少々供養塔についてチェックしており、それで気になった例をメモ。
角田市観光情報ココカクダ 文永十二年銘供養碑
「この板碑は藤田寺境内の西側にあり、県内でも珍しい文永12年(1275年)の建立である。
1968年10月1日に角田市文化財に指定された」
彫られている偈頌は「轉經行道願往生淨土法事讚」(大正蔵47巻0427c21~0428a07の範囲) から。
「弘誓多門四十八 遍標念佛最為親
人能念佛佛還念 專心想佛佛知人」
藤田寺の開基は慈覚大師円仁(794~864)という。
角田市観光情報ココカクダ 医王山 藤田寺
「天台宗・医王山藤田寺は、慈覚大師の開山と伝えられる。
その後荒廃したが元禄(1688年)の初め、中興開山良忠法印が伊達藩主の命により薬師如来を勧請し、地方の鎮守仏として再興した。入り口から31段の参道を登ると、峯の薬師堂がある」
近くに医王城(廃城)があるが、その名はむしろこちらの藤田寺から来たか。医王城は亘理元宗によるという。ならばそれは1500年代。特に医王という名が発生するには、薬師如来を本尊とする寺か何かが必要だろう。それは中興以前、荒廃する以前にそもそも薬師を本尊とした寺があったからではないか。
石仏と石塔! 峯薬師堂 阿弥陀三尊種子二連板碑
「藤田寺境内奥、峯薬師堂の参道脇に立つ二連板碑で、鎌倉時代中期 文永十二年(1275)の紀年銘がある。」
「板碑は、亘理氏(わたりし)の城館とされる医王城跡から移されたと伝えるが不明。」
ネットを簡単に見る限りではこの程度か。
角田市観光情報ココカクダ 文永十二年銘供養碑
「この板碑は藤田寺境内の西側にあり、県内でも珍しい文永12年(1275年)の建立である。
1968年10月1日に角田市文化財に指定された」
彫られている偈頌は「轉經行道願往生淨土法事讚」(大正蔵47巻0427c21~0428a07の範囲) から。
「弘誓多門四十八 遍標念佛最為親
人能念佛佛還念 專心想佛佛知人」
藤田寺の開基は慈覚大師円仁(794~864)という。
角田市観光情報ココカクダ 医王山 藤田寺
「天台宗・医王山藤田寺は、慈覚大師の開山と伝えられる。
その後荒廃したが元禄(1688年)の初め、中興開山良忠法印が伊達藩主の命により薬師如来を勧請し、地方の鎮守仏として再興した。入り口から31段の参道を登ると、峯の薬師堂がある」
近くに医王城(廃城)があるが、その名はむしろこちらの藤田寺から来たか。医王城は亘理元宗によるという。ならばそれは1500年代。特に医王という名が発生するには、薬師如来を本尊とする寺か何かが必要だろう。それは中興以前、荒廃する以前にそもそも薬師を本尊とした寺があったからではないか。
石仏と石塔! 峯薬師堂 阿弥陀三尊種子二連板碑
「藤田寺境内奥、峯薬師堂の参道脇に立つ二連板碑で、鎌倉時代中期 文永十二年(1275)の紀年銘がある。」
「板碑は、亘理氏(わたりし)の城館とされる医王城跡から移されたと伝えるが不明。」
ネットを簡単に見る限りではこの程度か。
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