車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大阪府吹田市のマンホールカード

2023年03月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(計301自治体342種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。

「吹田市」のマンホールカードは、「吹田市情報発信プラザ Inforestすいた」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには、サッカーボールを背景に「ガンバボーイ」と「すいたん」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「suitable cityスイタブルシティ 市のキャッチフレーズ」と「ガンバボーイ」と「すいたん」の写真とデザインの由来が書かれています。

「吹田市と本市にホームスタジアムを持つサッカーチーム・ガンバ大阪とのコラボ企画で生まれました。 向かって左がガンバ大阪の「ガンバボーイ」で、GAMBAの由来である「脚」をシンボリックに表現し、闘志溢れるエネルギーをその手でつかみとる姿。 右が市のイメージキャラクター「すいたん」で、サポーター番号の12がついたチームカラーの服を着ることで、「すいたんが、ガンバ大阪を応援しに行く姿」を表しています。 すいたんは、京都御所にも献上され、めでたい(芽が出る)食材として知られる「吹田くわい」がモチーフの縁起の良いキャラクター。 試合応援の際には必見のマンホール蓋です。」

配布先で頂いたマンホールマップ

座標軸マンホール

配布先に展示中の、新しいマンホール三種の紹介パネル

訪問日:2018年4月28日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 大阪府松原市

2023年03月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

松原市(まつばらし)は大阪府の中南部、南河内地域に位置する市です。日本書紀には、第18代反正天皇がこの地に「丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)」を置いた事が記されています。のちに、丹比柴籬宮跡は、「松生いし丹比の松原」といわれるようになり、松原の地名の由来はここから名付けられたと伝えられています。「市の木:マツ」「市の花:バラ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、丹北郡松原村・天美(あまみ)村・布忍(ぬのせ)村・恵我(えが)村・三宅村が発足。

1896年、郡の統廃合により、丹北郡が中河内郡に変更。

1942年、松原村が町制を施行、中河内郡松原町となる。

1947年、天美村が町制を施行、中河内郡天美町となる。

1955年、中河内郡松原町・天美町・布忍村・恵我村・三宅村が合併、松原市が発足。

1957年、南河内郡美原町大字丹南、北八下村大字河合を編入。現在に至ります。

マンホールには市章を中心に「市の木:マツ」「市の花:バラ」。合わせて「マツバラ」というしゃれを含んだ発想でデザインされています。

鴻池水未来センター展示マンホール

「市の木:マツ」「市の花:バラ」のタイル

昭和30年2月1日制定の市章は「「松原」の地名に基づく松の葉を2つの円形にあしらったもの。の市制施行にあたり、5カ町村のがっちりした結束を象徴しています。」公式HPより

「市の花:バラ」の側溝蓋

「市の花:バラ」の方位計

松原市のマスコットキャラクター『マッキー』。マツの妖精とバラの妖精の間に生まれた女の子。チャームポイントは、愛くるしい大きな瞳とバラ色ほっぺです。

撮影日:2009年6月20日&2016年11月24日

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マンホールカード いただきました

2021年4月25日、第14弾として41自治体で41種類(累計575自治体758種類)の マンホールカードの無料配布が開始されました。「松原市」のマンホールカードは、「(平日)松原市観光協会(休日)松原市役所宿直室」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには「市の木:松」と「市の花:バラ」がデザインされています。

「松原市の木「松」と花「バラ」をデザインしたマンホール蓋です。 松は長寿や節操を象徴するものとして喜ばれ、「松生し丹比の松原」と歌にも詠まれたことから地名の由来とされています。 また、日本を代表する「松」と西洋の花「バラ」を合わせ、松原市を世界に発展させていくことを目標に選定しました。 松原市には、古くは日本遺産に認定された竹内街道や長尾街道などの歴史街道、現在では西名阪、阪和、名神高速の各自動車道などが貫通し、昔も今も温和な気候と地理的環境により交通の要所として栄えています。 座標は全国で5番目に大きい前方後円墳の河内大塚山古墳のある場所です。」

