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隣町の小さな公園のそばを歩いていた。垣根として植えられたツツジの上に「四境之」の3文字が掘られた石柱が目についた。もしや、と思い裏に回った。そこには「四境之役砲台跡地」と刻まれている。
1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長同盟を通じて新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。
この不穏な動きをみて、14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争である(以下略 参照:岩国検定の資料)。
芸州口の戦いは、吉川経幹を総督とし、慶応2年6月、小瀬川の戦いから始まり、2ヶ月間玖波~大野間で激戦を繰り返した。幕府軍の来襲に備えて芸防国境の守備に着いた主力は岩国藩の士隊であった。攻撃の主力となって芸州へ侵入したのは長州の遊撃隊で、岩国の民兵団が援助した。彦根藩と高田藩は小瀬川であっけなく壊滅したが、両藩に代わって幕府歩兵隊と紀州藩兵が戦闘に入ると膠着状況に陥る。なお、芸州藩は隣藩との友誼を理由として幕府の出兵命令を辞退した(岩国検定の資料)。
和木町は山口県の最東端に位置しており、小瀬川をはさんで数々のドラマが繰り返された。第2次長州征伐時、芸州口での長州軍は岩国、柳井、玖珂の5代官所で養成された2,000人の民兵を組織した。彦根・高田の幕府軍との約2ヶ月にわたる戦争で、幕府軍に小瀬川を渡らせることなく、将軍家茂の死を機に、幕府は長州と和睦をせざるを得ない状況となった。
この時、和木村(当時)では男は農兵、女は炊出しや食料の運搬など村をあげて防戦した。この戦争は明治維新という新しい歴史を開いた回天の戦いであった。この芸州口の戦いの舞台となったのが当地で、封境の地碑はこの戦いを記念して建てられた。(岩国検定の資料:封境之地より)。
あの石柱の場所に砲台が、と謎が深まる。場所は石油精製会社のテニスコート前の道路向こう。岩国検定の仲間に入っていなかったら、見過ごすなどということでなく、何の興味もなく通り過ぎただろうツツジの上に見えた3文字。何かに興味や関心を持つことの面白さを改めて思った。
こんな歌がある。
「ああ征長隊」 作詞 石本美由紀 作曲 上原げんと
1. 風なまぐさく 水騒ぐ 2.慶応二年 六月(みなずき)の
大竹口に 陣を布く 血の雨ふらす 木野川原
男いのちを 矢弾に曝し(さらし) 竹原七郎平 なぜ散り急ぐ
花と散る身の 武士の運命(さだめ)か
花と散る身の 征長隊 武士の運命か 征長隊
3. 苦の坂越えて 撃ち下ろす 4.葵は枯れる 菊は咲く
長州勢の 奇襲戦 維新の黎明(あさ)は もう近い
焼ける人家の 炎の中に 移る時勢に 流され押され
影が崩れる 白刃かなしや
影が崩れる 征長隊 白刃かなしや 征長隊