日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

迎春準備あれこれ

2018年12月21日 | 地域

 錦帯橋界隈の旅館や料亭、古物商などに門松が立ち始めた。例年のように揃うと十数基になる、これらを眺めながら歩くのも師走の楽しみのひとつだ。錦帯橋袂の門松は大き豪華さは界隈一だが、立つのはいつも押し迫るころ。風物としてローカルのTVや新聞では紹介される。

 マイハウスをかざったもの、国道沿いの田んぼの巨大なイルミネーションなど、工夫を凝らしたあれこれをSNSが介している。錦帯橋界隈ではそんな風景はまだ見られない。商店がその装いを畳むとかくも寂しくなるものかと改めて思う。

 今朝の新聞、元日を休業とする企業が増えるとある。働き方改革の一環だろうが、大昔の様に「静かなお正月風景」が戻って来るのだろうか。行くとがなえれば「追羽根ついて遊びましょ」もいいもんだが。

 昔の我家、正月には大勢の親戚が揃ってやって来た。その賄い準備に追われる師走も終わるころの我家、母が、妻が超多忙だった。今はそんなころをたまに思い出しながら、特別に大きな準備をしなくても新年はやって来る。
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平成最後の報恩講

2018年12月20日 | 生活・ニュース

 報恩講がその年の最後の寺参りになる。報恩講は「親鸞聖人の御命日を縁に宗祖の遺徳を偲び報謝の集い」と寺報にある。月末にやって来るクリスマスはキリストの降誕祭であるが、宗祖の誕生を祝う集いは「親鸞聖人降誕会」として開かれる。他にも幾つかの集いがあり、昼食が出される。この昼食をお斎といい、精進物で作られている。

 この地域は町筋を一歩離れると、60年も昔には肥沃な土地が続く畑地だった。通学路沿いには幾種類もの野菜が競うように育っていた。しかし、大きな道路が開通し、畑が宅地へと変わり様相は大きく変わった。それでも野菜作りは続いており、お斎の精進物は門徒の農家さんの畑からの直送が多いと聞いている。今回は錦帯白菜の白和えが特筆だった。

 いつだったか、役にも立たない雑談をしているときだった。何の話しからか「お斎」が話題になった。その時、私より年配の女性が「おとき」は何かと訊ねた。すると、私より若い女性が「あんたあ、お斎を知らんのん」と口にした。その口ぶりは年配の女性を卑下した言い方で座が白けた。場なれした人が中に入りお斎の話題は変わった。齢に関係なく、仏縁がなければ丁寧語のお斎を存じない人もあろう、他の宗派を知らない自分に置き換えて思った。

 法話の中で、聖人の生涯を絵詞で記した「親鸞聖人伝絵(でんね)」がある。これは、文字が読めない時代は教えを言葉や絵で伝えた。その言葉や絵によって生かされ励まされたという。寺には宝永元年(1704)作の伝絵がある。一つの絵に複数の同一人物を描いて時の経過を表している。映像に頼る今の時代の先駆けの姿であった。伝絵の続きを勉強したい。
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花水木実る

2018年12月19日 | エッセイサロン

 出かけた先ですっかり葉の落ちた何本もの花水木を見上げると赤い実が枝先についている。寒風にさらされ厳しい寒さを越えた春ころに開花する。それまでにはずいぶんな時間を寒さの中で耐え抜かないといけない。そんな赤い実を見ていたら、師走の忙しさに加え、同人誌の1月発行という期限付きで欠かせない取り込み作業中の同好会代表の顔が浮かんだ。

 同人誌名は「花水木」。これは会員がこの一年の間に新聞・書籍などに投稿し採用掲載された作品をまとめたもの。平成最後となる準備中の同人誌は第13号になる。小さな同人誌、2号か3号続けば、と心配してくれた人もあったそうだが、代表のリーダーシップで続いている。欠かすことなく開く例会は今月で154回になる。