 

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柏原市内あちこちウォッチ in 大阪府柏原市

2023年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

柏原市と藤井寺の間を流れる「石川」に架かる吊り橋「玉手橋(たまてばし)」。昭和3年(1928)に当時の大阪鉄道が、道明寺村(現:藤井寺市)側にある道明寺駅から石川対岸の玉手村(現:柏原市)側にある玉手山遊園地への通行路として設置。

長さ151m・幅員3.2mの5径間吊橋で、主塔と橋台は鉄筋コンクリート製。部分的に装飾を兼ねたレンガで補強されており、 上路部は鉄製トラス補剛桁。アスファルトで舗装されているものの、架橋構造は典型的な吊橋となっています。

玉手橋は歩行者・自転車専用ですが、吊り橋なので渡るときに少々揺れを感じる場合があるとの事・・・う~~~ん揺れるのか。では私には無理かも(^^;)

それでも二人でなら真ん中の市境くらいまでは行けるかも・・と、珍しく吊り橋に挑戦しようと思ったのですが、生憎と駐車スペースがなく・・路上停車のままとあっては気が急いてならず、写真に収めるだけという切ない結果に終わりました。

柏原市を流れる「石川」は、その昔は「伯太川」と呼ばれていました。平安貴族の優雅な舟あそび「曲水の宴」が催されたのは、どのあたりでしょうか?

柏原市今町にある「三田家(さんだけ)住宅」。柏原市では一軒だけの、国重要文化財の建物です。

「三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ)に接し、柏原船の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。」公式HPより

富商の代表的な住宅で、明和3年(1766)の建築以後、大きな手も加えずに現在に至っているとか。個人のお宅なので、なるべくコッソリ(って、まるで怪しい人みたい)写真に収めてきました。

碑らしきものが有ると、近寄って画像に残したくなるのが習い性となった私。この碑は「白坂神社」の近くでたまたま見つけた「高井田駅開業記念碑」

柏原市高井田にある「高井田駅」は西日本旅客鉄道:関西本線(大和路線)の駅。昭和60年(1985)8月29日に新設開業されました。

「高井田横穴群」の案内標なんていうのもあります。「高井田横穴」には総数200基以上の横穴墓があり、その多くが古墳時代の線刻画を伴うことで有名・・・だそうです。

「松岳山古墳」がある松岳山の丘陵から出土したという「船氏王後(ふねし おうご)墓誌」。現在は三井文庫が所蔵し、国宝に指定されています。

路上のいろはカルタまで駆り出しての柏原ウォッチですが、取り立てて重要文化財とか登録文化財でなくても素敵なところは沢山あります。ふっと通り過ぎた見知らぬ誰かのお宅の、思わず振り向かせる佇まい・・

訪問日:2009年6月20日&2015年10月10日

 

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二宮(ふたみや)神社 in 大阪府柏原市

2023年03月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府柏原市安堂町に鎮座される「二宮(ふたみや)神社」。御祭神は『素盞嗚尊・武甕槌尊・經津主命・天兒屋根命・比売大神』。神社に至る道は非常に狭い上り坂、ナビが導かなければ絶対に引き返してた・・(^^;) やっとたどり着いて駐車スペースを見つけて車を停めた途端、近在の方が出てきて駐車を禁止されました。恐縮して参拝の為の駐車場を訪ねた所、短い時間ならと言う事で許可をいただけました。改めて感謝申し上げます。

由緒不詳。明治5年村社に列せらる。境内は436坪にして本殿・拝殿を存す。(大阪府神社史資料より) 後になって気が付いたのですが神社への入り口はここではなく、鳥居や社務所もそちらにあったようです(-"-) 

