共同通信杯で思い出すのは、リキアイオーだ。1979年、当時は東京4歳S(トキノミノル記念)というレース名であり、場所も中山だった。記憶はかなり曖昧になってきているが、リキアイオーは4番人気、1番人気はその後皐月賞を勝ったビンゴガルーだった。夏の札幌デビュー馬で、8月の新馬戦を勝ってからすでに8戦、北海道3歳S3着、朝日杯6着など目立つ成績はなかった。同馬が覚醒したのは、前走の中山のオープン芝1600mで、朝日杯を勝って断然人気に推されたビンゴガルーを1馬身半の差をつけて完封したときだ。時計も1分35秒7、当時の4歳(現3歳)としては優秀だった。
そして迎えた東京4歳S、舞台は中山芝1800m、当然、初めての距離であり、ここでも人気はビンゴガルーの後塵を拝した。しかし、覚醒したリキアイオーの強さは本物で、あっさり逃げ切ってしまった。
それから怒涛の快進撃が始まった。スプリングS(2着ヨシノスキー)、弥生賞(2着カツラノハイセイコ)と破竹の4連勝、その勢いのまま皐月賞本番を迎えた。当然、1番人気に推されたが、さらに1ハロン伸びた2000mは同馬には長すぎた。それ以上に、疲労がピークを迎えていたはずだ。それでも4着に粘ったが、その先、1着でゴール板を駆け抜けることはなかった。
地方馬並みの使われ方も当時は珍しくなく、走る労働者といわれたトウフクセダンなどとにかく重賞レースに出続けた強者もいた。だから、過酷なローテーションも批判されることはなかったが、馬は相当きつかっただろう。その後はダービー8着、函館記念11着、そしてその年の10月、中京で行われた地方競馬招待8着が最後のレースになってしまった。
もし、生まれた時代が違っていたなら、マイル戦線の主役になり、GⅠの1つや2つ勝っていただろう。そのくらい皐月賞までは、圧巻の逃げを見せていた。ビンゴガルーが皐月賞を勝ち、カツラノハイセイコがダービーを勝った。ライバルたちの栄光の陰で、わずか4歳で燃え尽きたリキアイオーを思い出し、競走馬が大事に使われる今の競馬界をうれしく思う。そんな恵まれた時代に育ったクラシック候補たちが、共同通信杯でどんな走りを見せてくれるのか楽しみにしている。
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