大阪府羽曳野市野々上にある高野山真言宗仏教寺院「青龍山:野中寺」。聖徳太子建立三太子の一つで「上の太子」・「下の太子」に対し「中の太子」とよばれ、『薬師如来』を本尊とします。
「当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺の「上の太子」、大聖将軍寺の「下の太子」に対し、中之太子と俗称 せられている。所在地の旧郷名が野中郷であって、その地名による俗名を野中寺といい「日本霊異記」には野中堂と記している。また、正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来系氏族・船史、のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。」現地案内より
「西国薬師四十九霊場十四番目札所」・「聖徳太子霊跡五番目札所」・「河内飛鳥古寺霊場六番目札所」・「河内六観音霊場四番目札所」。
旧中門跡に建つ丹塗りの山門。その門内左右より仏域を守護されるのは、見開いた大きな目の所為かとても優し気に見える仁王像。位置的に上半身のお姿しか捉えられませんが迫力は満点。
創建時の堂塔は南北朝時代までに兵火を受けて全て焼失しましたが、境内には中門跡・金堂跡・塔跡・講堂跡・回廊跡など、法隆寺式伽藍配置を示す礎石が残されています。山門を入って東側に、昭和19年(1944)11月7日、国史跡に指定された「野中寺旧伽藍跡」。前面に見える礎石のある位置が「塔跡 」とされる部分。
宝篋印塔の建つ位置が「野中寺金堂跡」とされ、傍らの案内には、発掘調査で白雉元年(650)頃の創建と推定されると有ります。聖徳太子の薨御は推古天皇30年(622)・・その時代には太子も馬子も既にこの世に無く、となると野中寺の創立をその二人とするにはかなりの矛盾が・・・
疑問は専門家の分野(笑)、まっすぐ参道を進むと本堂が見えてきます。
かっての講堂跡に建てられた大阪府指定有形文化財の「本堂」。
本堂の後方左手に寛文元年(1661)建立の「地蔵堂」。野中寺最古の建物と伝えられ、本尊は重要文化財の『木造地蔵菩薩立像』。左側の石碑には「国宝地蔵大菩薩中之太子」と刻まれています。
この棟瓦の鬼はおそらく地蔵堂の屋根に有ったものと思いますが・・いささか記憶があやふやで断定はできません(^^;)
「地蔵堂」の傍らには、孔子廟などで良く見る『翁仲(こうちゅう)』と呼ばれる「石人像」があります。像は、近々京都の高麗美術館での所蔵が決り、移転する旨の看板が添えられていました。という事は、これを見る事が出来たのは一応ラッキーだったのかな(笑)
飾瓦好きの御亭主殿が写していた留め蓋の獅子。顔立ちも仕草も私好みなのですが、対になる阿形さんもいないし(境内からでは吽形しか写せなかったと弁解有り)。結局、どの位置にいたのか不明(^^;)。
境内に祀られる「八臂弁財天」
二上山凝灰石を用いて造られた「ヒチンジョ池西古墳石棺」。1946年に「塚穴古墳」に近い、ヒチンジョ池西側で発見され、1965年に保存のために境内に移設。その後大阪府有形文化財の指定を受けた旨が案内に書かれています。ちなみに「塚穴古墳」は聖徳太子の弟『来目皇子』の陵墓と治定されています。
地蔵堂前の歌碑【 山門を くぐれば緑の 野中寺 】作者不詳
【 たたみくる 雲厚けれど 十三夜 】『鴈来』
御詠歌【くもりなき るりの光の野中寺(のなかでら)こころもはれて 帰るうれしさ 】
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野中寺境内の墓所に建立される「お染・久松の墓」。 歌舞伎や映画の演目として有名な、豪商油屋の娘お染と、野崎村の百姓の子で丁稚奉公の久松。当時としては決して許されない身分違いの恋に落ちた二人。この世で叶わぬ恋ならせめてあの世で添い遂げたいと心中して果てます。
墓は、油屋・天王寺屋が17回忌に建てたもので、表には「宗眛真士(久松)・妙法信女(お染)」の戒名。背面には「享保7年(1722年)十月七日建立 俗名お染久松 大阪東堀天王寺屋権右ヱ門」と刻まれています。
久松の故郷である野崎村(大東市)にある「福聚山・慈眼寺」。通称「野崎観音」の境内には、密かに逢瀬を重ねた場所として二人の供養塚が建てられています。独身だったころは、ただ、悲恋の果ての心中を哀れと思いました。けれど子を持つ親となった時、逆縁で逝った愛し子の墓の前に立たねばならなかった老いた親の心を想うと・・何と罪深い二人であったのかと思わずにはいられません。現代の「ものさし」で、二人の仲を許してやれば良かったのにと言うのは・・・アンフェです。
参拝日:2015年10月10日