こんにちは
バンクーバー五輪のスノーボード
國母 和宏選手。
服装問題で騒がれながらの
氷上の戦い
お疲れ様でした
彼の活躍にインスパイアでいきますね。
人間の生き方のスタイルは
個性的なほうがもともと自然なんだ
◆個性的でありたい人間の本性
人間にはもともと「個性的でありたい!」という
本性があるものだ。
the inveterate tendency of man to individualize himself
(E.H.カー「カール・マルクス」より)
個性的でありたい!
のが人間の本性なのだから
みんなまとめて一つの考え方に縛りつけようとすることは
そもそも無理があるはずだろう
というのがE.H.カーの言葉です。
※
「個性的な自由を認めない共産主義にはきっと限界がくる」
という、カーの共産主義批判であったという説もあります。
◆個性的な自由と無個性の束縛と、より良い方向はどちらに?
日本は共産主義の国ではないので
「個性的でありたい!」
という人間性が否定される恐れはないのでしょう。
ところが長い歴史と文化の過程で
「社会ルールからはみ出る者が否定される」
という空気が充満」してきた部分もあります。
自由な個性を認めることと
無個性な束縛を求められること
どちらが人間にとって「より良い」あり方なのかは
まだ日本社会では現在進行形の実験中なのでしょう。
◆人類は「悟性魂」から「意識魂」に進むもの
哲学者のR.シュタイナーを大学の卒論に書いたとき
人間の魂は「悟性魂
」
から「意識魂
」にむかうのだ
という考え方があるのを学びました。
「悟性魂
」というのは社会の仕組みを基準に
<自分はどのポジションでいることが重要か>
という自己認識が尊重されるあり方
これが古代からずっと続いてきた人間の一般的な
魂のスタイルでした。
ここからはみ出して
<社会の仕組みではなく、自分自身の基準に従う>
自己認識を尊重するのが「意識魂
」というスタイルです。
過去の歴史で、偉人と呼ばれる人たちは
「悟性魂
」の時代の中で「意識魂
」を発揮した人たち
であるともされています。
◆「自分自身の基準」「個性的でありたい本来の人間」から
個性的でありたい!
それが人間の本性
でもただの野放しであれば
自分勝手な人間が増えます。
そこで
自分と他人の個性を互いに尊重する社会ルールができました
しかし社会ルールが固定化してくると、いつのまにか
互いの尊重が束縛に変化し
個性的でありたい!魂が圧迫されてくるようです
「悟性魂
」
社会からの認知を基準にした生き方をしている人が
まだまだ多いみたいです。
「意識魂
」
自分の基準にしたがう生き方というのは時として
社会からはみ出しやすいのです。
でも「意識魂」の生き方こそ、人間本来の
個性的に生きたい!という本性からみたら
最終的に目指すべき方向性のように思います。
◆國母 和宏選手の「意識魂
」の芽生え
「意識魂」として生きるなら、個性は大切にしましょう。
ただし、その生き方で生じる社会との衝突については
無軌道に衝突するのではなくて知恵をもって
自分を説明して相手を説得できる工夫が要ります。
本当に自由で個性的な生き方をしたいなら
コミュニケーションは身につけるべき課題かと思います。
オレが求める個性的な生き方、あり方は
きっとよりよい影響を世の中に与えるはずだ。
勇気とか希望とか情熱とか・・
↑
こういう信念を熱くコミュニケーションで語りつづけなきゃ!
語るというのは言葉もあり態度もあり雰囲気も必要です。
國母 和宏選手は、これから社会性もきちんと備えて
本当に活躍できるステキな青年として「意識魂」の
個性をもっと輝かしてくださいね。応援しますので
※
彼の苗字は「国」母ではなくて「國」母 です。
國とは、口の中に武器を表わす或が入ります。
(或は矛のようなものの表現だという説です)
守るための武器を持っている国こそ國。
オリンピックはやはり国家同士の戦い
國母 和宏選手はその意味では本質的に正しく
日本国の選手の戦いをしたのだとも感じます
爽やかに拍手で彼を日本に迎えてあげましょう。
多少の心配
敗戦処理の感謝の気持ちは服装で威儀を正すのだよ。
アドバイス。
それでは

