車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 兵庫県旧竹野町(豊岡市)

2023年09月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

旧城崎郡竹野町(たけのちょう)は兵庫県の北部、日本海に面した町です。豊岡市、城崎町、日高町、村岡町、香住町に隣接。集落は竹野川に沿って散在しており、昔から海の幸、山の幸に恵まれていました。江戸時代から明治時代にかけて北前船の寄港地として栄え、竹野浜一帯は「竹野の大浜」と呼ばれ、全国の廻船業者が軒を連ねていたと言います。「町の木:黒松」「町の花:椿」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、美含郡竹野村・中竹野村・奥竹野村、気多郡三椒村が発足。

1896年、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて城崎郡が発足。

1955年、城崎郡竹野村・三椒村・中竹野村・奥竹野村が合併、改めて竹野村が発足。

1957年、竹野村が町制を施行、城崎郡竹野町となる。

2005年、豊岡市、城崎郡城崎町・日高町・出石郡出石町・但東町と合併、豊岡市竹野町となりました。

マンホールには、江戸時代に活躍した「北前舟」が日本海を進む様が描かれています。

昭和32年4月1日制定の町章は「アルファベットの頭文字『T』を、鷹になぞらえて図案化したものです。」

眼下に竹野海岸を見ながら、急カーブが連続する道をひた走っていると、驚くような場所に、平家の豪勇たちが辿り着いたという伝承の地「田久日の集落」の案内を発見。そこに下りる県道筋の草むらには才の神奉斎の古跡

昭和40年にこの海岸道路が開通するまでは、海岸沿いの険しい山道を徒歩で移動するか、または船で移動する以外交通手段が無く、陸の孤島と呼ばれた田久日集落。外部との折衝を断って暮らす平家の隠れ部落としては、絶好の立地だったのかもしれません。

撮影日:2010年11月4日

 

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海(あま)神社 in 兵庫県豊岡市(旧城崎町)

2023年09月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

旧城崎地区、豊岡市小島海(あま)ノ宮に鎮座される「海(あま)神社」。御祭神は『大綿津見命』。延喜式神名帳にある「海神社(但馬国・城崎郡)」に比定される式内社(名神大社)の論社。

創建は不詳。「天武天皇白鳳3年(674)に絹巻神社の相殿となる。明治3年(1870)別殿に仮遷座し、翌明治4年、現在地に遷座した。明治6年(1873)10月、村社に列し、明治12年(1879)2月、本殿覆を建立する。」

柿葺き・春日造の本殿、お姿は肉眼でかろうじて拝見できましたが、フラッシュ無しで画像に残すには、境内はあまりにも暗すぎます。

本殿覆屋の前より神域を守護されるのは、明治38年(1905)12月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。 こんなに海が近いのに鎮守の森の守りが固いからなのか、剥落の無い綺麗なお姿。

鮮やかな牡丹の台座

こうして並べると、仲良しの二人が何かとっても楽しいことを相談しているように見えて、できれば仲間に加わりたいような雰囲気。

「境内社:金刀比羅社

境内参道の左手の苔生した一画に鎮座する巨大な岩。式内社調査報告によれば、境内に「鰐岩」と呼ばれる磐座が有るとの事、おそらくこれかと思われます。

また鳥居を潜ってすぐの右手には「耕地開墾の碑」

県道三号線から見る円山川

参拝日:2010年11月4日

 

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ふらり~城崎温泉街 in 兵庫県豊岡市城崎

2023年09月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

古くから歌に詠まれ、志賀直哉の短編「城の崎にて」が生まれるなど、文豪や歌人から愛された「城崎温泉」。平安時代の古今和歌集に「但馬の国の湯へまかりける時、二見の浦と云う所にとまりて…」(藤原阿法師)とあるように、1000年以上も前から都の貴人がはるばる城崎の温泉に赴いていたことが明らかにされています。江戸時代になると、「海内(日本)第一泉(かいだいだいいちせん)」と呼ばれ、有馬、湯村とともに兵庫県を代表する温泉として、多くの観光客を集めてきました。