住民の方の折角のご厚意、急いで参拝を済ませ、お目当ての狛犬さんを撮影して!!という事で拝殿石段参道の下にて神域を守護されるのは、明治34年(1901)10月吉日建立の、典型的な浪花タイプの狛犬さん一対。威勢の良いお顔で出迎えてくれました。

石段を登り切った拝殿前より神域を守護されるのは文化4年(1807)4月吉日建立の、こちらも浪花タイプの狛犬さん一対。下の狛犬さんに比べると顔立ちがかなり穏やかで人懐こそうな印象を受けます。

御本殿も画像に残したかったのですが、とにかく気持ちが急いています。御亭主殿が狛犬さんを担当してくれている間に私が画像に残せたのは拝殿と石段、それに「春日神社跡の碑」だけ。

ちなみに「二宮神社」は大正13年(1924)に「春日神社」と「杵築神社」が合祀され、その事から「二宮(ふたみや)」の名が付けられました・・と言う事は「杵築神社跡の碑」もどこかにあったのかも・・ とにかく他人様の駐車場をお借りしている身。一分でも早く車を出したかったので、あわただしい参拝になってしまいましたが、振り返ってみればあまりにも画像の少ない記事・・そこでちょっと遊んでみました(笑)

ご亭主殿「ほうほう、お前さん、明治の奉納ですか。中々良い出来ですなぁ~」

阿形さん「おい!そこのお前!!わしの連れの年を勝手に見るんじゃねぇ!! レディに失礼じゃろうが!」

参拝日:2015年10月10日

 

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宿奈川田(すくなかわた)神社 in 大阪府柏原市

2023年03月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府柏原市高井田に鎮座される「宿奈川田(すくなかわた)神社」、御祭神は『宿奈彦根命(少彦名命)・高皇産霊命(たかみむすひのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)』

式内社で日本最古の社の一つとされ、地元では「白坂(しらさか)神社」と呼び親しまれています。また、諸病を祓い風水の難を除き「病祓いの術」を執り行う神社としても知られています。

「創建の由緒は不詳。当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。平安時代初期に編纂・施行された弘仁式の時から官社となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列している。中世には「白坂大明神」と称していた。明治5年(1872)に村社に列格し、白坂明神から宿奈川田神社に改称。」

拝殿の前に奉納された大きな桃の実の石像。当神社では「桃の枝葉三枚を入れて浴すると病は遠のく」とし、桃の葉の授与もあるそうです。

桃の実の横には「病祓いの術」と書かれた人型の石像も奉納されています。説明には「雛形一対を当社から持ち帰り病人の枕の下に一夜敷いて寝る。この雛形を持って参拝し前に立てて、現在何歳であっても次の言葉を言って祈願してください。【私は今年十九歳と言い(氏名を名乗り)、私は正直の心を持って祈り奉り神徳を以って病をこの雛形に遷り給わりますように。】と祈り、その後、雛形は拝殿の中に入れて下さい。」と記されています。正直の心と、何歳であっても私は十九歳と言う・・・この相反する唱え言葉の理由が知りたい!。

先の桃の実の台座には『柿本人麻呂』が竹原井頓宮を詠んだ【朝奈朝奈立秋乃 寒畿鴨竹原山濃紅葉女介武】(朝な朝な たちあききりの さむいそしぎ 竹原山の もみじそめけむ)が刻まれています。

別の面には『藤原(葉室)光俊』【竹原乃石井乃水屋 益留良年立田濃山乃 五月雨濃比】(たかはらの 石井の水や まさるらん 立田の山の さみだれのころ)

別の面には『藤原俊成』【賤濃女我川田乃原仁 津武芹母 他我太女仁止天 袖奴羅須良年 藤原俊成】 (しづのめが  かわたのはらに つぶせりも  たがためにとて そでぬらすらん)・・・・画像が行方不明(^^;)

