ふと思うことがあった。
先日の「
観察記 17Nov2008 + α」コメント欄でネタにした「ぼくのかんがえたくーでたー」な子。こんな子が目の前にいたら,僕はどうするだろう? どうしなきゃいけないだろう? とふと思ったのだ。コレに対する答えはある意味明快で,「なにもしない」「をちして楽しむ」なわけだが―。
…いや『相手するだけ時間の無駄』とか,『眺めて楽しむ以上の効用がない』とかそーいう大変尤もな理由はあるんだけど,僕はいちおー"疑いの無い左翼"と嘗ていわれたほどの自由民主主義者であって,憂国の騎士様方や革命闘士様方や真実の信仰の殉教者方のよーな対応を取れないとゆー思想的理由もあるのだなと。
つまり彼らがそーいう思想を抱き,発表し,誰かを説き伏せようとするのは自由であって,例えば喫煙権のように『誰かそれを嫌がる人の鼻先まで』その自由は護られねばならない。
無論これについて,「議論をもって応じて彼(女)を打破しようとする自由」もこっちにあるわけではあるが,それを行使しない自由も無論あるのであって,私としては自分の時間を有効活用するべく,個人的幸福を追求すべく行動すべきであるというわけだ。
尤もこれは個人レベルのことであって,それを超えた動きについてはある程度の行動を起こすべきなんでしょうけど(市民的義務として)。
つまり,田母神氏がアレな意見を表明するのは自由であり(その愚かな行動によって職を喪うのは完全に自己責任であって),あのアレなエッセイを『ヲヲヲこれぞ二ホンダンジの本懐ッ! 赫々たる大論文に絶大な支持ヲッ!』と賞讃するのも自由であり(知性が疑われるのであまりお奨めしないが),「斯くの如き(中略)シビリアンコントロール(以下略)」と唸るのも自由である(だからシビリアンコントロールは完全に機能してるってば)のだが,退職金返納を強要したり,規定に無い懲戒措置を求めたり,まさかやるバカやってるバカはいないと思うけどそーしたことを求めるなんらかの組織的行動をおこしたりは,既に保障された自由を逸脱する気配のある行動だと(『だって思想行動の自由は保障されてるじゃん!』という向きには,そりゃアンタそれはそーだが,それによって他者の自由を侵害しようとしたり財産だのの権利を侵したり法の手続きをぶっ飛ばそうとしたりするのはまずいだろう)。
まークーデター妄想公表までいくと,「すわ一大事」と思う方が出てこようというものですが,この場合はむしろ秘匿して行動せざるべからざるはずの行動を行動宣言さえ未成でダダ漏れさせてる時点で笑いのネタ以上の何ものにもなりえないのであって…こめかみに指を当てつつヲチする以上どーしろと,というものではある。
嗚呼悲しきかな自由民主主義者。これほどまでの電波少年の権利をさえ,君は護られなければならぬものと獅子吼するのである! …とゆーのも憂鬱なんで,微笑ましく眺めるままにしておこうと思うのでしたり。
ところでこの件で思い出したネタは寧ろこれでして:「耳学問:米国キリスト教事情とイスラミストを思い出す件」。
問題とすべきはクーデター少年ではなく(どーせその手のはいくらも出てくる),現実に行動し,諸種の団体を掌握するような行動力と説得力を持ち合わせた分子であって―真に我々が憂鬱にならざるを得ない時はまさにその時,『自由な社会を護るため,自由社会のルールを(一応形ばかりは)守りつつ勢力を拡大する非寛容な勢力と対峙,彼らを打破せねばならなくなるとき』であろう。
幸い,現代社会では,メートル法反対国民運動とかみたいなのは存在していない,または力をそうもってはいないようなので,まぁ私としてはそれほど危機感をもっていはしないのです。
ここまで書いて『ああこれ,釣になってるな』と気付いたんですが―例えば『国籍法改正案がアツいのを知らないかああそうか新聞も読まない無教養なヤツかそうかじゃあ教えてやるよ』とかゆーひとを釣るような―,寧ろそーいうひとはここまでの長文を読むなんてことはそもそも避けるであろうとか思うと,つまり以上は釣として成立していないのであって,じゃあなんだいつものことだ。ところで日本語の新聞は精神安定のためもあって碌々みやしませんが何か。じゃあ日記終わり。
先日の「