しだれ柳が緩やかにゆれる「大谿(おおたに)川」。川沿いに軒を連ねる温泉街の風情は、観光パンフレットなどですっかりお馴染み。この景色を見た瞬間「ああ、城崎温泉に来たんだ」と、わけもなく感動します(笑)

舒明天皇一年(629)、コウノトリが傷を癒している事が開湯伝説とされる城崎温泉。駅前には「傷をいやすコウノトリ」が美しい羽を広げて観光客を出迎えてくれます。

城崎駅のすぐ横には「下駄奉納板」があり、各旅館の下駄が奉納されています。毎年新しい下駄を奉納し、古下駄は温泉まつりで焚き上げて供養して、城崎温泉を訪れた人達の足元の安全と健康を祈願するそうです。

「下駄奉納板」横に建てられていた『与謝野 寛(鉄幹)』歌碑

【 手ぬぐいを 下げて外湯に行く朝の 旅の心と駒げたの音 】

城崎駅前文学散歩道の碑と「島崎藤村文学碑」。島崎藤村は新聞社の依頼で、昭和2年に城崎温泉から島根県津和野まで旅行し「山陰土産」という紀行文を連載していました。碑には「大阪より城崎へ 朝曇りのした空もまだすずしいうちに大阪の宿を発ったのは、七月の八日であった。」の一節が刻まれています。

文学碑の横には飲泉設備も設けられており、湯飲みなども用意されています。江戸時代の漢方医『香川修徳』が絶賛したという温泉水・・心身に危険が及ばない限り、何でも試してみたい好奇心旺盛な二人、さっそく味見を・・・

感想・・・まぁ・・薬と思えば(笑)、でも恐々の量にしておいて良かった(^^;)

奈良時代初期の養老元年(717)。僧侶であった『道智(どうち)上人』は、当所鎮守「四所明神」の神託により、難病の人々を救う為に千日間の修行を行い、天平年間(720)に温泉が湧出、これが城崎温泉の始まりと伝えられています。その後、道智上人によって「温泉寺」を開山。以後、温泉寺は城崎温泉を象徴する存在となりました。この常夜灯は「地蔵湯」前に建立されています。

「地蔵湯」の名は、この湯の泉源から地蔵尊が出たことに由来しており、入り口近くには美しく化粧を施された地蔵尊が祀られています。

観光地をそぞろ歩く楽しみの一つが、多種多様なお店の看板。どうです、このおいしそうなズワイガニ(笑)大の偏食家の私が、唯一!胸を張って好物と言い切れるのが、実は「カニ」!!思わず足を止めて見上げ「こんな大きなカニなら、三日くらいはもつかもと」と言ったら、「たった三日かい?!」と突っ込まれました(爆)

城崎ならではと言えるかどうか・・ですが、見た瞬間に「城の崎にて」を思い出させたのですから、やはりこれも城崎ならでは。城崎書房の文字が、一瞬「城の崎にて」とオーバーラップして、とても上手な演出だと思いました。

城崎温泉のそぞろ歩きも「弁財天」の額が架かる鳥居の前で終了。拝殿が見えていれば参拝をと思ったのですが、鳥居の奥に続く石段を見て・・ごめんなさい!パス。

代わりというのは大変に失礼ですが、鳥居の近くに祀られていた地蔵堂の石仏様たちに、この先の旅の無事を願ってお参りさせて頂きました。

訪問日:2010年11月4日

 

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ご当地マンホール in 兵庫県旧城崎町(豊岡市)

2023年09月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・兵庫県

旧城崎郡城崎町(きのさきちょう)は兵庫県の北東部に位置した町です。豊岡市、竹野町に隣接。円山川の西岸に沿った市街地には関西の奥座敷として知られる「城崎温泉」があり、北近畿の温泉の名所として冬の味覚のカニ料理と共に観光客に人気です。町域には、日本国内では城崎のみで生産され、300年の歴史を持つ「城崎麦わら細工」があり、兵庫県伝統的工芸品、および豊岡市無形文化財に指定されています。「町の木:しだれ柳」「町の花:アヤメ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、城崎郡湯島村・内川村が発足。