参拝日:2015年10月10日

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御神名一口メモ

『高皇産霊(たかみむすひのみこと)命』。天地開闢の折、天御中主神、神皇産霊尊とともに高天原に現れた造化三神のうちの一柱。

『級戸辺命(しなとべのみこと)』 。伊奘諾・伊奘冉の御子で、朝霧を吹き払った息から生まれた風の神。

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大和川治水記念公園 in 大阪府柏原市

2023年03月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

奈良県桜井市の北東部。標高822mの貝ヶ平山近辺を源流とし、生駒山系と葛城山系の間を抜け、大阪平野に出て柏原市で石川と合流し、大阪湾に注ぐ一級水系の本流「大和川」。川の名前は大和国・大和盆地に由来します。

江戸時代半ばごろまでの古い大和川は、柏原市の北で長瀬川・楠根川・玉串川など幾筋にも分かれ、深野池(現:大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の両池に注ぎこんでいました。これら大和川の支流は土砂が堆積した天井川で、たびたび河内平野は氾濫の被害にあったと言います。河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える構想は、古くは奈良時代以前からあり、治水工事の歴史は古墳時代にまで遡ります。その辺りの話は非常に長くなるので、詳しい事は「大和川・治水の歴史」で検索してください。

大阪府柏原市安堂、国道25号線脇に「大和川治水記念公園」と名付けられた小さな緑地があります。そこに「大和川付替三百年記念碑」等と共に『中甚兵衛(なか じんべえ)の銅像が建立されています。

何度も繰り返される大和川流域の洪水被害。その度ごとに田畑は流され、村人たちは生死に関わる災禍に見舞われてきました。やがて村々から川の付け替えを望む機運が起こります。今米村の庄屋『中甚兵衛』はそれを受けて立ち上がり、幕府に対して実に46年もの間、大和川付け替えや治水計画を請願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付け替え工事を指揮しました。元禄17年1月(1704年2月)に工事に着手し、八か月後の宝永元年9月(1704年10月)に工事は完成。築留の地から北へ流れていた旧大和川は、現在のように西へ付け替えられました。

文字にすると僅か数行ですが、そこに至るまでに要した年数を思う時、どれほどの困難があった事か想像に難くありません。今、こうして大和川を見下ろす位置に立ち、彼方を指差す『中甚兵衛』は、まっこと!男前。

「中 甚兵衛、付替え時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして永遠の眠りにつきました。」市HPより

記念公園の一画にあったモニュメント石には、【流れは未来に続く 大和川】と刻まれています。また公園内には先人の功績を讃えた碑が幾つか建立されています。生憎とそれらを読み解く才はないので、内容はネットや資料で調べた事を基にしました。

昭和29年(1954)に大阪府によって建てられた「大和川付替二百五十周年記念碑」 当時の大阪府知事であった『赤間文三氏』の筆によるもので「先堅の功業を讃えるにあたり嘱を承けてこの文を記す次第である」と刻まれています。

「長瀬此利」と刻まれた「深瀬郡長顕彰碑」。『瀬和直氏』は丹北郡外五郡の郡長在任中、大和川の治水に尽力した人物だそうです。

「久保田翁寿碑」。高安郡万願寺村に住んでいた『久保田伝次郎』が、在任中に久宝寺村の『高田仁兵衛』と共に樋を修復し、六郷(旧中河内地区)の治水を計り、農産の増収に努めた旨が刻まれています。

「健野府知事顕彰碑」 明治18年(1885)の淀川・明治大洪水の際、復旧に尽力し水防に功績があったことが記されています。

『畑中翁碑』 大和川付替え当時、代官:万年長十郎に従った『畑中六右衛門』の功績を讃えたもので明治39年(1906)、孫にあたる畑中好太郎氏によって建立されました。

「1703年代の大和川流域の図」の傍らに「かふちの大橋を独りゆく娘子(をとめ)を見る歌一首 并せて短歌  高橋虫麻呂(たかはし の むしまろ)」と題された歌碑が建立されています。

 

【しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上へゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣(きぬ)着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹(わぎも)が 家の知らなく】

(山藍を摺り染めにした衣に、紅(くれない)染めの裳の裾を引いた乙女が一人、片足羽川にかけられた丹塗りの大橋の上を渡って行く。彼女は独り身なのか、それとも夫がいるのだろうか。できれば聞いてみたいものだ。)

【大橋の 頭(つめ)に家あらば ま悲しく 独りゆく子に 宿貸さましを】

(この大橋の橋詰に私の家があれば、ひとり寂しく歩く乙女に宿を貸してあげられるのに)

柏原市いろは絵歌留多、子供たちには難しい古の物語もこんな風に紹介されれば取っつきやすいかもしれませんね。

訪問日:2015年10月10日

 

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ご当地マンホール in 大阪府柏原市

2023年03月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

柏原市(かしわらし)は大阪府内中河内地域に位置しており、市域の2/3が山間部に属しています。中央部には一級河川である大和川が流れ、市役所の近くで石川と合流。古代より大和川が大和から難波へと抜ける地点に位置していたことから、交通の要所として栄え、江戸時代には天領として幕府の支配下に置かれていました。市の特産物としてぶどう栽培が盛んに行われており、また古墳や遺跡も多く、市内にある横穴墓(高井田横穴群、玉手山横穴群の2箇所)は大阪府内では柏原市でしか発見されていません。「市の花:ツツジ」「市の木:コノテガシワ」を制定。

市役所敷地内に建立されていた柏原市二代目市長『早川良浩氏』胸像

キャッチフレーズは「緑と水にやすらぎ 心ふれあう 魅力あるまち 市民が活きいきとし にぎわいにあふれているまち 柏原」

明治22年(1889)、町村制の施行により、志紀郡柏原村、大県郡堅下村・堅上村、安宿部郡国分村・玉手村が発足。

1896年、郡の統廃合により、志紀郡・大県郡・安宿部郡が南河内郡になる。

1910年、柏原村大字市村新田を市村に改称。

1915年、柏原村が町制を施行、南河内郡柏原町となる。

1931年、南河内郡国分村と玉手村が合併、改めて国分村となる。

1939年、柏原町が、中河内郡堅下村、堅上村と合併、所属郡を変更して中河内郡柏原町となる。

1941年、南河内郡国分村が町制を施行、国分町となる。

1956年、中河内郡柏原町と南河内郡国分町が合併、改めて中河内郡柏原町となる。

1958年、中河内郡柏原町が市制を施行、柏原市となる。

マンホールには市章を中心に、市の特産品「デラウェア」がデザインされています。(アクアロード周辺に設置)

鴻池水未来センター展示マンホール

池田市マンホールサミット展示マンホール

もう一種には、市章を中心にデザイン化された「デラウェア」が描かれています。色落ちが激しく、僅かに葡萄のピンクと葉の薄緑が見える程度。

小型のプラ汚水枡ですが、鮮やかな彩色です。

同一デザインで「汚水」

「雨水」

「合流」

昭和33年10月1日制定の市章は「柏原の「カ」と「ハ」を図案化したもので、全体で大和川と石川の合流点に位置する当市の、はてしない発展と親和を象徴しています。」公式HPより

雨水マンホール

仕切弁

制水弁

消火栓

中央に市章と自治体道路の文字

「大和川」国土交通省の通信用マンホール

「市章」と「市の木:コノテガシワ」「市の花:ツツジ」がデザインされた歩道タイル。

柏原市のマスコットキャラクター『かしぴょん』。頭の緑は東山、 花はつつじ。 顔の横の青は大和川・石川、 体の紫・緑はぶどう。 足のハートはおもてなしの心をイメージしています。

撮影日:2009年6月20日&2015年10月10日&2018年4月28日

 

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大阪府柏原市のマンホールカード

2023年03月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(計301自治体342種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。

