車泊で「ご当地マンホール」

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玉崎(たまさき)神社~其の一 in 千葉県旭市飯岡

2019年08月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

旭市飯岡に鎮座される「玉﨑(たまさき)神社」。御祭神は『玉依姫尊(たまよりひめのみこと)』。配祀『日本武尊』

通称「明神様」とも称される古代の社で、下総国二宮、桃山・元禄文化の粋とも伝えられます。 旧社格は郷社、「神道集」には「玉﨑大明神者、此国二宮」「同本地十一面観音」とあります。

社伝に【景行天皇40年の創建。『弟橘媛』の入水によって無事上総国に着く事ができた『日本武尊』は、その霊異を畏み、玉の浦の東端「玉ヶ﨑」に、海神の娘である『玉依姫尊』を祀ったと伝えられる。中世には「下総國二之宮・玉の浦総社」と称された。天文2年、兵火によって社殿は烏有に帰し、現今の地に御遷座申し上げた。】

一間社流造の本殿は元禄年間、拝殿は嘉永5年(1852)の再建で県指定有形文化財(建造物)。 拝殿の随所には、名工『石田丹治栄貞』の見事な宮彫刻があるとの事、とても楽しみでした。   が・・・まさかのシート掛け、一応下調べはしていたのですが、この状況はまったく予想外。

折角ここまで来たのです、嘆いてみたって何も変わるわけもありません。幸いと言うか作業は終了しているようで、足場の隙間を縫うようにして、何とか画像に捉える事が出来たのは、向拝正面の親子龍。

見返る龍の顔部分を目一杯拡大してみると、親龍の目線の先に、見上げる子龍の顔がみえます。

外部四隅の柱上部には、阿吽の唐獅子の彫刻を、、向拝の柱上部には飛龍の籠彫りを配している。 と、神社HPよりの抜粋ですが、唐獅子の彫刻は残念ながら画像に捉える事はできませんでした。

宮彫刻に目の無い私、ここで初めて耳にした『石田丹治栄貞』について、ほんの少し。 15才で、仏師『利右衛門宰吉』の門をたたき、天賦の手腕と努力により『左甚五郎』にも劣らぬ、関東屈指の名工とうたわれるに至った『石田丹治』。名工が生み出す彫刻はしばしば不思議な伝説を生みますが、丹治の龍も白蛇と化し、玉の浦の水難で水夫を助け上げたと云われています。シートに覆われた社殿全体ですが、ちょっとした幸運でその内側を垣間見る事ができました。

組まれた足場を背景に拝殿前より神域を守護されるのは、明治9年(1876)6月吉日建立の江戸流れさん。 阿形さんは、きっと当時は精緻な彫が施されていたと思われる鞠に手を置いています。

吽形さんの右手の下の空白は、おそらく仔狛がいたのでしょうが、それも定かではありません。 固く結んだ口元がどことなく寂しそうに見えるのは、そう思ってみる私の思い込みの所為でしょう。

本殿後方の石塁(石垣)は、十七世紀中期の築造と推定され、飯岡石で造成されています。 海中より産出され石は「飯岡の寄石」と云われ、明神様の御利益によるものと伝えられてきました。旭市指定史跡の説明文の最期には、『平田篤胤』が飯岡石を見て詠んだ歌が添えられています。

【すめ神の  古く伝わるためしにや  玉よる御名を  かねてよる石】 

石塁の上には、楠の大樹に松の木がくっついた「夫婦木」と称される御神木があったそうで文化13年(1816)に当神社に参詣した『平田篤胤』は、その御神木を見て感動し歌に残しました。

【磐楠(いわくす)に  常盤の松のより副()ひて  千世を契りし ことの畏(かしこ)さ】

『平田篤胤』の歌碑の後になりましたが、「玉﨑神社」参拝の重要な目的の一つであった「昭和天皇御製碑」

【あめつちの 神にぞいのる朝なぎの  海のごとくに 波たたぬ世を】

昭和八年の歌会始でお詠みになられた御製は、まさに皇室とは祈りであると知らしめています。皇室の存在意義は祈りであると力説しても、ほとんどの人は意味を解さず怪訝な顔をするだけ。美しく民と共におわされた皇人(すめらびと)は、昭和と共に消え去ってしまった・・ように思えます。

飯岡に鎮座される「玉﨑神社」、境内にはまだ多くの文化財や境内社がありますが、続きは明日。

参拝日:2019年3月11日


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