1895年、湯島村が町制施行・改称し城崎郡城崎町となる。

1955年、城崎郡内川村と合併、改めて城崎町が発足。

2005年、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と合併、新)豊岡市が発足。

マンホールには、「文芸館方面への矢印」「大谿川に架かる愛宕橋と和服の女性」「町の木:しだれ柳」が情緒豊に描かれています。

モノクロバージョンは「大谿川に架かる愛宕橋」「梅」「町章」がデザインされています。

「愛宕橋」

昭和61年2月1日制定の町章は「城崎町の片仮名の頭文字『キ』を図案化したものです」

四隅のマークが不明の消火栓

温泉街では必ず見つけられる「湯」の小型蓋。今回のは分湯栓。

城崎温泉観光協会マスコットキャラクターは、コウノトリの『翔(しょう)くん』『舞ちゃん』。ついでに城崎温泉ではこんなキャラクターが、急な飛び出しを注意してくれます(⌒∇⌒)

今回は京都の丹後から城崎温泉に向かった為、予定外の山越え(^^;)。車泊を楽しむようになって、少々の山越えも平気になりましたが、それでもやっぱり山道は苦手。出来れば広くて平坦な道を走りたい(笑)。道路標識に兵庫県の文字を見た時は、さっきまで走った道が京都府域であった事を改めて認識しました。

撮影日:2010年11月4日

 

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出石(いずし)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町宮内に鎮座される「出石(いずし)神社」。御祭神は『伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)・天日槍命』。式内社で但馬国一宮、旧社格は国幣中社。「出石大社」「出石大神宮」とも称されます。2011年、2014年の二度に渡る参拝です。

創立年代は不詳。「谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝える。諸書によれば奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であった事がうかがわれる。但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬され、当時泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集める。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれる。」社伝一宮縁起より抜粋

大正8年9月建立の一の鳥居を潜り、奉納灯篭がズラリと並ぶ参道を進むと二の両部鳥居。鳥居額は「一宮」。

二の鳥居左右より神域を守護されるのは、明治39年(1906)11月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは顎から下を無くされたようですが、それでもさすがの貫禄。

あざやかな丹塗・八脚門の神門

神門脇に置かれていた「出石町指定文化財 旧鳥居残欠・2基」。昭和8年(1933)の出石川改修の際に出土した木製鳥居の基部で、作られた時期は不明。

大正3年再建の入母屋造り平入り舞殿形式の拝殿

拝殿前の縁より神域を守護される木製の神殿狛犬さん一対。阿吽共に角を持ち、首には不似合いなほど大きな鈴が下げられています。僅かに残る彩色の跡も気になりますが、重大な相談事でもしているかのような姿が気になって・・気になって(^^;)

拝殿から続く渡り廊下と祝詞殿。

大正3年再建の三間社流造りの本殿。社殿はいずれも豊岡市指定文化財。

泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流したという「天日槍の蹴裂(けさき)伝説」が描かれた絵馬。

社殿の右手、禁足地へ向かう参道の脇に鎮座される「境内社:比賣社」。ご祭神は『麻多島(天日槍の妻)』と「境内社:夢見稲荷社」。

拝殿の左に鎮座される「境内社:天神社

休憩所に保存展示されていた出石神社所有の手押しポンプ車

丹塗りの手水舎

境内の一画に、出石町出身で「治水の神様」と言われた『沖野忠雄 氏』の顕著碑。

最初の参拝は2011年3月の夕刻。参道の灯篭に入った灯の暖かさが泣きたいほど綺麗だったことを今も思い出します。

神社からさほど遠くない(と思う)小野川に架かっていた「ひぼこ橋」の親柱。「天日槍の蹴裂(けさき)伝説」がモチーフと思われます。

参拝日:2011年3月30日&2014年11月21日

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御神名一口メモ

『伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ)』、天之日子が携えていた八種の玉津宝(珠二貫、浪振るひれ、浪切るひれ、風振るひれ、風切るひれ、奥津鏡、辺津鏡)を神格化したもの。

 