「柏原市」のマンホールカードは、「【平日】柏原市市役所別館:下水工務課【休日】柏原市民文化会館 リビエールホール」でいただけます。

1992年に設置開始されたマンホールには市章を中心に、市の特産物「デラウェア」がデザインされています。

デザインの由来

「小粒で皮が赤紫色の果実を一粒口に入れると、舌の上に広がる強い甘さと爽やかな酸味が絶妙に調和するぶどうの「デラウエア」。 本デザインは、市の特産品である柏原のデラウエアをマンホール蓋いっぱいに描き、中央には大和川と石川の合流点に位置する市の発展と親和を象徴した市章を据え、1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」にあわせて市の職員が図案化しました。 本マンホール蓋は、市域を北流する長瀬川の両岸を歩道改良した「アクアロードかしわら」の遊歩道に1992年から設置され、地域の散策路として市民に親しまれる空間づくりの一助けとなっています。」

座標軸マンホール

訪問日:2018年4月28日

 

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野々上(ののうえ)八幡神社 in 大阪府羽曳野市

2023年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府羽曳野市野々上、「野中寺」に隣接して鎮座される「野々上(ののうえ)八幡神社」。御祭神は『八幡大菩薩』(野がどうしても堅に見える・・)

創建は不詳「奈良時代~平安時代初期、野中寺の宮寺形式であったと考えられる。永和元年南北朝の争乱の兵火により野中寺とともに焼失。その後、寛文年間(1661~1673)に野中寺の復興に合わせ鎮守社として再建。明治元年(1868)に神仏分離令により野中寺と分けられ、村社に列せられる。一時期。羽曳野市高鷲の大津神社に合祀されたが、昭和23年(1948)に現在地へ復社。」神社由緒より

鳥居からまっすぐ奥に延びる参道。境内は清掃が行き届き、一帯の空気まで清浄感に満ちています。

鳥居の内より神域を守護されるのは、強くて頼りがいのありそうな風貌の吽形さんと、ガキ大将的な風貌の阿形さん。文化8年(1811年)建立の・・多分浪花型に分類される、表情がとても個性的で好ましい一対。

拝殿へと続く長い石段。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、天保14年(1843年)建立で、阿吽共に頭に角を持つ、人(狛)の良さそうな顔立ちの狛犬さん一対。印象としてはとにかく可愛い(^▽^)/。

御祭神である『八幡大菩薩』は八幡神に対して奉られた菩薩号であり、奈良時代に始る神仏習合から起った称号、仏教に守られる八幡神を意味します。残念ながら拝所の向こうに鎮座されている御本殿を拝見することは叶いませんでした。

石段参道の下に鎮座される「平和の社」。御祭神は『平和之神』。大東亜戦争にて亡くなられた御英霊を「平和の神」としてお祀りされています。

「上印池顕彰之碑」稲作の水不足に悩む野々上部落にとって、灌漑用溜池として重要な役割を果たしてきた上印池。時代を経て不要となった池は売却され、当社の本殿・拝殿の改築や部落内事業に使われた旨が記されています。

参拝日:2015年10月10日

 

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野中寺(やちゅうじ)~中之太子~ in 大阪府羽曳野市

2023年03月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗仏教寺院「青龍山:野中寺」。聖徳太子建立三太子の一つで「上の太子」・「下の太子」に対し「中の太子」とよばれ、『薬師如来』を本尊とします。

「当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」、大聖将軍寺の「下の太子」に対し、中之太子と俗称 せられている。所在地の旧郷名が野中郷であって、その地名による俗名を野中寺といい「日本霊異記」には野中堂と記している。また、正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来系氏族・船史、のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。」現地案内より

「西国薬師四十九霊場十四番目札所」・「聖徳太子霊跡五番目札所」・「河内飛鳥古寺霊場六番目札所」・「河内六観音霊場四番目札所」。

旧中門跡に建つ丹塗りの山門。その門内左右より仏域を守護されるのは、見開いた大きな目の所為かとても優し気に見える仁王像。位置的に上半身のお姿しか捉えられませんが迫力は満点。