 花水木、東京市長の尾崎行雄がアメリカはワシントン市に桜を寄贈した。そのお礼として1915(大正4)年にアメリカから贈られ、その後、全国に広まったという。別名はアメリカ山法師、日本の山法師によく似ていることからついたという。ともにミズキ科というから親類兄弟の類だろう。

 紙面などへの掲載予定通知はごくまれで、紙面を開いて知ることが多い。大晦日の掲載もまれではない。代表は紅白歌合戦を観るでなく背中で危機ながらの編集もしばしばとか。そんなご苦労が実って毎年1月例会で同人誌を手にしている。さて13号には何編の掲載があるだろうか、今年は未だ残り10日もある、最新号の花水木、どんな実りをするだろう。
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身近な風景に新発見

2018年12月18日 | エッセイサロン
2018年12月18日 中国新聞「広場」掲載

(セレクト掲載の写真)

 15日付セレクト5面「小瀬川にエッフェル塔」の写真に見入った。塔のような設備は、60年前、国内で初めて石油化学コンビナートが操業した地に立つフレアスタック。余剰なガスを燃焼処理するためのものだ。私は定年までこの塔を見ながら勤務した。
 フレアの炎の大きさが石油化学産業の象徴のような時代もあった。環境に対する社会の意識変化と技術の進歩などで、そうした時代は遠く過ぎ去った。
 長年、塔を見ていたのは小瀬川に架かる国道2号の栄橋からだった。写真の様に下流の、それも河口に降りて眺めたことは一度もなく、「エッフェル塔」を捉えたカメラ目線の素晴らしさを知った。
 塔の下を横切るのは連絡橋で、川の両岸の工場が原材料などをやりとりする重要な役を担う。その塔と橋は一体の設備であり、背景の深い青色の空に映える姿に、長年の風雪によく耐えたものと感動した。
 各地でコンビナートの夜景を巡るツアーがある。季節や時間、場所をうまく調整すれば、新しい風景の発見があると思う。観光化されていないさまざまな風景の発掘を期待している。
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終活年賀状

2018年12月17日 | 生活・ニュース

 今年も残り2週間になった、そう思い年末までに済ませるあれこれを想っているとき、ある高僧の短い文が転送されてきた。歳末は師も走りまわると言われるほど忙しさの中にあって、自らを見失わないことだ。「忙中閑あり」ということばがあるが、忙しい中にも少し閑(ひま)をつくり有意義に過ごしなさい。それが忙しくても自からの存在の有りで様であろう。

 毎日が休日の年金生活、忙中閑ありと改めて意識する必要のない日々を過ごしている。とは言っても年賀状、出すからには元日の朝に届けたい。放映される年賀状受付開始のセレモニーの様子をみながら、喪中ハガキはもう来ないだろう、そう決めて準備を始める。そうしながら繰って見ると賀詞の後に「賀状は今年かぎりで」、続いてこれまでの交誼に感謝と記されている。大方が、喜寿や傘寿に達した、退職や健康に関してが多い。

 購読紙に「寄る年波 年賀状終えるには」という相談の特集が載っている。終える側は、年賀状を受け取る側の立場に立って考えることが大切という。礼を尽くして説明すれば理解は得られる。受け取る側は、長年続けた年賀状を終える大きな決断を、事情を察する優しさを持とうとある。決断の訳がなく「この年賀で終わり」の1枚からは決断を察するのは無理、決断のひと言は必要だろう。

 ある年の終活年賀状を思い出す。表の差出人は知らない名前。裏には長く賀状交換しているMさんの印刷した賀状と達筆の添え書きがある。空欄に追記があった。私はMの姪です。11月下旬にMは急逝しました。遺品の中に年賀状が投函待ちの状態でした。個人の遺志をお伝えしたく、ご迷惑でしょいうがお受け取り下さい。亡くなった人からの初めての賀状だった。
 