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伊福部(いふくべ)神社 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町中村に鎮座される「伊福部(いふくべ)神社」。御祭神は『素盞嗚尊』。『天香山命(あめのかぐやまのみこと)・伊福部宿袮命(いふくべすくねのみこと)』を配祀。

「創立年度不詳。天平十九年、伊福部連其祖:天香山命を祀る。又成務天皇四 年二月に、國造船穂足尼:素盞嗚命を祀る「大生部兵主神社」を、弘原庄中村に鎮座し之を大生部神社と崇めた。天正四年、出石領主山名家より田畑三町歩の黒印を受く。又江戸時代、氏子より田の寄進あり石高十石を有すも、天保四年社殿炎上、安政二年本殿再建にあたり、出石藩主仙石讃岐守よりの寄進で現在の社殿が造営された。」拝殿由緒より

本殿向拝には 見事な躍動感を見せる龍。

向拝の柱を肩にのせ、腕一本で支える力神。

木鼻には玉眼を持った獅子と獏

たまに、獏と像の違いって何?と聞かれることがありますが、獏は全身が巻き毛で覆われており、耳が垂れていないのが最大の特徴。まずは耳を確認して決めています。

本殿扉の彫刻は、逆巻く波間を優雅に飛び遊ぶ鳥・・場所柄からコウノトリ?

見事な羽を広げる鳳凰

入母屋造瓦葺の拝殿前左右より神域を守護されるのは、明治43年(1910)10月建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。

親の足元という絶対的な安全圏の中で、得意そうな顔で振り返る仔狛。人も動物も同じですが、無条件に可愛い。

拝殿と本殿の間より神域を守護されるのは、明治19年(1886)4月建立で、やたら鼻のでかい浪花系の狛犬さん一対。出雲系や岡崎と違って実におっとりとした顔(笑)

遠目からの写真なのでいささか不鮮明ですが、本殿の縁より神域を守護される狛犬さん一対。御祭神により近いせいか、かなり凄みのある表情。

社殿、向かって右手に鎮座される「境内社:福徳稲荷神社」。御祭神は『宇迦之御魂神』。社殿、左手に鎮座される「境内社:天満神社」。御祭神は
菅原道眞公』

観世音菩薩像と板碑

稲荷社の横から山上に鎮座される「愛宕神社」への参道石段が見えていますが、無理は厳禁。下からの拝礼で失礼させて頂きました。

参拝日:2011年3月31日

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御神名一口メモ

『伊福部宿袮命(いふくべすくねのみこと)』、「大己貴命」を始祖とする因幡の古代豪族。「武内宿禰」を祖先として祭る。明治4年に太政官布告により因幡國一の宮・宇部神社の世襲の神官を代々務めてきた。

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宗鏡寺(すきょうじ)&願成寺(がんじょうじ) in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

豊岡市出石町東條、街の中心部から少し離れた坂の上に門を構える「願成寺(がんじょうじ)」「宗鏡寺(すきょうじ)」

町内の各所に設けられた旧跡案内の看板には、「願成寺のだるま像」と、「宗鏡寺縁の沢庵和尚」が描かれており、町歩きの好奇心をくすぐります。

なだらかな・・と言えば情緒的ですが、足に問題ありの私の感想では、ダラダラと長い坂道😓を登った先に、二つの寺院が見えてきました。

坂道の突き当たりに位置する臨済宗大徳寺派寺院「圓覚山:宗鏡寺」。出石城主の菩提寺であり、『沢庵宗彭』所縁の寺として知られています。

 山門の横の土塀に埋め込まれた瓦は、実際の瓦の縮小版だとか。

「元中9年(1392)、山名氏の菩提寺として入佐山の麓に『山名氏清』によって開基。開山は東福寺の『大道似禅師』。寺号は氏清の法号である宗鏡寺殿に由来。山名氏滅亡後永らく荒廃していたが、出石城主『小出吉英』のすすめを受けた沢庵により元和2年(1616)に再興。たくあん漬けの考案者ともいわれる沢庵和尚に再興されたことから沢庵寺とも呼ばれ、境内には沢庵和尚の墓所もあります。」公式HPより抜粋