創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しましたが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など、法隆寺式伽藍配置を示す礎石が残されています。山門を入って東側に、昭和19年(1944)11月7日、国史跡に指定された「野中寺旧伽藍跡」。前面に見える礎石のある位置が「塔跡 」とされる部分。

宝篋印塔の建つ位置が「野中寺金堂跡」とされ、傍らの案内には、発掘調査で白雉元年(650)頃の創建と推定されると有ります。聖徳太子の薨御は推古天皇30年(622)・・その時代には太子も馬子も既にこの世に無く、となると野中寺の創立をその二人とするにはかなりの矛盾が・・・

疑問は専門家の分野(笑)、まっすぐ参道を進むと本堂が見えてきます。

かっての講堂跡に建てられた大阪府指定有形文化財の「本堂」。

本堂の後方左手に寛文元年(1661)建立の「地蔵堂」。野中寺最古の建物と伝えられ、本尊は重要文化財の『木造地蔵菩薩立像』。左側の石碑には「国宝地蔵大菩薩中之太子」と刻まれています。

この棟瓦の鬼はおそらく地蔵堂の屋根に有ったものと思いますが・・いささか記憶があやふやで断定はできません(^^;)

「地蔵堂」の傍らには、孔子廟などで良く見る『翁仲(こうちゅう)』と呼ばれる「石人像」があります。像は、近々京都の高麗美術館での所蔵が決り、移転する旨の看板が添えられていました。という事は、これを見る事が出来たのは一応ラッキーだったのかな(笑)

飾瓦好きの御亭主殿が写していた留め蓋の獅子。顔立ちも仕草も私好みなのですが、対になる阿形さんもいないし(境内からでは吽形しか写せなかったと弁解有り)。結局、どの位置にいたのか不明(^^;)。

境内に祀られる「八臂弁財天」

二上山凝灰石を用いて造られた「ヒチンジョ池西古墳石棺」。1946年に「塚穴古墳」に近い、ヒチンジョ池西側で発見され、1965年に保存のために境内に移設。その後大阪府有形文化財の指定を受けた旨が案内に書かれています。ちなみに「塚穴古墳」は聖徳太子の弟『来目皇子』の陵墓と治定されています。

地蔵堂前の歌碑【 山門を くぐれば緑の 野中寺 】作者不詳

【 たたみくる 雲厚けれど 十三夜 】『鴈来』 

御詠歌【くもりなき  るりの光の野中寺(のなかでら)こころもはれて 帰るうれしさ 】

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野中寺境内の墓所に建立される「お染・久松の墓」。 歌舞伎や映画の演目として有名な、豪商油屋の娘お染と、野崎村の百姓の子で丁稚奉公の久松。当時としては決して許されない身分違いの恋に落ちた二人。この世で叶わぬ恋ならせめてあの世で添い遂げたいと心中して果てます。

墓は、油屋・天王寺屋が17回忌に建てたもので、表には「宗眛真士(久松)・妙法信女(お染)」の戒名。背面には「享保7年(1722年)十月七日建立 俗名お染久松 大阪東堀天王寺屋権右ヱ門」と刻まれています。

久松の故郷である野崎村(大東市)にある「福聚山・慈眼寺」。通称「野崎観音」の境内には、密かに逢瀬を重ねた場所として二人の供養塚が建てられています。独身だったころは、ただ、悲恋の果ての心中を哀れと思いました。けれど子を持つ親となった時、逆縁で逝った愛し子の墓の前に立たねばならなかった老いた親の心を想うと・・何と罪深い二人であったのかと思わずにはいられません。現代の「ものさし」で、二人の仲を許してやれば良かったのにと言うのは・・・アンフェです。

参拝日:2015年10月10日

コメント (6)
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