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電話機の日

2018年12月16日 | 回想

 1年365日にすべての日が何かの日になっている。国民祝日や語呂合わせ、商売繁盛など主旨は様々だが、楽しむ分にはいい。そんな一つ、3行記事に今日は「日本の電話創業の日」という。1890年というから明治23年、意外と遅い文明開化という気がするが、便利なものが使えるようになったことは素晴らしい。当時は東京と横浜で加入は200あまりとある。

 電話の記憶は子どものころ家から100㍍くらいに在った分限者といわれる家だった。それは木製の電話ボックスの壁についていた。左手で受話器を耳に直角に当て、送話口に顔を近づけて話していたように記憶する。当時の人が携帯やスマホの通話を知ったら驚くか科学の進歩に唸るか聞いてみたい。

 父の没後、いろいろあり電話の設置を申し込んだ。「2年くらいお待ちいただきます」といいながら窓口の人は申込書を受け付けた。何がどう変わったのか知らないが、驚くほど早くダイヤル式の黒電話が付いた。忘れられない初回に掛かって来たのは「明日、異動辞令が出る。出社するように」という上司の声だった。当該職場への異動希望を出していたが発表がなく諦め半分の気持ちだった。夜勤予定は急遽変更になった。

 そんな電話機も円形数字板回しからプッシュ式、番号登録や受信番号表示、留守電や勧誘電話受信拒否など何度か買い換えた。子機の登場は長電話を助長したともいう。そんな固定電話機は減少し今は携帯やスマホの時代、この先は5Gに変わる、どこまで進化するのやら。そして電話線が消えるのはいつだろう。番号を覚えなくて良くなったのはボケ防止のためにどうだろうかと思っている。
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後を絶ぬ誘い

2018年12月15日 | 生活・ニュース

 連日のように特殊詐欺の被害が報道される。中には千万円単位の被害にあった人もある。そんな手口は広く広報され警戒を呼びかけられているが、その手口は次第に巧妙化しているという。最近はハガキでなく封書で、外観はいかにも役所関係の差出を思わせるという。「重要」が赤印刷されている。訪問しているブログやFBにも注意呼びかけが多数載っている。

 私のメールにも疑わしいメールが入る。入るが、その種のメールはプロバイダーの側で迷惑メールとして自動排除システムで正規の受信トレイには届かない。複数の知人から、メールに応答がないとクレーム、調べてみると迷惑ホルダーに入っている。調べると、知人の加入しているプロバイダーからの迷惑メールが多数なので、自動的に振り分けられていた、ということだった。

 迷惑メールの発信者は大方が国外、開くこともない。最近しつこく送って来るのは動画閲覧の代金請求、その文面も金額もSNSでアップされている内容と全く同じ。機械的送信だろうが、それでも続くということは、益があるということだろうか。

 メールを始めるとき、随分と古い話になるが「不審なメールには、ワンクリック100万円失うと思え」と忠告された。それを守り被害に遭っていないがこれからもクリックはしない。今、迷惑メールホルダーを開くには、ある絵を条件に従って完成せないといけない。絵と条件が面白く訪問しているが、応対することは無い。
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年末が近づき

2018年12月14日 | 生活・ニュース

 昼食後の雑談。今年も残すとこ半月あまり、歳末にふさわしいあれこれを話しているとき、車を始動したら「今日は忠臣蔵の討ち入りの日」と教えられたいう話。確かに忠臣蔵はこの時期に欠かせない話題だが、さて、今頃はどうなんだろう。TVの時代劇専門チャンネルでは、往年の忠臣蔵名画放送予定を繰り返し流す。名優といわれた人らの大石内蔵助がモノクロで登場する。4K8K映像の時代だが時代劇は人気があるという。

 忠臣蔵の話しが出ると祖母のことを思い出す。大昔の話になるが、新聞の連載のそれを切り抜き大事にしてていた。大事にするだけでなく志士の話をよく聞かせてくれた。ラジオの浪曲は耳をくっつけて聞いていた。そのお陰で広沢虎造の名前は今も記憶にある。祖母は66年前に亡くなったが、今夜は切り抜きの忠臣蔵を読んでいるかもしれない。