境内にある沢庵作庭の池泉鑑賞式日本庭園を見ずに帰るのは残念でしたが、時間にゆとりがない事もあり、門前にて失礼させていただきます。

「宗鏡寺」のすぐ下に、塔頭寺院の一つで臨済宗大徳寺派寺院「萬里山:願成寺」があります。『川崎尚之助』の菩提寺だそうですが名前を聞いても誰??・・後に『新島八重』の最初の夫と聞いて「ほぉ~そうなのか」と・・😅

「もともとは宮内にあったが、大永5年1(1525)に『山名致豊』が此隅山城から有子山城に移ったのに伴って現在地に移転したとされる。享保2年(1722)建造の山門は、一間一戸、入母屋、桟瓦葺、上部は吹き放しの鐘楼門形式で豊岡市指定文化財。」

この山門の前には、京丹後市網野町の「正徳院:住職」から送られた、二体のだるま大師像が置かれています。木造で高さは130cm程。その表情は見れば見るほど味わい深く、見つめる時々の心に合わせて変化します。

また境内の鐘楼の前には、衣の袖で深く顔を覆った「だるま大師像」が座しています。5世紀後半から6世紀前半に禅宗の祖と崇められ、臨済宗の初祖ともされる『菩提達磨大師』

衣の隙間から見えたお顔は静かに瞑目し、同じ目の高さで見つめていると、胸が熱くなります。叶うなら縋りつきたい衝動・・・それが何によるものなのか、単にその時の心情からだったのか・・今も分りません。

「願成寺」横の広い空き地は「宗鏡寺:観光駐車場」となっていますが、入り口近くの一画に、時代も定かでない幾体もの石仏が並んで祀られています。

座すもの、立っているもの、光背の中に彫りこまれたもの、その姿は様々。

その駐車スペースの一番奥まった部分に、比較的新しい地蔵立像が祀られていたのですが、一体だけお体に似合わない時代を経たお首の地蔵様がおられました。

添えられた碑には、寺に着任した折に首のみの地蔵様があった事。由来も不明であった為、そのまま放置できず、お体を添えた事が記されています。
誰がお供えしたものか、お揃いの赤い毛糸の帽子とマフラーが・・とても暖かそうで・・。

参拝日:2011年3月31日

 

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本高寺&経王寺 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

宝永3年(1706)、信濃国上田藩より『仙石政明』が但馬国出石藩初代藩主として入城して以来、明治の廃藩置県まで仙石氏の藩政のもとに様々な歴史を紡いできた出石。最初の紹介は豊岡市出石町魚屋にある日蓮宗寺院「舟橋山:本高寺」

「創建は康正元年(1455)、日曾上人の開基と伝えられる。当時は寺運が隆盛し最盛期には9坊を擁する大寺ながら度重なる兵火により堂宇は焼失。日成上人の代に現在地に移し再興、慶安3年(1650)に出石藩主:小出吉英の庇護を受け境内を整備。宝永3年(1706)、上田城より移封し出石藩主となった『仙石政明』が帰依し、仙石家の菩提寺とした。」境内案内より抜粋

文政7年(1824)、出石藩6代藩主:仙石政美の病没から始まった「仙石騒動」と呼ばれた内紛。この騒動によって出石藩は5万8千石から3万石へと減封。事件は「江戸時代三大お家騒動」とも呼ばれ、当時の講談や実録本、歌舞伎などの題材にもなりました。本高寺には、そのお家騒動によって処刑された家老『河野瀬兵衛』の菩提も弔われています。

境内の一画に建立されている「妙見宮」。お寺の境内なので『妙見菩薩(みょうけんぼさつ)』を本尊としていると思われます。

本尊である妙見菩薩とは、「北極星」、または「北斗七星」を神格化した仏教の天部の一つで、『尊星王(そんしょうおう)』『妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)』『北辰菩薩(ほくしんぼさつ)』などとも称されます。

