
今年も残り2週間になった、そう思い年末までに済ませるあれこれを想っているとき、ある高僧の短い文が転送されてきた。歳末は師も走りまわると言われるほど忙しさの中にあって、自らを見失わないことだ。「忙中閑あり」ということばがあるが、忙しい中にも少し閑(ひま)をつくり有意義に過ごしなさい。それが忙しくても自からの存在の有りで様であろう。
毎日が休日の年金生活、忙中閑ありと改めて意識する必要のない日々を過ごしている。とは言っても年賀状、出すからには元日の朝に届けたい。放映される年賀状受付開始のセレモニーの様子をみながら、喪中ハガキはもう来ないだろう、そう決めて準備を始める。そうしながら繰って見ると賀詞の後に「賀状は今年かぎりで」、続いてこれまでの交誼に感謝と記されている。大方が、喜寿や傘寿に達した、退職や健康に関してが多い。
購読紙に「寄る年波 年賀状終えるには」という相談の特集が載っている。終える側は、年賀状を受け取る側の立場に立って考えることが大切という。礼を尽くして説明すれば理解は得られる。受け取る側は、長年続けた年賀状を終える大きな決断を、事情を察する優しさを持とうとある。決断の訳がなく「この年賀で終わり」の1枚からは決断を察するのは無理、決断のひと言は必要だろう。
ある年の終活年賀状を思い出す。表の差出人は知らない名前。裏には長く賀状交換しているMさんの印刷した賀状と達筆の添え書きがある。空欄に追記があった。私はMの姪です。11月下旬にMは急逝しました。遺品の中に年賀状が投函待ちの状態でした。個人の遺志をお伝えしたく、ご迷惑でしょいうがお受け取り下さい。亡くなった人からの初めての賀状だった。