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富士山本宮浅間神社~其の一 in 静岡県富士宮市

2018年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

思わず鼻歌が出てきそうな上天気、向かう道の先には何時、どこで、(多分)誰と見ても美しい富士山(笑)

富士宮市宮町に鎮座される「富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)」。 式内社(名神大社)で、駿河国一宮。全国に約1,300社ある「浅間神社」の総本社。古来より「日本三大宮司」の1つに数えられていた『富士氏』が大宮司を務めていました。

「富士山」を神体山とし、主祭神は『木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)』。 ご祭神の夫神『瓊々杵尊(ににぎのみこと)』と、父神『大山祇神』を配祀。

『延喜式神名帳』には「浅間神社」と記載、明治時代に正式名を「富士山本宮浅間神社」に。昭和57年(1982)から「富士山本宮浅間大社」となり、「浅間大社」の略称が用いられています。

「浅間」の語源については諸説ありますが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされており、「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られています。また、ご祭神の『木花之佐久夜毘売命』は、別称を『浅間大神(あさまのおおかみ)』とも呼ばれます。
由緒に【垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。景行天皇の時代『日本武尊』は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際、『浅間大神』に祈念して難を逃れ、賊徒を平定。後に山宮(現 山宮浅間神社)に磐境を設け『浅間大神』を祀った。のち大同元年(806)、『平城天皇』の命により『坂上田村麻呂』が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。】

『徳川家康』により慶長9年に造営された本殿は、「浅間造」という独特の神社建築様式。 寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造という珍しい形式で、屋根は檜皮葺。 各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が附されており、国の重要文化財に指定されています。

二階正面の「蟇股(かえるまた)」には、非常に稀有とされる「菊花紋」と「葵紋」が並びます。ですが本殿でも重要とされる場所に施された彫刻は、一般参拝者が気軽に目にすることはできません。私たちのカメラでは、ピンボケの「菊花紋」と「五三桐紋」が精一杯。

透塀の向こう、本殿向かって左隣に鎮座されるのは「三之宮浅間神社」。御祭神は『浅間第三御子神(火遠理命(ほおりのみこと)』。別名『山幸彦』の名で知られています。

「三之宮浅間神社」の前に置かれているのは、奥宮の清浄な土地の砂「富士山浄砂(きよめずな)」。この砂は敷地の隅に撒いて清めたりする「お砂取り」に使われるもので、授与所に申し出れば一握りほどいただけるそうです。

同じく本殿向かって右隣に鎮座される「七之宮浅間神社」。御祭神は『浅間第七御子神』
「駿河国神名帳」に列する正三位浅間第七御子明神と考えられており、江戸期までは七之宮と称されていました。神名帳には『第一御子明神(火照命)』から『第十八御子明神』までの記載があります。このうち第一御子神は若之宮浅間神社に、第二御子神が二之宮浅間神社と、境外の神社に祀られています。

「七之宮浅間神社」の手前に奉納されていた「火山弾」ですが、この大きさで重さは約100キロ! 宝永の富士山噴火の折に境内に飛んできたと言われており、これほど整った形は非常に珍しいそうです。

「火山弾」と並んだ「南極の石」は、第七次南極観測船「ふじ」の乗り組み員が奉納したもの。「ふじ」を初めとする歴代の南極観測船には神棚が祀られており、出立の際には浅間大社に参拝し祈祷を受けているそうです。

見目麗しい「富士山本宮浅間神社」、2011年と2016年の二度に渡る参拝。この続きは明日の「富士山本宮浅間神社~其の二」で。

参拝日:2011年11月11日&2016年12月10日

 


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