妙見宮のお堂前より聖域を守護されるのは出雲丹後の構え狛犬さん一対。すっかりと丸くなった体に、年月が与えた穏やかな笑みを浮かべて参拝者を出迎えてくれます。

妙見宮参道横の小祠と、境内の一画に建立されていた文学碑。作者らしき部分に「少将」の文字を読み取った以外、内容は全く分かりません🤔 ご存知の方、是非!教授下さい。

三年後に通りかかった「本高寺」。塀越しに見えた大イチョウの鮮やかな黄色が目に焼き付いています。

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豊岡市出石町下谷にある日蓮宗寺院「一乗山:経王寺」。石部神社参拝の帰路、馥郁と香る梅の香に誘われて立ち寄った寺院。出石藩藩主歴代の菩提寺の一つであると知ったのは、ずっと後の事。

「創建は室町時代永禄年間、山号を会稽山、寺号を薬王寺という真言宗の寺院として創建された。江戸時代初期に布教のため当地を訪れた北条氏政血縁者である法音院日道により日蓮宗に改宗され、このとき現在の山号と寺号に改められた。出石藩における寺格は高く、藩主松平家と仙石家は当寺を菩提寺の一つと定めていた。境内には出石藩4代藩主仙石久行のほか、勤皇の志士多田弥太郎の墓がある。」Wikipediaより

参道石段の左右に並べられているのは、磁器製の灯籠で中にろうそくを灯して、足下を照らします。境内には陶芸の工房があり、こちらのご住職が製作されているとの事。明かりの入った灯籠が並ぶ参道は、きっと幽玄でしょうね。

ちなみに山門横の白い建物が経王寺の鐘楼で、豊岡市指定文化財である事を知ったのも、やはりずっと後の事。 何をやってんだか・・なんて、今だから言えるのです😓

参拝日:2011年3月31日

 

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出石町歩き~其の二 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

昨日に続いての出石町歩き、スタートは「谷川山トンネル放水路」の説明に興味を引かれたご亭主殿。

豊岡市出石町小人にある人工水路、2004年の23号台風の際には洪水を迂回させ、出石の中心部を守ったと記されています。専門的な事は分かりませんが、こうした最新の土木技術を何気なく見る事が出来るのも、町歩きの楽しみかも。

豊岡市出石町下谷、「谷川山」をはさんだ先に、市指定文化財の『加藤弘之:生家』がひっそりと佇んでいます。

出石藩主の兵学師範の家に生まれ、弘道館に学び、ドイツ学をきわめ、明治天皇へ講義を行い、日本の大学制度の基礎を作りあげた人物。やがて設立された帝国大学(現:東京大学)の初代総長に就任しました。

仙石家菩提寺の「経王寺」の向かいに建つ赤門。まさかこの門が「兵庫県立出石高等学校」の校門だなんて想像もできません。

この門は、藩政時代に赤門を建てる事が許されていた磯野家の『一瀬粂吉(元三和銀行取締役)』が戦前に建設し寄贈したもの。赤門前にはその記念碑が建てられています。

そろそろ町の方へ戻る事にしましょうか。千本格子に、丹塗りの漆喰がとても粋な佇まいのお宅。以前はタバコ屋さんだったのでしょうか?もうずっと昔、私が住んでいた町にもこんなショーケースに煙草を並べていたお店がありました。

出石町宵田の、とある建物の前で「鋳物師町発祥之跡」の碑を見つけました。鋳物師とは文字通り鋳物を造る職人の事ですが、この一帯にそうした職人の集団が町を形成していたのでしょう。

豊岡市出石町八木に鎮座される「呉服神社」。織物の神『袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)』を御祭神とします。

寺町に近いせいか、町歩きの途次にこんな風に祠に祀られるお地蔵様を見かけます。おさめられたお地蔵さまはいずれも美しく化粧が施されています。町内の隣保(りんぽ)ごとに地蔵当番があるそうで、内も外も塵一つなく、大切に守られています。

豊岡市出石町魚屋。明治20年(1887)に出石城跡近くの登城橋公園内に出石郡役所として竣工した、木造2階建ての美しい擬洋風建築があります。

下見板張りに施された明るい浅葱色は当時流行した色だったとか。正面玄関ポーチのペディメントやコリント式の柱頭などに、明治時代の郡役所の威厳をうかがうことができます。

