2017年08月11日 中国新聞「広場」掲載
近くで開かれた原爆展会場で、「水をもとめて」という1枚の絵が私の足を止めた。それは、被爆した人が、水を求めて水槽で重なり合って亡くなった様子が描かれていた。
広島に原爆が投下された日、父は業務で同僚と自転車で岩国から広島に向かった。
小学校高学年の夏休み、父の目にした惨状について聞きたいというと、難しい顔をして黙っている。それでも一つだけ話してくれたのは、「防火用水に、人も犬も一緒に漬かって亡くなっていた」という話だった。
一つだけ聞かされ、覚えている原爆投下直後の街の様子が、目の前の絵と重なった。幾多の残酷な光景を見たであろう父が、その様子は「子どもにはむごくて話せない」と考えたのだろう。
父は、それからも語ることなく50代半ばで急逝し、50年余が過ぎた。
会場の外は真夏の日差しがまぶしい。投下直後のまぶしさと熱さを思い、核のない世界の実現を祈った。
近くで開かれた原爆展会場で、「水をもとめて」という1枚の絵が私の足を止めた。それは、被爆した人が、水を求めて水槽で重なり合って亡くなった様子が描かれていた。
広島に原爆が投下された日、父は業務で同僚と自転車で岩国から広島に向かった。
小学校高学年の夏休み、父の目にした惨状について聞きたいというと、難しい顔をして黙っている。それでも一つだけ話してくれたのは、「防火用水に、人も犬も一緒に漬かって亡くなっていた」という話だった。
一つだけ聞かされ、覚えている原爆投下直後の街の様子が、目の前の絵と重なった。幾多の残酷な光景を見たであろう父が、その様子は「子どもにはむごくて話せない」と考えたのだろう。
父は、それからも語ることなく50代半ばで急逝し、50年余が過ぎた。
会場の外は真夏の日差しがまぶしい。投下直後のまぶしさと熱さを思い、核のない世界の実現を祈った。