鹿嶋市宮中に鎮座される「鹿島神宮」。御祭神は『武甕槌大神』。式内社で常陸国一宮。全国にある鹿島神社の総本社。神域の入り口・一の鳥居は、東日本大震災で倒壊した鳥居に替わり、境内に自生する杉の巨木で再建されました。
奈良時代、東国から防人として旅だつ人々は、鹿島神の前に立って旅の祈願をしました。見知らぬ地で戦に臨む人々にとって、武運の神である鹿島神は、何よりも強い心の拠り所だったのでしょう。『大舎人部千文』、常陸国那賀郡の人。天平勝宝7年(755)2月、防人として筑紫に派遣される。
【霰降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に 吾は来にしを】
古く『常陸国風土記』では「香島」と記載される東国随一の古社。同風土記の中では「香島の天の大神」とされる御祭神。
由緒に「初代『神武天皇』の御代、東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥るも、『武甕槌大神』の「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威により救われました。この神恩に感謝され、御即位の皇紀元年に、大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。」
東京ドーム15個分に及ぶ境内地は、国史跡、また社殿七棟が、国重要文化財に指定。鹿を神使とすることでも知られ、参道や境内には「鹿島の鹿」に関する場所も多く存在します。
国指定重要文化財の「楼門」は、左右に接続する回廊ともども、寛永11年(1634)の造営。 初代水戸藩主『徳川頼房卿』により奉納され、昭和15年(1940)の大修理の際、丹塗りとなりました。日本三大楼門の一つに数えられており、残る二つは「福岡:筥崎宮」「熊本:阿蘇神社」です。
「楼門」の内陣左右には、紙垂(しで)と共に雷をモチーフにした銅鏡が収められています。 御神名の『ミカヅチ』は『御雷』とも記され、「雷(いかづち)」の神の意を持ちます。
見事な鳳凰の彫刻ですが、位置が高いのに加え、金網に保護されている為、撮影は今一つ。それでも木々の葉を背景に、美しく羽を広げる姿は名工の作と聞いて納得できる素晴らしさ。
楼門の左に聳える杉の巨木は樹齢約700年、境内で二番目という事で「二郎杉」と呼ばれています。樹齢が二番目なのか、大きさが二番目なのか、その辺は判然としていませんが・・
「二郎杉」の近くには「芭蕉(存疑)句碑」【名月や 鶴脛高き 遠干潟】
さらに、地元をホームとする「鹿島アントラーズ」の「必勝祈願大絵馬」も奉納されています。何と言っても御祭神は戦の神様、あやからねば!!ですね。
桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺の拝殿は、北向きに建立。 拝殿の後方には、神宮の森で最も古く最も大きい、樹齢約1,300年を数える御神木の杉が見えます。
一見、質素とも思える拝殿の内には幾重にも御簾や幕がかかり、その奥に御神体に通じる漆戸が見えます。 これまでの人生で、昇殿参拝などの経験はごく僅かですが、何とも言えぬ神聖な気が心地よく😊。
拝殿から幣殿・石の間を経て鎮座される三間社流造の本殿は、東を向いて居ると言われます。こうした特異な例として、島根の「出雲大社」の御本殿が西を向いていると言う事ですが、もしかしてこれもレイラインの成せる技でしょうか。
桃山期の極彩色が華やかな社殿の奉納は、元和5年(1619)徳川二代将軍『秀忠公』によるもので、拝殿・幣殿・石の間・本殿の四棟の社殿すべてが国指定重要文化財。
「仮殿」は社殿造営のため『徳川秀忠公』が元和4年(1617)に奉納。こちらもむろん重文指定。本殿の造営に当たっては、まずこの仮殿に神様をお遷ししてから旧本殿を奥宮まで曳き、その跡地に社殿を造営、改めて御神体が遷座されました。
拝殿前に鎮座される「高房社」。御祭神は「鹿島神」に従い『天香々背男(あめのかがせお)』を討伐した『建葉槌神(たけはづちのかみ)』 「常陸国二の宮:静神社」の祭神でもあり、本社参拝の前に詣でるのが古例とされています。
広大な神域はまだまだ続きますが、明日は奥宮から要石までをたどって紹介したいと思います。
参拝日:2014年5月17日&2019年3月13日
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