何と残酷で救いのない映画だと思いながらも、その一方で、いかにもワイラーらしい、映画の文法を踏まえた流れの良さに酔わされ、満足感も得る、という不思議な感慨にとらわれた。
実際、時代の変化があるとはいえ、この映画には、今のアメリカ映画が失ってしまった“文学的な重厚さ”が満ちあふれていた。また、デ・ハビランド、リチャードソン、クリフトによる、それぞれの個性をぶつけ合った演技合戦も見事だった。
恐らくワイラーは、舞台劇を映画にすることを好んだのだろうし、その奥にアメリカのヨーロッパコンプレックスを描き込んでいる。それは、例えば、この映画のリチャードソンや、『嵐ヶ丘』(39)『黄昏』(51)のローレンス・オリビエといった英国人俳優の扱い方にもうかがえるし、ワイラーにとっては“異色作”である『ローマの休日』(53)にしても、ヨーロッパへの憧れ以外の何ものでもないようにも思える。
ワイラーはドイツ系の移民であるし、ビリー・ワイルダーはオーストリアからの移民である。彼らが作るシニカルで厳しい映画と、アイルランド系のジョン・フォードやイタリア系のフランク・キャプラが作る映画の色合いが違うのは当然だが、ハリウッドというフィルターを通して、それぞれの故郷への思いを描く、という点では共通する。そうした、さまざまな視点や幅広さが、ハリウッド映画のバラエティさにつながったのだろう。
オリビア・デ・ハビランド
モンゴメリー・クリフト
ラルフ・リチャードソン
19世紀半ば、医者(ラルフ・リチャードソン)の一人娘キャサリン(オリビア・デ・ハビランド)は、従姉妹の婚約パーティーで知り合った青年モリス(モンゴメリー・クリフト)と恋に落ちる。彼が財産目当てだと気付いた父は結婚に反対するが…。容姿にコンプレックスを持ち、結婚運がない女性が、男に裏切られ、残酷な女性へと変化していく様子を、ウィリアム・ワイラー監督が冷徹なタッチで描く。原作はヘンリー・ジェームズ。
見終わった後、何と残酷で救いのない映画だと思いながらも、その一方で、いかにもワイラーらしい、映画の文法を踏まえた流れの良さに酔わされ、満足感も得る、という不思議な感慨にとらわれた。
実際、時代の変化があるとはいえ、この映画には、今のアメリカ映画が失ってしまった“文学的な重厚さ”が満ちあふれていた。また、デ・ハビランド、リチャードソン、クリフトによる、それぞれの個性をぶつけ合った演技合戦も見事だった。
恐らくワイラーは、舞台劇を映画にすることを好んだのだろうし、その奥にアメリカのヨーロッパコンプレックスを描き込んでいる。それは、例えば、この映画のリチャードソンや、『嵐ヶ丘』(39)『黄昏』(51)のローレンス・オリビエといった英国人俳優の扱い方にもうかがえるし、ワイラーにとっては“異色作”である『ローマの休日』(53)にしても、ヨーロッパへの憧れ以外の何ものでもないようにも思える。
ワイラーはドイツ系の移民であるし、ビリー・ワイルダーはオーストリアからの移民である。彼らが作るシニカルで厳しい映画と、アイルランド系のジョン・フォードやイタリア系のフランク・キャプラが作る映画の色合いが違うのは当然だが、ハリウッドというフィルターを通して、それぞれの故郷への思いを描く、という点では共通する。そうした、さまざまな視点や幅広さが、ハリウッド映画のバラエティさにつながったのだろう。
オリビア・デ・ハビランド
モンゴメリー・クリフト
ラルフ・リチャードソン