バンクーバー五輪のスノーボード
國母 和宏選手。
服装問題で騒がれながらの
氷上の戦い
お疲れ様でした

彼の活躍にインスパイアでいきますね。




◆個性的でありたい人間の本性
人間にはもともと「個性的でありたい!」という
本性があるものだ。
the inveterate tendency of man to individualize himself
(E.H.カー「カール・マルクス」より)
個性的でありたい!
のが人間の本性なのだから
みんなまとめて一つの考え方に縛りつけようとすることは
そもそも無理があるはずだろう
というのがE.H.カーの言葉です。
※
「個性的な自由を認めない共産主義にはきっと限界がくる」
という、カーの共産主義批判であったという説もあります。
◆個性的な自由と無個性の束縛と、より良い方向はどちらに?
日本は共産主義の国ではないので
「個性的でありたい!」
という人間性が否定される恐れはないのでしょう。
ところが長い歴史と文化の過程で
「社会ルールからはみ出る者が否定される」
という空気が充満」してきた部分もあります。
自由な個性を認めることと

無個性な束縛を求められること

どちらが人間にとって「より良い」あり方なのかは
まだ日本社会では現在進行形の実験中なのでしょう。
◆人類は「悟性魂」から「意識魂」に進むもの
哲学者のR.シュタイナーを大学の卒論に書いたとき
人間の魂は「悟性魂

から「意識魂

という考え方があるのを学びました。
「悟性魂

<自分はどのポジションでいることが重要か>
という自己認識が尊重されるあり方
これが古代からずっと続いてきた人間の一般的な
魂のスタイルでした。
ここからはみ出して
<社会の仕組みではなく、自分自身の基準に従う>
自己認識を尊重するのが「意識魂

過去の歴史で、偉人と呼ばれる人たちは
「悟性魂


であるともされています。
◆「自分自身の基準」「個性的でありたい本来の人間」から
個性的でありたい!
それが人間の本性

でもただの野放しであれば
自分勝手な人間が増えます。
そこで
自分と他人の個性を互いに尊重する社会ルールができました

しかし社会ルールが固定化してくると、いつのまにか
互いの尊重が束縛に変化し
個性的でありたい!魂が圧迫されてくるようです

「悟性魂

社会からの認知を基準にした生き方をしている人が
まだまだ多いみたいです。
「意識魂

自分の基準にしたがう生き方というのは時として
社会からはみ出しやすいのです。
でも「意識魂」の生き方こそ、人間本来の
個性的に生きたい!という本性からみたら
最終的に目指すべき方向性のように思います。
◆國母 和宏選手の「意識魂


「意識魂」として生きるなら、個性は大切にしましょう。
ただし、その生き方で生じる社会との衝突については
無軌道に衝突するのではなくて知恵をもって
自分を説明して相手を説得できる工夫が要ります。
本当に自由で個性的な生き方をしたいなら
コミュニケーションは身につけるべき課題かと思います。
オレが求める個性的な生き方、あり方は
きっとよりよい影響を世の中に与えるはずだ。
勇気とか希望とか情熱とか・・
↑
こういう信念を熱くコミュニケーションで語りつづけなきゃ!
語るというのは言葉もあり態度もあり雰囲気も必要です。
國母 和宏選手は、これから社会性もきちんと備えて
本当に活躍できるステキな青年として「意識魂」の
個性をもっと輝かしてくださいね。応援しますので

※
彼の苗字は「国」母ではなくて「國」母 です。
國とは、口の中に武器を表わす或が入ります。
(或は矛のようなものの表現だという説です)
守るための武器を持っている国こそ國。
オリンピックはやはり国家同士の戦い

國母 和宏選手はその意味では本質的に正しく
日本国の選手の戦いをしたのだとも感じます

爽やかに拍手で彼を日本に迎えてあげましょう。
多少の心配
敗戦処理の感謝の気持ちは服装で威儀を正すのだよ。
アドバイス。
それでは