観察記 17Nov2008 + α」コメント欄でネタにした「ぼくのかんがえたくーでたー」な子。こんな子が目の前にいたら,僕はどうするだろう? どうしなきゃいけないだろう? とふと思ったのだ。コレに対する答えはある意味明快で,「なにもしない」「をちして楽しむ」なわけだが―。
…いや『相手するだけ時間の無駄』とか,『眺めて楽しむ以上の効用がない』とかそーいう大変尤もな理由はあるんだけど,僕はいちおー"疑いの無い左翼"と嘗ていわれたほどの自由民主主義者であって,憂国の騎士様方や革命闘士様方や真実の信仰の殉教者方のよーな対応を取れないとゆー思想的理由もあるのだなと。
つまり彼らがそーいう思想を抱き,発表し,誰かを説き伏せようとするのは自由であって,例えば喫煙権のように『誰かそれを嫌がる人の鼻先まで』その自由は護られねばならない。
無論これについて,「議論をもって応じて彼(女)を打破しようとする自由」もこっちにあるわけではあるが,それを行使しない自由も無論あるのであって,私としては自分の時間を有効活用するべく,個人的幸福を追求すべく行動すべきであるというわけだ。
尤もこれは個人レベルのことであって,それを超えた動きについてはある程度の行動を起こすべきなんでしょうけど(市民的義務として)。
つまり,田母神氏がアレな意見を表明するのは自由であり(その愚かな行動によって職を喪うのは完全に自己責任であって),あのアレなエッセイを『ヲヲヲこれぞ二ホンダンジの本懐ッ! 赫々たる大論文に絶大な支持ヲッ!』と賞讃するのも自由であり(知性が疑われるのであまりお奨めしないが),「斯くの如き(中略)シビリアンコントロール(以下略)」と唸るのも自由である(だからシビリアンコントロールは完全に機能してるってば)のだが,退職金返納を強要したり,規定に無い懲戒措置を求めたり,まさかやるバカやってるバカはいないと思うけどそーしたことを求めるなんらかの組織的行動をおこしたりは,既に保障された自由を逸脱する気配のある行動だと(『だって思想行動の自由は保障されてるじゃん!』という向きには,そりゃアンタそれはそーだが,それによって他者の自由を侵害しようとしたり財産だのの権利を侵したり法の手続きをぶっ飛ばそうとしたりするのはまずいだろう)。
まークーデター妄想公表までいくと,「すわ一大事」と思う方が出てこようというものですが,この場合はむしろ秘匿して行動せざるべからざるはずの行動を行動宣言さえ未成でダダ漏れさせてる時点で笑いのネタ以上の何ものにもなりえないのであって…こめかみに指を当てつつヲチする以上どーしろと,というものではある。
嗚呼悲しきかな自由民主主義者。これほどまでの電波少年の権利をさえ,君は護られなければならぬものと獅子吼するのである! …とゆーのも憂鬱なんで,微笑ましく眺めるままにしておこうと思うのでしたり。
ところでこの件で思い出したネタは寧ろこれでして:「耳学問:米国キリスト教事情とイスラミストを思い出す件」。
問題とすべきはクーデター少年ではなく(どーせその手のはいくらも出てくる),現実に行動し,諸種の団体を掌握するような行動力と説得力を持ち合わせた分子であって―真に我々が憂鬱にならざるを得ない時はまさにその時,『自由な社会を護るため,自由社会のルールを(一応形ばかりは)守りつつ勢力を拡大する非寛容な勢力と対峙,彼らを打破せねばならなくなるとき』であろう。
幸い,現代社会では,メートル法反対国民運動とかみたいなのは存在していない,または力をそうもってはいないようなので,まぁ私としてはそれほど危機感をもっていはしないのです。
ここまで書いて『ああこれ,釣になってるな』と気付いたんですが―例えば『国籍法改正案がアツいのを知らないかああそうか新聞も読まない無教養なヤツかそうかじゃあ教えてやるよ』とかゆーひとを釣るような―,寧ろそーいうひとはここまでの長文を読むなんてことはそもそも避けるであろうとか思うと,つまり以上は釣として成立していないのであって,じゃあなんだいつものことだ。ところで日本語の新聞は精神安定のためもあって碌々みやしませんが何か。じゃあ日記終わり。
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