空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

萌えとエロと、そうした感覚に関する世代差とに注意

2018-10-07 17:08:25 | ノート



 これが、世代差がありましてな。

「今の」デフォルトになってきた萌え絵は、恐らく「今の」30代の一定部分、「今の」40代以上の相当部分にとってエロと結びついたなにものかであるのだろうと思われる。
 この世代だと、少年少女時代の子供向け文庫などは”伝統的”なものであった。

 ところが、これ以下の世代だと、少年少女向けのあれこれは最初っから(今の40代以上の主張の強い方々にとってはエロと見えるタイプの)萌え絵が若年時以来標準的になってしまっており、おそらくこの世代にとっては「萌え絵である」ことはそのままエロであることを意味しない、ものと思われる。



 そして主張の強い方々にとっては「萌え絵」の種類の区別がつかないため、すべてシームレスでエロに見えてしまったりする一方、若年時に慣れてしまった世代にとっては、年長者には僅かとみえる差異で個々に文脈を判定しているものではないか。

 …ある種の自動的な判別ができたりする、そんな文脈の力に依存するものでもあり―エロというのはそういうものでもあろう、例えば未開民族のほぼ全裸の男性・女性の写真に、こう、ぐぅっと来るということはまああまり考えられない―、嘘だと思うならとりあえず「スクール水着」でgoogleの画像検索をかけてみればいい。

 なにが起こっているのか?

 …リアル女子小学生のスクール水着は、おっさんおばはんたちの時代と違い、丈が半ズボンくらいあったりするのである。太ももの上の部分は見えない。ミニスカの丈までびっちり布で覆われるのであり、スカートのほうが風でめくれて中身がみえるだけエロいと評価すべきかもしれない。

 で、ほかの、あからさまに「こっち」に目線をくれている、しかもモデルさんの年齢が「いやお前合法だろう」という感がバリバリだったりするほうは、旧来の丈だったり変に穴だらけだったり「新品 セクシー 胸開き スクー」っておいそれは紐といわないかそれは、というものだったりする。
激レア廃盤いもうと倶楽部スクール水」おいまて絶対違うだろう君。
鈴木奈々29歳、中学生以来のスクー」せやから。

 つまりですな、恐らく今もエロゲとかエロ漫画とかで、「旧タイプの」スクール水着が現役で活躍しており、「スクール水着」がエロのアイコンとして機能しているのは確かであろうが、しかしそれは既に、現在の現実のスクール水着とは別物である。旧タイプで描かれるかぎりのエロ漫画・エロゲは、既に現在の若者には現実の再演ではなく、それ自体で既に半ば異世界ファンタジーに近い。この場合、旧タイプスクール水着であればすなわち(10~20年くらいは年上のおっさんむけ)エロ案件である、という脳内変換が行われるものと思われる。

 …ヌード写真の代表例として、樋口可南子(1958年生)を思い起こすのは、これで興奮できる(できた)のは、1991年ころに20~30代(ないしその上)であった世代ではないか? それ以下なら、むしろこれは「ヘアヌード解禁へ踏み出した金字塔的作品」という歴史の証言者としての価値が、世代が若くなるにつれ、大きくなるだろう。

 …ああ、宮沢りえ(1973年生)も1991年か。こちらは、恐らく当時、樋口可南子より対象年齢が低かったかと思われる。
 いやまあ、当時18歳の子が、同じ額出すとして、どっちを買うかというのは統計的には明らかではないかなあ。



 ともあれ。

 こうした世代差への微妙な注意を無視して「これはエロ。だってオレがエロだって思ったから。性欲は全世代全人類に共通。だからこれは不変普遍にエロ。ということで禁止」みたいな雑な偏見を垂れ流しにしていても、現に守られるべき者たちから「あっ、そーすか。おつかれさんでーす(ンな昭和の●●なんか、いまさら意味あんの?)」みたいな流され方をされるのではないかと思われる。

 チェックはしてないが、「プリキュア」とかでももはや「そぅ」なっていっているのではないか。

 まあその、現実的には、そこらのロリ漫画とか見ているひとびと・供給しているひとびとは、その製作者・消費者の性的関心を呼び起こすギミックに依存せざるを得ず、従ってこの文脈でいえば旧タイプスクール水着を描かざるを得ず、新タイプ・現行タイプには興味関心を持たない・それによって関心を喚起されないだろう。

 つまり現実の小学校のプールを覗こうという関心は起きない傾向性をもつといえる。
 つうか実際、目の前に展開しても、まったく性的に思えない。ついでながら、おおなるほど、Maedchenって中性だったよな、と割と深く納得した。

「子供たちを守れ!」と言いたいらしい場合、通例、ロリエロ漫画描き・読みをしばけ、という方向の「ご見識」が乱舞するが、それはおそらく明らかに迂遠な策であり、現行タイプのスクール水着に反応すガチな方面への対応を主たる考慮対象とすべきだろう、と思うのだが。





 そーね。

 まあいいじゃんと放置していたら、小説如きが大文学のような面をして書肆にならぶような惨状に立ち至ったね。
「いまどきの若いもんは小説も読まんのか」と年寄りが言い垂れる世の中がしばらく続き、小説を読むのが教養人の証のように思われるような惨状のさらに先の惨状が展開し、さらに「いまどきの若いもんは漫画も読まんのか」とまで言われるようになったね。

 そんな感じで、全人民無教養という大変な結果になったねえ、と明治初年におっちゃんだったひとたちは思うだろう。



 ということで、どの水準をあるべき水準として設定するんでしょうか。

 ふつう、自分が若い頃に”教養”として設定されていたようなあたりを理想化して若い世代に押し付けようとしますよね、こういうご意見って。

 …流石に私でも、漢文を白文ですらすらとはいかんぞ。こういう教養オジサンたちって、こんなふうなマウンティングされて平気なんだろうか。ぼくはさほど平気じゃないから、あまりいわないけどなあ。中高の教科書はおさえておけよ、とは言うけど。



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