a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

TEEリレートークVol.11 『お母さんはぼくを許してくれるだろうか』 志賀澤子

2018-12-04 15:30:20 | 劇団員リレートーク


たけちゃん(竹口範顕)の『銀河鉄道の夜』の話から受け継ぐと、
私にとってのジョバンニ、カムパネルラ、語り手についても書きたくなります。
そのたちあげの時には「おかあさんはぼくを許してくれるだろうか」と銀河の底で叫ぶカムパネルラとして舞台にいました。
『銀河鉄道の夜』は私にとって喪失、再生そのものでした…
高円寺にあった自前の稽古場から始まりブレヒトの芝居小屋に移って稽古をし、初演を迎えました。

ブレヒトの芝居小屋の私の好きな場所はロビー。
写真とポスター、岡島茂夫さん(ほとんどすべての芝居の舞台装置をデザインした)の絵「対話」。
そしてディグコーヒー。
そこにいつもタリさん(演出家広渡常敏)がいて、選りすぐりの道具でコーヒーをいれていました。
本番で客席に入らない時は、いつもコーヒーカウンターの上にあるモニターをききながら、
主演俳優の芝居についてアシスタントの私に文句を言ってたので、
私が出ている時は、きっとその時のアシスタントに同じように私の芝居のこと言っていたに違いないと思ってました。
そして今気がついてみると、
広渡常敏が居なくなってもう12年、
とうとうブレヒトの芝居小屋が終わる時を迎えることになりました。



ブレヒトの芝居小屋に移るというのは、革命だったのです。
それまでの曖昧な価値観を捨てて、演劇で、世界を見る。
マイノリティとして生きる、自らの価値は自分でつくる。
マスコミではなく、演劇で生きる。それからそのようにやって来ました。
大変だった、革命だったから



1984年死んだ津金伸行のことも思います。
労演が市民劇場、演劇鑑賞会に名前を変えた時期、
東京演劇アンサンブルは劇団三期会から名前を変えて10年くらい経っていて、
毎年全国の演劇鑑賞会の例会で3カ月くらい旅をして劇団は存在していました。
演劇鑑賞会と大衆化路線で激しく討論をし、
組織に頼らず、独自の演劇を創るための本拠地としてブレヒトの芝居小屋を制作部だった津金は見つけてきました。
1984年に死んだ彼(夫)もまた私にとってブレヒトの芝居小屋そのものとも思えます。
初期の海外公演、
野外劇などまだ文化庁の助成が始まったばかりの頃からブレヒトの芝居小屋を支えてくれたのは、
企業の中にいた津金の学生時代からの親友でした。
私は津金の志を受け継いで、その友人に支えられて、
海外公演や学校公演、野外公演などの場を創るプロデュースの仕事を、
女優としてと同時に続けることができたと想います。
彼らは実に意気揚々とやっていたから……私もそんな風に飛び込むことができたのです。
ブレヒトの芝居小屋に移るということは、
劇団の生き方の革命だったと思ってます。
ブレヒトの『コンミューンの日々』を1977年頃から例会作品として出し、
会員拡大の為に市民劇場、演劇鑑賞会と“労演”から名前を変えはじめた流れに逆らって広渡常敏と東京演劇アンサンブルは各地で論争し、
津金はその最先端にいました。
パリ・コンミューンの芝居は一つも例会にとられせんでした。
労演へ革命をともに語ろうと呼びかけて、大衆化の路線に逆行すると、拒否されたのです。

演劇鑑賞会公演がなくなっても、
自分たち自身で学校を訪ね公演をつくろうと、
劇団は高校演劇鑑賞の舞台に賭けました。
映画放送部も廃止し、今の状況にたちむかう芝居だけをしようと。
その選択で脱落する人がいたし、
逆にそれを過激に求め同じ激しさに飛び込まない人を排除する人たちがいて、80年代に2回大きな脱退がありました。

丁度その頃文化庁の海外交流事業が始まりニューヨークに『桜の森の満開の下』モスクワに『かもめ』を持って行くことができました。
バブルの始まりでもあり、友人の企業人が中心につくってくれたケンタウルスの会と名付けた後援組織にも支えられました。
ローマ・ハノイに『沖縄』を持って行くころバブルは終わりました。
でも海外公演に行く前には約半数が抜けたあやうい劇団が、
ブレヒトの芝居小屋から世界に発信する芝居を生み出す新しい歩みをはじめていました。



それからタリさんの晩年の20年ブレヒトの芝居小屋を中心に、多様な独自の演劇活動が展開しました。
芝居小屋の小さな額の中の白黒写真。
モスクワや、ニューヨークや、ベルリンや、ローマや、ダブリンや……日本各地での野外公演などの写真。
その一枚一枚を見ていると浮かび上がる沢山の人と出来ごと。
1987年からの広渡常敏最後の20年の芝居を、ともに創ったというのは、私の誇りです。
岸田国士の2年にわたる連続公演から、海外戯曲の初演、
木下順二、久保栄、秋元松代の新演出、広渡常敏のオリジナル、
そして勿論ブレヒト、チェーホフの繰り返しの上演。
ブレヒトの芝居小屋だけでのたった5回の公演も多かったけれど、
どれもその当時の世界の状況と向き合い、
人間としての存在を自身に問う、前衛的であろうとした公演でした。
そのなかで格闘した沢山の役を演じた稽古場と本番が私にとってのブレヒトの芝居小屋そのものです。
ベルリナー・アンサンブルからブレヒト没後50年のフェスに招かれ、
『ガリレイの生涯』を演じて帰ってきたことを報告できたことを忘れられません。
足りさんの満足そうな顔。

闇へ落下する時たちのぼる鮮やかな景色に身をまかせる瞬間!
その瞬間を生きること。
いのちの空間・ブレヒトの芝居小屋。

ブレヒトの芝居小屋で私は革命を生きたと思います。
ここを去る時にもおこるだろう革命。
生き抜きたいと思います。

芝居小屋での40年を語ろうとして、また総括的で、出来事の羅列になってしまいました。
「私たちやってきた、そしてこれからもやる」



一つ一つ芝居を創ることでしか語れません。

この度の基金のお願いで、
思いがけなく芝居小屋のはじめの頃を知っているいろいろな方からもご喜捨をいただき感謝の気持ちで一杯です。
その方との関わりから、その時の芝居が蘇ります。

「未来は、自らが創る。自分たちの価値は自分で創る」そう言い続けてきました。今もまだ。

次回は小森明子。
制作者としての喜びから、演出家としての喜びを求める。
闇に飛び込んだらその華麗な景色を堪能するしかないよね。