昭和14年(1939)に、北東約300メートルの現在地に移築され、昭和59年に「豊岡市立出石明治館」として一般公開が開始。館内には出石の近世の歴史や、歴史を彩った『斎藤隆夫、桜井勉、加藤弘之、山名宗全、沢庵宗彭』ら、出石の人物が紹介展示されています。

同じく出石町魚屋にある「たくみ工芸」さん。ここではカバン産業の祖となった柳行李が作られています。玄関先に立てかけられているのは、その材料となる「かわやなぎ(猫柳)」・・ああ、だから「やなぎこうり!!」・・と、今更に当たり前の事が無性に嬉しく思えてしまう、変な奴なのです😅

出石を代表する景観通り「大鍛冶の細間」・・この一帯がそうなんでしょうか?まるで映画のロケ現場にでも迷い込んだような、不思議な雰囲気の通り。

袖卯建と千本格子のお屋敷、白壁の塀に見越しの松・・

かなりの距離を歩いた筈なのに、何故か疲れを感じさせないのも町並みの魅力がなせる業。重伝建地区の町歩きの締めくくりは・・何とも素敵で可愛い光景😊

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ラストは町歩きの途次ではなく、後に紹介する「伊福部神社」の道路向い、豊岡市出石町中村にある「斎藤隆夫記念館」。同地出身の政治家『斎藤隆夫』の生家を整備し、遺徳をしのぶために建てられたものです。

帝国議会衆議院において、立憲主義・議会政治・自由主義を擁護し、弁舌により軍部の政治介入に抵抗し「憲政の神様」といわれた人物だそうです。あわよくば植民地化をと虎視眈々と機会を狙う欧米諸国。そんな中で、日本国を護ろうと誰もが必死に生き抜いた時代・・・昔の政治家は右も左も、国を愛し、国を守るという一点に置いては共通の認識だった気がします。

二・二六事件から間もない1936年5月7日、彼は議会において軍部の政治介入を批判しました。いわゆる「粛軍演説」と呼ばれる全文が、遺墨、遺品と共に、「静思堂」と名付けられた建物に収められているそうです。

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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出石町歩き~ 其の一 in 兵庫県豊岡市出石

2023年09月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

但馬の小京都と謳われる兵庫県「出石」。車泊で各地の観光名所を尋ねるようになって一年。迎えた年のはじめの車泊計画で最初の候補地に決まったのが、出石を含めた丹波方面の旅。結局一度では飽き足らず3年後に再訪をしたくらいお気に入りの場所となった訳ですが・・まぁ、一つには家からそんなに遠くないという事も大きな理由だったと思います。ともあれ、車中からこの光景を見た時の感動は、今でも忘れ難いものが有ります。

憧れの「辰鼓楼」の前でひとしきり記念写真に興じた後は、何を置いても城下町の散策。「鶴萬一休庵」の屋根の上にコウノトリを見つけてドキッとしたり😲 でも作り物とわかって「そうだよね」と妙に納得したり(笑)

重要伝統的建造物群保存地区の町並みは、どこを見ても「ホォ~~~」とため息の出る素敵さ😀 まず最初は、昭和初期の旧出石郵便局を改装した老舗皿そば店「大門」

入り口の暖簾を見ながら目線を上に進ませると、そこには確かに見慣れた「〒」マーク。こうした形でもちゃんと残されている事にとりあえず感動。内装はどうなっているんだろう?こんな建物で食べる皿そばも良いかも。

目的地にたどり着く道々に見かける素敵な佇まいのお宅に思わず足を止める事も数知れず(笑) 最終目的地にたどり着けるのは何時になるのか😓

江戸時代後期の上級武士の居住区であった内町通りに面して門を構える、白亜の土塀と長屋門の「家老屋敷」

仙石騒動の中心人物の一人『仙石左京』の屋敷跡にある事から「左京屋敷」とも呼ばれており、内部には、仙石騒動の資料をはじめ、無形文化財の大名行列諸道具など出石藩に関する資料が公開されています。

