これは本当に本末転倒じゃないかなぁ。
— 岩崎ルイ54世 (@ringringbell7) 2019年7月24日
こういう方々の声を届ける『代弁者』が政治家であって、本人たちが出てきて議事進行に支障をきたすのは、キツイ言い方だけど迷惑行為にしかならない。それを助けるのが「優しさ」でもない。https://t.co/XmJ912zuwV
私としては、雑な、日常的な言葉で言えば「たまにゃええやろ」である。
いま少し賢げに言えば、「一定数存在する障害者を直接、視覚的にも代表するような議員があってもよかろう。不可視的であった問題をその他一般にも明らかにする広告効果的なものはあろうし、当人たちもそれを覚悟して出てきているだろう。状況に一定の改善が期待できる―障害者の状況理解についても、なんらかの待遇改善についても」。
④国会を「陳情の場」と誤解
— 岩崎ルイ54世 (@ringringbell7) 2019年7月26日
当事者の参加に重きを置く方がいますが、国会は様々な角度からバランスを見出す利害調整の場でもあります。言いたいことを言う陳情の場ではなく、結局は落とし所を見つける必要があり、当事者性より調整能力の方が重要です。そして調整能力を発揮する上での重要な能力に↓
当事者性があるからいーやー、というのは、広告効果、視覚効果のかぎりといえようか。さしあたりこれで最低限の仕事はし終わったことになるだろう(まあつまり、”タレント”議員の類の低質な層と同様程度の影響力は果たしたといえよう)。しかし国会議員としての評価は別物で、調整能力に期待する向きもあるだろうし、理論的闘争能力に期待する向きもあろう。どこにどう能力を発揮し、次の当選につなげることができるか、は次の問題である。
最後に。結局のところこの話は、障碍者も健常者もお互い少しずつの不便ですむよう、どこでバランスを取るのか?の問題提起です。
— 岩崎ルイ54世 (@ringringbell7) 2019年7月26日
批判リプを下さった方の中に、国会審議の効率性が落ちて審議される議案数や審議時間が減った場合、他の問題で困っている人はどうするのかに目を向ける方は皆無でした↓
この、「他の問題」についての取り組みも今後の評価に関わるわけである。
―この障害者議員たちは、まあまずは当事者性のあるところに中核的に取り組むことであろうが、それ以外に何の取り組みもしないで済むだろうか? しないのなら、低質な議員と評価されることになるだろう。
例えば山田太郎(ちゃんとしたほうの太郎)氏が表現の自由・著作権問題について活動する、と言明するとして、「他の問題で困っている人はどうするのかに目を向ける」ことがない(であろう)と非難するのは、予め評価してしまうのは、いささか失当という感がある。
この4万を超える「いいね」こそが、いかにこれまで障害者を排除してきたかの定量的視覚化なのである。てか、ここまでヒドいとはオレも思わなかった。ある意味、世間をなめてた。 https://t.co/uqWBLO8Lrq
— Hironobu SUZUKI (@HironobuSUZUKI) 2019年7月25日
まあ、”かわいそうな障害者たちのことについては健常者である我々がかわいそうにおもって配慮してあげるからかわいそうがられていなさい”という意識は、そりゃあまああろうよねえ。
こういう報道が出てくるのも、彼らにまともな政治活動ができないことを見越して、あらかじめ牽制しておきたいということなんでしょう。許して見守るのが「優しさ」なんだという刷り込みで、文句を言いづらくさせると。
— 岩崎ルイ54世 (@ringringbell7) 2019年7月24日
「彼らにまともな政治活動ができないことを見越して」と、既に”議員失格”という評価を下した後でものを語っていることが明らかなのである。
後続は
今後、実際に活動を始めれば、間違いなく様々な支障が出るでしょう。その時に「これを許すのは優しさではない」とハッキリ言うためにも、今の段階から「自らの意思で議員になった以上、言い訳はできない。他の方と同じレベルの仕事をする必要がある」と繰り返し言っとかなきゃいけないと思います。
— 岩崎ルイ54世 (@ringringbell7) 2019年7月24日
とあって、”今後の働きで評価されるだろう”という観点を持っているように書いているものの、そもそも「彼らにまともな政治活動ができないこと」を予め評価し終えてからいっているので、循環論法になっちゃうのである。
まあ、「他の方と同じレベルの仕事をする必要」を厳しくとりすぎると、記事中にもあるように自力での歩行が困難だった鳩山一郎の例をどうみるか、なんてことも問題になっていく。どうあればまず満足な議員としての活動であるのか―「我々の代表」として及第点であるのか―その評価も含め、これからの問題なのだ。
そしてその過程は、この二議員の評価だけでなく、我々自身を構築しなおす過程であるのだ。
障害者を、予め”まともな活動ができない”と評価して社会生活から可能な限り排除したままで行くのか、たとえばたまにはホーキングみたいなのんがありえるとみて受容の用意だけはたまに進めてみることをよしとするのか、まあ―
―一切を客体とするが如き、神の視点の如き立場で諸種の事項に裁きを下す大権威者っぽい全能感に身をゆだねつづけるだけじゃなく、まー自分も問われているぞということに多少意識を持っても良いだろう。
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