
今日は24節季の「清明」。その意味は「万物発して清浄明潔なればこの芽は何の芽としれるなり」と記されている。この季節の情景にあいそれとなく理解できる。
狭い花畑や植木の根本に雑草が顔をみせはじめた。これと抜取りの「いたちごっこ」がスタートする。いたちごっこは同じことの繰り返しで無益という意味に使う。無益でもしなければいけないこともある。
雑草は自然に生える草で目的の植物以外の草を指す。その姿は「雑草のように育つ」と強い生命力の例えに使われる。抜いても抜いても終りなく茂る雑草へ時には畏敬の念をもつ。
中山間地を問わず休耕中の田畑は雑草で覆われ大きな問題になっている。ここに牛を放ちこれを餌にする対処方法がある。また、農業高校で飼育中の羊についても同じ取組を始めた。牛と違い羊は小さく高齢者でも取扱い易いと好評のようだ。
雑草のようにたくましく働いてきた人が前・後期の人に分けられ無益な層扱い。遅いかもしれないが、嫌われ抜かれ焼かれてきた本物の雑草の気持ちがここに来て分かり始めた。
(写真:全国中継中の錦帯橋と桜)