鹿島神宮:奥の院に向かう参道には、神宮の長い歴史と共に生育してきた、巨木・名木が沢山あります。
境内約70ヘクタールに繁茂する植物は一千種の多種にわたり、それらは実に多彩で趣き豊か。 特にこの鹿島の森は、南限北限の植物が同生する「極相林」だそうで、植物学的にも非常に貴重なものだそうです。
奥参道の入口には、陸奥磐城平藩の第5代藩主『安藤対馬守』が、元和5年(1619)に奉納した石灯籠があります。さすがに歴史的に裏打ちがある有名人からの奉納は特別扱い😅。
参道を真っ直ぐ進んだ突き当たりに『武甕槌大神荒魂』をご祭神とする「奥宮」が静かに・・・とても静かに鎮座されています。
三間社流造、向拝一間、檜皮葺の社殿は、やはり本殿と同じように北向きに鎮座されています。
社殿は『徳川家康』が関ヶ原戦勝の御礼として、慶長10年(1605)に本宮として奉納したもの。 その14年後、新たな社殿を建てるにあたり、現在のこの位置に遷して『荒魂』を祀りました。
本殿の社殿四棟と同じく、こちらの「奥宮」も、明治34年に国重要文化財の指定を受けています。
「奥宮」の御朱印は本殿と同じ社務所で頂けますが、頂いた瞬間に思わず「ほ・・・・😊」となる美しさ。 御朱印の良し悪しを思うのは本来はNGでしょうが、やはり綺麗な御朱印は嬉しいものです。
奥宮の向かいには、明和3年(1766)建立の芭蕉の句碑。芭蕉は貞享4年(1687)年に仏頂和尚を訪ねて鹿島を訪れ、その際に鹿島神宮にも参詣しています。
【 この松の 実生(みばえ)せし代や 神の秋】(この松が種から芽を出したであろう頃の、はるかな昔が偲ばれる、神前の秋の気色だよ。)
奥宮を後にして進むと又しても芭蕉さんの句碑
【 枯枝に 鴉(あ)のとまりけり 穐(あき)の暮】(枯れ枝にカラスが一羽留まっているその様子が、寂しく見えて秋の夕暮れらしい趣だ)
句碑の近くには、地震を引き起こす大鯰を取り押さえる「鹿島明神」の碑。
「鹿島神宮」の「要石」は、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています。 先の「香取神宮の要石」が鯰の尻尾を抑えていると云われているので、確かにこれでは身動きできませんね😅
万葉集にも要石を詠った歌があり【ゆるげども よもや抜けじの要石 鹿島の神の あらん限りは】(天地がいかに揺らぐといっても、よもや動きはしまい。この世に鹿島の神がおられる限りは)
「黄門仁徳録」によれば[ 水戸の徳川光圀公が、この要石を怪しみ、どこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた】と記されており、好奇心旺盛と言うか、怖いもの知らずと言うか・・、確かこの方、香取の要石も掘って、結局、諦めた筈😩
要石の左正面には、明治27年(1984)奉納の『 船茂孝阿』の歌碑。
【霰(あられ)降る 鹿島のもりの要石 動かぬ国の 鎮めなるなり】
要石の横に小林一茶の句の木札【大地震(おおなまず)に びくともせぬや 松の花】
そういえば、御朱印を頂くため社務所で待っていた折、面白い絵を見つけて写真に撮りました。 沢山の鯰を前にしたお白州で、安政の大地震を引き起こした鯰に有罪の鉄槌を下す鹿島神・神官の図・・・かな?
こちらは、歌舞伎の名場面をなぞって、鯰坊主の頭を要石で押さえつける歌舞伎の看板役者、この当時なら「成田屋」・・かな?
句碑ではありませんが、灯明を入れる火袋の部分が無い灯篭で、安永五年(1775)の奉納と記されています。 それにしても笠と中台がくっついた状態は、長い年月の間のアクシデント?それとも故意にこのように作られたのでしょうか?
それでは不思議な石灯籠を最後に、今度はゆっくりと隅から隅まで探索しながら引き返しましょう。
参拝日:2014年5月17日&2019年3月13日
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