家老屋敷に隣接する建物は「豊岡市立美術館:伊藤清永記念館」。実際に家老屋敷が建っていたのはこの位置だったとか。

旧出石川のすぐ側にはかつて船着き場の灯篭であった「おりゅう灯篭」がありますが・・残念な事にブルーシートに覆われていました😥  ちなみに私「おりゅう」と「おりょう」を間違えていました。「おりょう」は無論、幕末の英雄『坂本竜馬』の恋人の『おりょう』。実物が見られなかった事と、近くに『桂小五郎』の史跡があった事から、深く考えず、説明も読んでいなかったのです。

そんなわけで、何が何でも見たかったと言う訳ではありませんが、折角再訪の機会を得たのですから、ここはやはり押さえておかなければ(笑) という事で「おりゅう灯篭」アゲイン😊  

「その昔、身分違いの恋に仲を引き裂かれた男女、男は戦で死に、女はそれを儚んで川に身投げ・・以来、大雨のたびに「おりゅう」の悲しみで川は氾濫し、人々はおりゅうの悲しみを鎮める為、船着き場に、祠と灯篭を建てた。灯籠に寄り添う柳は二人の姿なのです。」 綺麗に修復された「おりゅう灯籠」を見る事が出来てミッションクリア(何のミッション??)。

「出石・幕末」のキーワードで必ずヒットするのが「桂小五郎潜伏地」。元治元年(1864)に起きた禁門の変で朝敵として追われる身となった桂小五郎(木戸孝允)は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得てここ出石に逃れます。出石の町歩きの折々に見かける碑が物語る歴史・・興味は尽きません。「すし梅」様の玄関わきに建てられた碑には、「維新史蹟 桂小五郎 后(後の) 木戸孝允潜伏セシ畳屋戈七屋敷跡」と刻まれています。

他にも同じような碑を見つけました。「維新史蹟 桂小五郎 后 木戸孝允 潜伏セシ角屋喜作屋敷跡」。右の碑は「料亭 桐吉」様の角。「維新史跡 木戸孝允公潜伏セラレシ遺跡 志水重兵衛屋敷跡」と刻まれています。

そして最後の潜伏地の碑が「そば屋:本家よしむら」様の横に建立された「桂小五郎居住跡」の駒札と、「維新史跡 桂小五郎再生之地」碑。

「桂小五郎居住跡桂小五郎居住跡(荒物屋跡) 元治元年(1864)七月禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり桂小五郎も追われる身となりましたが、出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出し町内各所にかくまわれていました。当家は荒物屋を営んでいた跡です。愛人の幾松も訪れています。潜居九ヶ月、九死に一生を得た小五郎はやがて回天の大業を為し遂げ木戸孝允と名を改め、維新の三傑と仰がれましたが、この出石こそ桂小五郎の再生の地となったのです。」現地駒札全文

出石町宵田の一画に建つ豪邸は、明治時代の豪商「旧福富家住宅」を1977年にリニューアルした「出石資料館」。館内には仙石騒動や藩政の記録をはじめとする出石藩関係の史料、古地図、武具、茶臼山古墳からの出土品等が展示され、江戸時代を中心に古代から近代までの出石の歴史が紹介されています。

出石城下町の80%以上を焼失した明治9年の出石大火の直後に、生糸を商う豪商:福富家の本邸として建てられた近代和風建築。建設にあたっては遠く京都から職人を招いて工事に当たらせ、当時流行の数奇屋風に仕上げられています。

土台の石だけで家一軒の価格に匹敵するなど、まさに贅の限りが尽くされた豪邸。1987年に兵庫県住宅百選に選定。旧出石町指定文化財(現:豊岡市指定文化財)に指定されています。

史料館近くの小公園で見つけた、出石お城祭り「槍振り」の碑。大名行列の中で演じられる槍振りは、どこで・いつ見ても・心躍る光景。真剣に「見たい!!」😍

🌸まだまだ続く出石の町歩き、長くなるので続きは明日(^^;)

訪問日:2011年3月31日&2014年11月21日

 

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