 この後はクリスマスが控えている。今年は外国からサンタがやって来ないので寂しいイブになるという。その訳を聞いて風刺の面白さを改めて知り、その才に感服した。寂しい理由、それは「サンタさんのプレゼント配布は単純作業だから不法入国になる」と強行採決された外国人労働者の受け入れに掛けている。

 雑談で1年が短いという感じに異議なし。高齢になると365日から年齢を差し引いた値を1年と感じるとか。ということは9カ月半で私の1年は過ぎる計算になる、早いはずだ。といいながら恒例のミニ門松を作る、これで年越しの宿題が一つ減った。
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次の次には

2018年12月13日 | 生活・ニュース

 そこは真っ青な冬空のした白線の引かれた近くの小学校運動場、「学年別長距離走」と応援の若いお母さんが教えてくれた。児童数が増えているこの小学校、1年生は5クラスとも聞いた。スタート直後の塊は2周目に入ると中ほどが集団でその前後は細長くなった。遅れているどの子も真面目そのもの前を見つめている。目算で1㌔くらい走る。

 コースの周囲には若い両親の応援姿、その人数の多さに驚いた。同時に「ガンバレ」と子どもの名前を呼びながらの声援は運動会にも似ている。青空だが空気は冷たいなか祖父母らしき人らの姿もある。孫、いや曾孫可愛さだろうか頭が下がる。やはり時代、スナップでなく動画撮影が多く、撮影者はお母さんだ。

 五輪夏季大会の第32回は2020年東京、次いで24年パリ、28年ロサンゼルスと決まっている。東京開催決定後に難関難題が相ついで発生し東京大会の行方を心配したが、このところ大きな報道は姿を消した。五輪出場選手の資格を得るため老若男女、多くの人が日々練習を重ねている。

 目の前を走る子どもの中から五輪選手が出ないとも限らない、東京五輪が近くなったこともありそんなことを思った。何故ならである、1936年ベルリン五輪三段跳びで世界記録を樹立し金メダルを獲得した田島直人はこの小学校を卒業している。競技種目で出場年齢に違いはあるが、走っている児童は28年大会なら高校生になっている。10年後、このブログが続いていたら読み返してみる。
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里芋の思い出

2018年12月12日 | 生活・ニュース

 子どもころ父の畑仕事の手伝い、どのくらい役立ったかわからないが、掘った芋を集めたり、抜いた大根や人参を運んだりして邪魔はしてなかったと思う。そんな手伝いの中で里芋掘りはきつかった。蓮ほどではないが、父が切り倒した大きな茎と大きな葉を畝の外へ運ぶ、小柄でこどもの自分には難儀な作業だった。

 掘るのは子供の手にはかなわない。父の掘った芋を集めるのだが、集める前に親芋から子芋を離す。離すのは子芋に力をくわえ親芋から折るようにする。離れたきの「ポキン」いう気持ちよい音が記憶にある。最近の収穫、といっても大農家の里芋収穫の映像は近代化されいる。トラクタで茎を切り倒しながら根切りをする。鍬で簡単に掘り出していた。

 そんな力仕事で収穫された里芋をいただいた。里芋は水洗いされ土は綺麗に除かれいている。皮むき、手が痒くなるそうだがその記憶は無い。皮むき器、何年か前に山陰の道の駅で子どもころわが家にもあったものと同じものを発見し懐かしく眺めた。それは小木の直径数㌢の小枝が枝分かれした個所を短く切り揃えたもの。他に水車や竹ざるなど、民芸品として並んでいた。

 料理家の土井善晴氏は目の粗いスポポンジでこすってむく、残れば包丁でこそぎ、なり口を切り落として料理に入るそうだ。里芋は煮っころがしというのか、煮しめ風の料理しか分からないが、口に入れると柔らかく、きめ細かくてねっとりしている。さて、どんな姿になって登場するだろうか。
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