21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

震災復興は省エネの理想地域をめざすべきでは

2011-03-31 09:42:18 | 政治にモノ申す
 東日本大震災の復興は戦後復興に次ぐ厳しいものになることは間違いない。単に経済の復興にとどまらず、これからの日本の暮らしはどうあるべきかが大いに問われている。福島第一原発の破壊で、われわれは文明の危うさを思い知らされた。今は安全確保と電力供給に注目が集まるが、同時にこのまま電気に頼る生活を続けるべきなのかを真剣に考えなければらないのだろう。

 脱原発、脱石油、言葉にするのは簡単だが、太陽光や風力といった自然エネルギーへ移行するにしても今の暮らしを続ける限り到底追いつかない。需要の見直しを計ることが重要だ。今、国民が節電に励んでいるが、これを緊急事態ではなく日常化することが求められているのだ。

 とはいえ、家庭における電力消費の見直しは容易だが、工場など産業エネルギーは経済と表裏一体であり、一朝一夕にできる問題ではない。しかし、やらなければならない。石油にたよならない自動車を作ったではないか。それを考えれば、企業も国も真剣にとりくめばエネルギーの将来は見えてくるはずだ。

 原発は電力の大量供給と二酸化炭素削減という、良い面だけを強調してこれまで推進してきた。しかし、大きな落とし穴があった。震災復興に取り組むにあたって、国は原状復帰ではなく、新たな未来の創造に取り組む必要がある。エネルギー問題は、その核となるテーマだ。大量消費、大量供給への復帰をめざすのではなく、東日本の復興は省エネを念頭に置いた理想地域を目指すべきではないか。そうすることが多くの犠牲に報いることではないのか。
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なぜ福島廃炉と言えないのか?

2011-03-30 08:50:25 | 政治にモノ申す
 「廃炉の可能性が高い」。昨日の参院予算委員会で社民の福島みずほ議員の「福島第一原発は地元の議会でも廃炉の要望がでているが」という質問への、菅首相の答弁である。

 可能性が高いということは、今後の方針がたっていないということだ。数日前、私は現在行われている復旧作業は再開のためなのか、廃炉のためなのか分からないという記事を書いたが、その疑問がやっと一部解けた。と同時にあらためて原発が人知を超えた存在であることを思い知らされた。

 今は暴走する原子炉をひたすら冷却するのみということなのだろう。言いかえれば、すべてはそれからということのようだ。だが、素人ゆえかもしれぬが、どうしても廃炉と再開では作業の仕方が異なるのではないかという疑問は残る。確かに、完全に暴走が止まるまで手がつけられないと言われればそれまでだが、廃炉にするなら、もっと違うやり方があるのではないかという気がしてならないのだ。
 今行っているのは施設の機能回復による停止であるが、廃炉を前提とするならもっと早期に決着をつける方法があるような気がするのだ。もちろん、ド素人の想像にすぎないことはわかっている。
 しかし、廃炉にするという方針が決まっていないという現実が、どうしてもあわよくば再開を念頭においた作業をしているように思えるのだ。
 
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新聞にみるマスコミの動揺

2011-03-29 08:55:01 | 雑記帳
 大震災以降、新聞各紙は震災報道にしのぎを削っている。刻々と広がる被害状況と諸問題、被害者の生活状況、支援の輪、政治課題など、どちらから開けても震災一色である。報道そのものを非難するつもりはないが、紙面構成には正直癖癖している。最初の一週間はともかく、それ以降も変わらない紙面構成は報道がこの一大事をことさら煽っているだけのようにしか思えないのだ。

 すべて必要な報道であるとしても、面数を増やすなり、緊急性のない週末の特集面を休んで通常紙面の中面に震災情報をまとめて掲載するとか、方法はいくらでもあるはずだ。震災報道によって、ほかの報道が削られているのは明らかで、一体、読者に何を求めているのかという素朴な疑問がわいてくる。

 戦後最大の震災によってマスコミが冷静な判断を見失っているように思える。

 

 
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こんな時の選挙に違和感

2011-03-28 08:41:54 | 政治にモノ申す
 非常事態の中、統一地方選が始まった。複雑な思いである。
 東日本を襲った大震災を一地域の出来事と割り切れたなら、選挙に違和感は感じないのだろうが、どう考えても戦時下に等しい国家の非常事態と思えてならないだけに、何とも割り切れない。

 思い切ってすべての選挙を延期するべきではなかったのかと思えてならない。たとえば、都知事選。電力事情や被害地域を配慮して、選挙カーは極力控えるなど気遣いは見られるが、そんな気遣いをするくらいだったら、あわてて選挙を断行することはなかったのではないのか。選挙を延期して困るのは、候補者だけであり、住民は何も困らない。行政にしても、実際の業務に支障などないはずだ。首長や議員が住民サービスの実務を行うわけではないし、議員報酬が跳ね上がるわけでもない。影響があるとすれば、6月の地方議会がどうなるかだけだろう。それとて、どうにでもなる問題だ。それより、住民が冷静に政治選択をできない事態の中で、どさくさで4年間を託す政治を選ぶ方が大問題ではないのか。

 実際、都知事選候補者の口からでるのは災害一辺倒である。もし、この大震災がなければ災害対策がこれほで語られることのなかったテーマである。異常なのである。

 地方都市も同じだ。災害一色の選挙がまともだとは思えない。

 選挙は延期すべきだったと思う。こんなところにも国の危機意識の希薄さを感じる。

 
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支援の輪を横目に政治家は何思う

2011-03-27 08:27:12 | 政治にモノ申す
 しつこいと思われようが言いたいことはやっぱり言いたい。この国の政治家は鈍感すぎる。今頃になって、谷垣総裁が大連立の可能性について発言するなど、とにかくやることなすことトロ過ぎる。やれ、連立となれば政策協議がどうの、菅退任がそのタイミングだなどと、言えば言うほど党利党略が見え見えではないか。菅首相は自己保身みえみえで連立を持ちかけたが、受ける方も感覚はまったく同じというのだから救いようがない。いったい、この国の危機をどう認識しているのか。アホかお前らである。

 党利党略を考えるなら、尚更ここは四の五の言わずに全員野球しかねえだろうが。そんなことすらわからないアンポンタンどもが、この国の政治を動かしてると思うと、絶望的な気分になる。

 でも、でもである。諦めてはいけないのだ。アスリートやアーチスチトが国民に訴えるメッセージに偽りはみじんも感じられない。もちろん一般国民の支援の輪もそうだ。みんな損得抜きに、この危機を乗り越えようと必死なのだ。

 その輪に加わっていないのは、首相を筆頭とする間抜けな政治家だけ。そんな気がしてならないのだ。
コメント (2)
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