大仙陵古墳(仁徳天皇廟)に次ぐ全国第2位の規模である「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」へと至る周濠に架けられた石造りの「放生橋(羽曳野市指定有形文化財)」。17世紀後半から18世紀前半頃に建造されたと伝えられており、かつてはこの橋を渡って誉田御廟山古墳:後円部の墳丘に参拝できたと言います。
秋季大祭の一夜、応神天皇の魂を応神陵にお帰しする為に、方生橋を渡って神輿が渡られます。松明の明かりに照らされたその様は、きっと厳かで幽玄で心にひびく情景であろうと思います。
「誉田林古戦場址碑」。誉田八幡宮の付近は、南北朝、室町、戦国の各時代から江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため、再三戦場の舞台となりました。南北朝初期の正平年間、楠木正行は、金剛山から約30㎞離れた矢尾城を襲うと見せかけて、誉田八幡宮周辺に兵を潜ませて、合戦は後日かと油断した細川勢を急襲したと伝えられています。
句碑・・・読めません(Help me!)
御神馬
切妻造で大葺の四脚門「南大門」は江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門で、拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものです。大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものであり、切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられています。
南大門屋根にあった留蓋の獅子。全部で五体の獅子が、思い思いの姿勢で参拝者を見下ろしています。
東高野街道の角に置かれていた碑には、江戸時代の「車楽祭」の様子が描かれた解説図が添えられています。
「車楽祭」解説図の横に設置されていた、金の鳳凰が乗った常夜燈。右は、古市街道と東高野街道が交わる辻にあった道標二基。「富田林・長野・大峯山」などの文字が刻まれています。
参拝日:2015年10月10日
貴方のご指導のおかげで、私にも少し見る目が育ったのでしょうか。
躍動する五体の獅子の姿に、惹きつけられました。怖い顔をしていても、何となく愛嬌があり、親しみを覚えます。
獅子や狛犬を可愛いと表現すると
どんな目をしてるのなんて
友達にからかわれたものですが
獅子の姿に惹き付けられたと言って頂いて
本当に嬉しいです。