「学校で教わらなかった」と聞くことがあるけれど、自身をかえりみつつ、本当は教わったし教科書にもあるけどたいして聞いてなかった、注意を払わなかった、忘れた、ということ多々あるのでは…または教科書にはあるけど授業で扱わなかったとか…それが「教わらなかった」になってるのではという疑念
— Kogo Eriko (@morinoshita03) 2019年7月21日
こういう態度が哀しいのは、自分が今もう完成されてしまった人間で、高校までの自分の限られた知識と経験がすべてで、自分の変化や成長を忌避することが省エネであるとふるまっているようにみえるから…
— Kogo Eriko (@morinoshita03) 2019年7月21日
こうした学生の態度にぶつかるのは10年くらい前からすでにあったし、もっと前にもあったろうけれど、近年の社会ではそこにいっそうの疲れと老いと攻撃性を感じるので余計に哀しみが深い
— Kogo Eriko (@morinoshita03) 2019年7月21日
どうも、気に食わない先生・科目の授業を(日本語的意味で)サボタージュする向きがあり、多少対応に困らんでもない。教育的な指導をしようにも、そもそも寝ていたりするので、そもそも聞いてない・聞かない・聞いていないことにしている、と思われる。
私としては自由は、出来るだけ幅広く認められるといいかなあと思う思想なので、無理に起こすのも難だし―そもそも起こしに行っても即座に寝る態勢に戻るわけで、まあなんとしたものか。一応ノートを取る行動はとっているので、まあそこそこは放任するわけですが。
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